霧島連峰・高千穂峰
高天原から高千穂峰に降臨した
瓊瓊杵尊は、
○沖つ藻は辺には寄れども、さ寝床もあたはぬかもよ、浜つ千鳥は 瓊瓊杵尊
嘆きの森
オノゴロ島に降りた伊邪那岐・伊邪那美の二神は、天の御柱を見立ててめぐりあひ、国生みをされた。最初に生まれたのが
○ねぎ事をさのみ聞きけむ。社こそ、はては嘆きの杜となるらめ 讃岐
○生ひ立たで枯れぬと聞きし木の本のいかでなげきの杜となるらん 元輔
国分市上小川(旧東国分村)に「
○秋のくる気色の森の下風にたちそふものは、あはれなりけり 待賢門院堀川
国分駅北の姫城は、古代の隼人反乱の時の女王(女酋)の遺跡といひ、「風の森」がある
○恨みじな、風の森なるさくら花、さこそ仇なる色に咲くらめ 夫木抄
正八幡宮
隼人町の鹿児島神宮は、
○鳴る神の山めぐりする絶え間より現はれ出づる秋の雨雲 入道龍伯
開聞の里
薩摩半島南端の
○いにしへも今もあらざり、
島津家のいろはうた
島津忠良(日新斎)は、戦国時代に薩摩・大隅・日向を平定し、島津家中興の祖といはれる。万ノ瀬川に橋を掛け、養蚕などの産業を興し、多くの仁政を敷いた。 日新の作った「いろは歌」は、代々の藩主によって奨励され、薩摩独特の学風、士風が育っていった。最初の「い」の歌と、最後の「す」の歌。
○いにしへの道を聞きても唱へても、わが行ひに、せずば甲斐なし 島津日新
○少しきを足れりとも知れ。満ちぬれば月もほどなく
日新は、守護職を子の貴久に譲って加世田に引退し、没後は加世田の日新寺にまつられた。この寺は今の竹田神社(加世田市竹田)である。貴久の代に種子島に鉄砲が伝来した。
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貴久の子に、義久、義弘、歳久の兄弟がある。義久は日向国の領地を回復したが、天正十五年の秀吉の九州進攻の前に降伏し、出家して弟の義弘が当主となった。
歳久は秀吉軍に最後まで抵抗し、天正二十年に竜ヶ水に自害した。鹿児島市吉野町の平松神社(旧・心岳寺)にまつられてゐる。
○
島津義弘は、文禄元年の朝鮮出兵に従軍し、栗野(栗野町)の八幡社で戦捷を祈願した。
○野も山も皆白旗となりにけり。今宵の宿は勝栗の里 島津義弘
孝行橋
鹿児島城下恵比寿町に元板橋といふ橋があった。橋のそばに正右衛門といふ貧しい若者が、重い病の母と暮らしてゐた。その親孝行の暮らしぶりを藩主の島津吉貴が賞でて屋敷を与へるなどしたといふ。橋の名は孝行橋と呼ばれるやうになり、橋柱に歌も刻まれた。
○幾世にか掛けて朽ちせぬ人の子の道ありし名は橋に残りて
諸歌
○時ならぬ冬まで残る木の本は、これや、常世の宿の橘
西南戦争で敗れた西郷隆盛への哀悼歌。
○濡れ衣を干さうともせず子どもらがなすがまにまに果てし君かな 勝海舟
硫黄島
硫黄島は鬼界ヶ島とも呼ばれたらしい。治承元年、鹿ヶ谷事件で鬼界が島へ流された平康頼の歌がある。
○薩摩潟、沖の小島に我はありと親には告げよ。八重の潮風 平康頼
壇ノ浦に敗れた平家の一部は、安徳帝をお護りして、硫黄島に漂着したといふ。平資盛(一ノ谷で討死したともいふが)ら臣下の多くはさらに屋久島や奄美大島へ移住し、硫黄島へ物資を供給した。帝は硫黄島で成人され、平資盛の娘の
○君にけさおく露よりもつらくして消える思ひの身こそつらけれ 平経正
帝は寛元元年(1243)にこの島で崩御されたといふ。
○天雲の立ち覆ふ身と知るからは我が日の本に照るかげもなし 安徳帝
安徳帝が落ちのびたといふ伝説は、対馬、阿波の祖谷地方、その他各地にある。
朝花
奄美大島では、娘が十八にもなると新しい着物を作る。それで木綿花を摘みに娘を畑にやると、十九くらゐの若者が手伝ひに来る。その晩、若者は決まって娘の家にやって来て、三味線を引きながら、娘と掛け合ひの歌を歌ふ。
○花咲きゃまあらい、縁結びまあらい、
こんな歌の掛け合ひをしながら、二人は結局、夫婦になるらしい。
小島の暗河
○だんと
暗河とは、洞穴の奥に湧き出してゐる地下の湧き水のことをいふ。男の兄弟をヰヒリと呼び、女の姉妹をヲナリと呼ぶ。
むかしある