衣川・平泉
平安初期、北上川の支流の衣川付近に、朝廷による関や館が設けられたといふ。
○もろともに立たましものを、陸奥の衣の関を
その後この地方は豪族の安倍氏の全盛期を迎へた。前九年の役で源義家が奥州平定に赴いたとき、衣川の柵で安倍貞任と対峙し、連歌を交した。
○衣のたてはほころびにけり/年を経し糸の乱れの苦しさに 源義家/安倍貞任
安倍氏が敗れて滅んでのち、出羽の清原氏が勢力を広げた。清原氏の内紛が起ると、源義家が再び奥州に赴き、これを平定した(後三年の役)。このとき義家に味方したのが、清原清衡である。清衡は姓を元の藤原に戻し、母や妻の出た安倍氏の故郷に近い平泉に居を構へ、東北の牧馬や砂金などを掌握してこの地方を統一して、地方文化の繁栄を極めた。奥州藤原氏である。氏寺の中尊寺は、数百名の僧が営む大規模な寺だったといふが、源頼朝の奥州平定により、当時の繁栄を伝へるのはほとんど金色堂のみとなった。
平泉に逃れてかくまはれた源義経が、藤原泰衡の攻撃を受けて自害するときの歌。
○六道の道のちまたに待てよ君、後れ先立つならひありとて 弁慶
○後の世もまた後の世もめぐりあへ、
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○涙をば衣川にぞ流しつる、古き都を思ひ出でつつ 西行
○夏草やつはものどもの夢の跡 芭蕉
○時うつり人亡び失す。いみじくも金色堂をいとなみにける 佐々木信綱