宮崎県(日向)

朝月の日向黄楊(つげ)櫛、古りぬれど何しか君が見れに飽かざらむ  万葉集

高千穂

西臼杵郡高千穂町ほか

 瓊瓊杵(ににぎ)尊の天孫降臨の地といはれる高千穂峰は、伝承地が県内に二ヵ所ある。

 一つは西臼杵郡高千穂町の二上山で、麓に高千穂神社(二上神社)がある。源頼朝の代参に詣でた畠山重忠が植ゑたといふ秩父杉が、八百年後の今に伝はる。古い鉄製の狛犬も重忠公ゆかりのものといふ。

 ○高千穂の二上見れば、すめがみの天降りましけむ古へ思ほゆ  鹿持雅澄

 ここから五ヶ瀬川を下ると、速日峰があり、饒速日(にぎはやひ)尊が天降った地ともいふ。

 ○速き日の峰から明けて国の春   露傘

 もう一つは鹿児島県境の霧島連峰の高千穂峰で「雲に聳ゆる高千穂の」と唱歌に歌はれた。幕末以後の「雄大」を好む傾向の歌はこちらを詠んだものである。

 ○皇神の天降りましける日向なる高千穂の嶽や、まづ霞むらむ  楫取魚彦

 霧島六社権現は平安時代に性空上人によって開かれたといふ。付近には奇岩と称するものが多く、小林市東方の石瀬川の陰陽石を歌ふ歌もある。

 ○浜之瀬川には二つの奇石、人にゃいふなよ語るなよ      野口雨情



鵜戸神宮(鸕鷀 草葺不合尊)

日南市

 鵜戸(うど)神宮は、鵜草(うがや)葺不合(ふきあへず)尊をまつり、社殿は日向灘に面した洞窟の中ある。この神は、母神の豊玉姫が産屋の屋根を葺き合へぬうちに早産した神といふ。

 ○あはれとも思ふや。祖母の懐を葺不合の神風の声       伊東義祐

 ○千早振る神代に今もかへる波の玉依るなぎさ、み前にぞなる  玄与日記

 南へ行くと串間市の「宮の浦」がある。玉依姫は鸕鷀 草葺不合尊の后神。

 ○里人に問はずば、いざや、白波の玉依姫の宮の浦とは     伊東義祐



小戸の瀬

宮崎市鶴島

 宮崎市の大淀川の下流を「小戸の渡」といった。小戸は大淀の訛だらうといふ。永禄のころの伊東義祐「飫肥(おび)紀行」の歌。

 ○神代よりその名は今も橘や小戸の渡りの舟の行く末      伊東義祐

 ○日向なる小戸の渡りの潮せみに顕はれ出でし神ぞまします   伊東義祐

 河口付近の「小戸の瀬」は、古来からの禊ぎの地であったらしく、小戸神社がまつられ、夏越し歌に歌はれる。

 ○港口には黄金の真砂、沖の小戸の瀬、宝浮く



式部塚

西都市鹿野田

 むかし京で皮膚病を患った和泉式部が、清水(きよみづ)の観音さまへ詣でると、三薬師に祈れば平癒するといふお告げだった。そこで越後の米山薬師、三河の鳳来寺とめぐって、最後に日向国諸県郡の法華岳薬師に来た。幾日も参籠して祈りを続けたが、いっこうに良い兆しは見えず、悲嘆して歌を詠んだ。

 ○南無薬師、諸病悉除の願立てて、身より仏の名こそ惜しけれ  和泉式部

 (死に行くわが身は惜しくはないが、治せぬ仏の名が惜しい)

 するとどこからか歌が聞えてきた。

 ○村雨はただひとときのものぞかし、己が蓑笠(身の瘡)そこに脱ぎおけ

 歌の通り式部が蓑笠を脱ぐと、もとの美貌をとりもどしたといふ。式部は晩年にお礼詣りのために再びこの地を訪れたが、帰京の途中、急病で世を去ったといひ、西都市鹿野田の式部塚といふのがその墓だといふ。似た話は各地にある。



那須大八郎 鶴富姫

東臼杵郡椎葉村

 東臼杵郡の山間の椎葉村に、平家の落人が逃れて暮らしてゐた。この山里に追討軍としてやって来たのが、那須与一の弟の那須大八郎である。落人たちの中には大八郎に刃向かって殺された者もあったが、多くは従順な態度で降伏した。大八郎は無用な殺生を避け、鎌倉には全員打首にしたと報告し、しばらくこの静かな山里で暮らすことにした。落人たちは大八郎の寛大な処置に感謝し、また鶴富(つるとみ)姫といふ美貌の娘に身の回りの世話をさせた。二人は深い仲となり、姫は大八郎の子を宿した。だが大八郎にはやがて鎌倉へ帰る日が来た。大八郎は姫に那須家伝来の「天国の太刀」を与へ、生まれた子が男子ならこの刀を授けて那須へ連れて来るやうに言って、村を後にした。

 ○那須の大八、鶴富おいて、椎葉立つときゃ目に涙       稗搗節

 生まれた子は女の子だったが、成長して婿をもらひ、婿は那須下野守宗久と名告った。今でも椎葉村には那須姓が多く、この昔話を伝へてゐる。村の十根神社には大八郎が植ゑた栃の木が茂る。



平景清 生目神社

宮崎市

 平景清は、壇ノ浦の決戦に敗れ、日向国に流された。のち許されて源頼朝から所領を賜ったことから、それまでの復讐心をあらため、そのしるしに自ら両眼をくり抜いて見せたといふ。その両眼は空を飛んで、生目神社(宮崎市)のあたりに落ちた。その眼をまつったといふ生目神社(生目八幡社)は、眼病に霊験ありとして信仰されてゐる。

 ○景清く照らす生目(いくめ)の鑑山、末の世までも雲らざりけり     池田喜八郎



日向の伊東氏

日南市

 霧島山の北の麓の小林市真方の愛宕神社に珍しい石碑があり「霧嶋御宝前敬白 元亀三年三月二十三日」と刻まれてゐる。元亀三年(1572)三月とは、戦国時代に日向の伊東氏と薩摩の島津氏が、木崎原(えびの市)で決戦した二か月前のことで、伊東の武士たちが篭もって霧島六所大権現に戦捷祈願したときのものといはれる。その日は、二十三夜の月待ちの日で、農民たちは村の一か所に忌篭りをして豊作を祈る日だったが、武士も同じ日を選んだやうだ。

 ○二十三夜の月さへ待てば、思ひかなはぬことはない

 合戦は島津氏の勝利となり、日向は島津氏の支配下となっていった。伊東氏の一族からは、天正の少年使節の伊東マンショが出てゐる。飫肥(おび)城下(日南市)の伊東家墓地にはマンショの母の墓がある。

 ○マンショの母が古墓、去りかねて、飫肥に日暮れしわが冬の旅  野田宇太郎



諸歌

 ○なつかしき城山の鐘、鳴りいでぬ。幼かりし日聞きしごとくに  若山牧水