島津家のいろはうた

鹿児島市

 島津忠良(日新斎)は、戦国時代に薩摩・大隅・日向を平定し、島津家中興の祖といはれる。万ノ瀬川に橋を掛け、養蚕などの産業を興し、多くの仁政を敷いた。 日新の作った「いろは歌」は、代々の藩主によって奨励され、薩摩独特の学風、士風が育っていった。最初の「い」の歌と、最後の「す」の歌。

 ○いにしへの道を聞きても唱へても、わが行ひに、せずば甲斐なし 島津日新

 ○少しきを足れりとも知れ。満ちぬれば月もほどなく十六夜(いざよひ)の空  島津日新

 日新は、守護職を子の貴久に譲って加世田に引退し、没後は加世田の日新寺にまつられた。この寺は今の竹田神社(加世田市竹田)である。貴久の代に種子島に鉄砲が伝来した。



 貴久の子に、義久、義弘、歳久の兄弟がある。義久は日向国の領地を回復したが、天正十五年の秀吉の九州進攻の前に降伏し、出家して弟の義弘が当主となった。

 歳久は秀吉軍に最後まで抵抗し、天正二十年に竜ヶ水に自害した。鹿児島市吉野町の平松神社(旧・心岳寺)にまつられてゐる。

 ○晴蓑(せいさ)めが玉のありかを人問はば いざ白雲の末も知られず    島津歳久(辞世)

 島津義弘は、文禄元年の朝鮮出兵に従軍し、栗野(栗野町)の八幡社で戦捷を祈願した。

 ○野も山も皆白旗となりにけり。今宵の宿は勝栗の里       島津義弘