青森県(陸奥)

みちのくの津軽の野辺の花ざかり げに日之本の錦なるらん  北条時頼

日之本将軍、

十三湊(じゅうさんみなと)、岩木川

 十三湊(十三湖)は、岩木川の河口にある波の静かな入り江で、かつては大型船の出入りする津軽地方の玄関口だった。岩木川を遡って浅瀬石(あせんし)川の合流する藤崎の地が、鎌倉室町時代に日之本将軍として勢力をほこった安東氏の本拠地である。安東氏は平安時代の安倍貞任の子孫ともいふ。

 ○十三(とさ)の砂山米なら良かりょ、西の弁財衆にみな積まそ      民謡

 民謡の「十三の砂山」は国内船の弁財衆(船頭)たちによって南から移入された曲調による十三地方の盆踊唄である。十三湊にはさまざまな船が出入りしたが、安東氏は、日本国内だけでなく、直接大陸と大規模な貿易をしてゐたらしい。岩木川上流の岩木山には、安寿と厨子王の伝説がある。岩木山神社の祭神のうちの国安珠姫(くにやすたまのひめ)神は、安寿姫のことともいふ。



壷の石碑

上北郡東北町千曳

 平安時代のはじめ、坂上田村麻呂将軍が蝦夷を征討したとき、石文に「日本中央」の意味の言葉を刻んだといふ。都母村以北を征討したことから「つもの石文」ともいふらしい。

 ○陸奥(みちのく)の奥行かしくぞ思ほゆる、壷の石碑(いしぶみ)、外の浜風       西行

 ○いしぶみや、津軽の遠にありと聞く、えぞ世の中を思ひ離れぬ  藤原清輔

 千島列島を含めた日本の中央の意味なのだともいひ、西の「大和」に対する東日本としての「日之本」の中央なのだともいふ。



坂上田村麻呂とねぶた

 青森県のねぶた祭に歌はれる歌は、むかし坂上田村麻呂将軍が、八甲田山の蝦夷をおびきよせたときに兵士に歌はせた歌といはれる。

 ○ねぶた流れろ、忠臣(まめのは)とまれ、ださはせよだせよ

 ねぶたは旧暦七月(現在は八月)一日〜七日の行事であるが、古い素朴な形としては「草ねぶた」といって、子供たちが木の枝の先に灯籠を下げて七晩家々を廻り、七日目にそれを海に流すといふ、盆迎への行事だったらしい。各地の「七晩げ」の行事も類似のものである。

 東北地方には坂上田村麻呂が創建したといふ神社仏閣は多い。弘前市津賀野の三日月神社も、田村麻呂将軍の創建といふ。鎌倉時代に、出家の身の北条時頼が諸国を巡ったとき、三日月神社を詣でて詠んだといふ歌がある。

 ○みちのくの津軽の野辺の花ざかり げに日之本の錦なるらん   北条時頼



うとうやすたか

青森市安方 善知鳥(うとう)神社

 津軽の海岸に住む善知鳥(うとう)は、ウミスズメ科の鳥で、上くちばしにこぶ状の突起があり、鳴きかたにも特徴がある。親鳥がウトウと鳴くと、子の鳥はヤスタカと鳴いて巣から出て来るといふ。そこで漁師は親鳥の声を真似て、子が出てきたところを捕へるのだが、それを見た親鳥は血の涙を流して飛び回るといふ。その涙がからだに付くと腐るので、蓑と笠を着けて捕へたのだといふ。

 ○子を思ふ涙の雨の、笠の上にかかるもわびし。やすたかの鳥   西行

 ○みちのくの外が浜なる呼子鳥。鳴くなる声は、うとうやすたか  藤原定家

 むかし外が浜の漁師が、鳥の祟りのために死に、その霊は子孫にも会へずに諸国をさまよってゐた。霊は越中立山で、ある僧に出会ひ、僧に自分の供養を依頼した。そして僧が外が浜を訪れて祈祷することによって救はれたといふ。以来、死んだ漁師が、あの世で血の雨を浴びて苦しまぬやうに、蓑と笠をその霊前に供へるのだといふ。(謡曲・善知鳥)

 青森市に善知鳥神社があり、江戸時代の由来記によると、むかし善知鳥中納言安方朝臣といふ人が、讒言によって流罪となってこの地に住み、先祖の守り神である宗像の神(市杵島姫ほか二神)をまつったのが、善知鳥神社であるともいふ。あるとき漁師が善知鳥を射殺したために、数万羽の大群が田畑を荒らしたので、安方朝臣の祟りだと恐れて鳥の霊をまつった祠の跡が境内にあるといふ。



小川原湖の姉妹

 むかし京の公卿の橘道忠といふ人が、讒言によって陸奥国に流された。京に残された二人の娘は、父を慕って慣れぬ旅支度で陸奥国を訪れたが、道に迷ひ、ある美しい月の夜に父の幻を見て、次々に小川原沼に導かれて身を沈めたといふ。沼には大蛇が棲んでゐたともいふ。

 ○姉といもとが小川原の沼に、浮かぶ瀬もない大蛇ゆゑ

 橘道忠は、白鳳のころの人で、仏の教へのままに旅に出たともいふ。姉妹の名は玉代姫、勝世姫といひ、湖畔の沼崎観音にまつられてゐる。



 下北半島の北、下北郡大畑町の八幡宮に、後醍醐天皇御宸筆の和歌があるといふ。

 ○した紅葉かつ散る山の夕時雨、濡れてや鹿のひとり鳴くらむ   後醍醐天皇

 この地の材木業の菊池家が、文化四年(1807)に松前へ移住するにあたって神社に奉納したものといふ。菊池家は屋号を熊野屋といひ、その先祖は南北朝のころ紀州熊野から移住してきたもので、この歌はその先祖が賜ったものといふ。

 古くからの樵には、木地師が惟喬親王を祖とするやうに、先祖に関するさまざまな伝承があったと思はれる。東北地方には良い樹林とマタギがあり、林業は近世までの繁栄の元の一つだったやうだが、明治の戊辰戦争で会津藩他諸藩が敗れて以後、東北地方の山林は極度に高い比率(九十五パーセント以上、『風土記日本』による)で国有化され、以来「貧しい東北」のイメージが成立して行ったといふ。



津軽じょんから節

浅瀬石川

 ○津軽良いとこリンゴの国よ、娘十八お化粧で飾る、岩木お山は男で飾る

 慶長(1596〜)の頃、初代津軽藩主の津軽為信に滅ぼされた千徳政氏(浅瀬石(あせんし)城主)の墓を、残党刈りに来た兵があばいた。この非道なふるまひに抗議して、常縁(じょうえん)といふ僧が、浅瀬石川の河原に入水したといふ。以来その河原は常縁河原と呼ばれたが、のち縮まって上河原(じょんから)となった。この地で千徳家の霊を慰めるために里人が唄ひ継いできた唄が、じょんから節であるといふ。



諸歌

 ○蜜蜂の巣箱に我は耳あてて、はるかにも聞く春の訪れ      秋田雨雀(作家)