沖縄の古歌謡集「おもろさうし」にある沖縄の開闢神話を語る歌。適宜漢字で表記した。太字は神名、地名。
昔、始りや。照こ大主や。清らや照りよわれ。せのみ、はぢまりに
照いちろくが、照はちろくが、おさんしちへ、見をれば、座よこしちへ、見をれば、
あまみきよは、寄せわちへ、しねりきよは、寄せわちへ
島作れでて、わちへ、国作れでて、わちへ、
許許太久の島々、許許太久の国々、島作らぎやめも、国作らぎやめも、
照こ、心きれて、せのみ、心きれて、あまみや筋や生すな、しねりや筋や生すな、
しやれば、筋や生しよわれ
今帰仁村
十三世紀ごろの沖縄は、北山、中山、南山の三つに別れて、それぞれに王がゐた。北山の今帰仁城下の志慶真村に、今城仁御神と呼ばれた美しい娘があり、名は乙樽といった。乙樽は、第二の妃として城へ迎へられた。王にはなかなか若君ができなかったが、六十才で亡くなる直前に王妃が懐妊した。王の没後に生まれた若君は、千代松と名づけられ、乙樽が乳母として育て役になった。
○今帰仁の城、霜成の九年母、しじま乙樽が、ぬちゃいはちゃい
まもなく開かれた若君誕生の祝宴で、突如謀反が起った。乙樽ら数人は千代松を守って城を抜け出したが、追手の迫る中で、乙樽は千代松と生き別れとなってしまった。十八年後、千代松は丘春と改名し、旧臣を集めて城を奪還した。城主となった丘春は、乳母だった乙樽を捜し出して、ノロ(最高の神女)に任命したといふ。
那覇市
思鶴は、読谷山間切久良波村の裕福な家に生まれ、幼いころから歌の才にも恵まれた美しい娘だったが、家運が傾き、十三才でやむなく仲島の遊郭に売られることになった。那覇へ向ふ途中の比謝橋で、わが身を歎いて歌を詠んだ。
○恨む比謝橋や、情無ん人の、吾身渡さと思て、かけてうちえら
沖縄の遊郭は特別なものではなく、領主を始め人々の祝の宴なども遊郭で開催されたといふ。思鶴は、その美貌と文才により、たちまち仲島の名花とうたはれた。やがて思鶴は領主の仲里按司の寵愛をうけるやうになり、二人は固い絆で結ばれたやうだった。しかし傍若無人の大金持ちの男から何度も言ひ寄られ、思鶴は、仲里按司への純愛のために、自ら命を断ったといふ。本土の江戸時代初期ころの話。
沖縄県特産の米焼酎、泡盛は、那覇の首里城の城下町などで造られ、かつては酒造所ごとに異なる黒麹菌をもち、独自の味を競ったといふ。それが第二次世界大戦の沖縄戦で米軍によって焼き尽くされたため、戦後はわづかに生き残った同じ菌によって、それぞれの杜氏たちの工夫によって造られてきた。数年前に、東大の研究所に多数の黒麹菌が保存されてゐることがわかり、その菌をもとにした酒造が開始された。首里の瑞泉酒造で生命をよみがへらせた酒は、「御酒」と命名された。保存されてゐた菌は、酒の博士といはれた故坂口謹一郎東大名誉教授によって昭和の初めに収集されたもので、戦後の沖縄を詠んだ博士の歌とともに、今に伝へられたものである。(朝日新聞・天声人語)
○たまきはる命をこめし戦車はも、赤さびはてて荒磯に立つ 坂口謹一郎