香川県(讃岐)

金刀比羅の宮はかしこし。船びとが流し初穂をささぐるもうべ  吉井 勇

讃留霊王

坂出市

 景行天皇の御代に、讃岐の海で大魚が荒れ狂ひ、多くの船を沈めたので、皇子の神櫛(かみくし)王が讃岐国に派遣された。王は、多度津のあたりから櫛梨川(金蔵寺川)をのぼって船を櫛梨(くしなし)山に泊め、船磐(ふないは)大明神をまつって戦捷を祈った。海に戻って首尾良く大魚を退治した後、王は城山(坂出市府中町)に居城を築き、国造に任命された。王は、没後に国府の鎮守の城山神社にまつられ、讃留霊王とも呼ばれた。王の子孫が、讃岐氏、酒部氏である。王はまた櫛梨山に葬られたともいひ、櫛梨神社(仲多度郡琴平町下櫛梨)がある。櫛梨とは酒成(くしなし)の意味で、酒造の祖でもある。



金比羅の神

仲多度郡琴平町

 琴平町の金刀比羅(ことひら)宮は大物主大神を祀り、象頭山(ぞうづさん)金比羅(こんぴら)大権現ともいひ、「海上安全、大漁満足」の神として信仰されて来た。

 ○おんひらひら、蝶も金比羅参りかな               一茶

 ○偶然(たまたま)の紅葉祭に逢ひけるも                   虚子

 酒樽を川に流すと、拾った舟はその酒樽を金刀比羅宮への初穂として届けなければならないといふ「流し樽」の風習がある。波に転がされた酒は実に美味といふ。

 ○金刀比羅の宮はかしこし。船びとが流し初穂をささぐるも、うべ  吉井 勇



象頭山の清少納言塚

仲多度郡琴平町

 讃岐の象頭山の鐘楼のそばに、塚があり、「清少納言の塚」といはれた。むかし寺でこれを移転しようと思ひ立ったころ、僧侶の夢に女が現はれて歌を詠んだ。

 ○現つなき跡のしるしを誰にかは問はれんなれど、ありてしもがな

 この歌により清少納言の墓に間違ひないとわかり、そのまま手をつけぬこととしたといふ。諸国に似た話があり、甲斐国韮崎では赤染衛門の話になってゐる(「なき跡のしるしとなればそのままに訪はれずとてもありてしもがな」)。



崇徳院

坂出市

 保元の乱ののち、崇徳(すとく)院は讃岐の松山郷(坂出市)に移られた。

 ○浜千鳥あとは都に通へども、身は松山にねをのみぞなく     崇徳院

 長寛二年(1164)に四十六歳で崩御されたあと、讃岐白峰陵(坂出市)に葬られた。以後、京の都は源平がしのぎをけづる乱世となり、崇徳院の亡霊によるものと恐れられた。崇徳院は白峰神宮など、讃岐の多くの神社にまつられてゐる。



玉の浦の海女

大川郡志度町 志度寺

 藤原鎌足の追福のため奈良の興福寺の釈迦像が作られたとき、像を飾る玉を運ぶ途中の遣唐使の船が、讃岐の玉の浦で沈没した。藤原不比等は、大急ぎで奈良から玉の浦へ来て、玉の捜索を指揮した。そのころ不比等は一人の海女を妻として、子(藤原房前)を設けた。玉は、妻の海女が海中で発見したが、海女は海中で竜王に襲はれたとき、自分の乳房(ちぶさ)を切ってその中に玉を隠して逃げた。海女はどうにか岸にたどりつき、玉を手渡すとそのまま息絶えたといふ。海女の墓は志度寺にあり、玉は奈良興福寺の釈迦像の眉間に埋め込まれた。次の歌の房前は地名である。

 ○汐みちて島の数添ふ房前の入江入江の松の村立(むらだち)

 ○珠のある水底見ばや三日の海                 弄花



大蓑彦神社

寒川郡寒川町石田

 寒川町の大蓑彦(おほみのひこ)神社は、蓑神(みのかみ)明神とも呼ばれ、初めて蓑を作った神といはれる。一説に素戔嗚尊のことともいふ。水霊神でもあり、大水上神(おほみなかみのかみ)ともいふ。この大水上神の子に寒川比古命、寒川比女命がある。神社の北方に寒川渕といふ泉があり、寒川郡の郡名にもなった。

 ○唐衣(からごろも)ぬふ寒川も青柳の糸よりかくるころは来にけり       西行 懐中抄



弘法大師

善通寺

 善通寺市の善通寺は、弘法大師空海誕生の霊地である。この寺は、空海の父佐伯善通の館跡に、大同二年から六年の歳月をかけて空海が創建したといふが、古く白鳳期から佐伯氏の氏寺があったらしい。空海が修行した我拝師山(若林山)は、山の形から「筆の山」ともいはれる。

 ○筆の山にかきのぼりても見つるかな。苔の下なる岩の景色を   西行



一夜庵

観音寺市

 宗鑑は近江の武家の生れで、若き日に京で将軍足利義尚に仕へたが、義尚の死後、出家して僧となった。山城国山崎に住んで連歌などに親しみ、俳諧の祖とまでもいはれた。

 享禄元年(1528)、宗鑑は西国行脚の帰途に興昌寺(観音寺市)に立ち寄り、この場所を気に入って庵を結んで住むことにした。居間の短冊に、一風かはった歌が書かれてあった。

 ○上は去り、中は昼まで、下は夜まで、一夜泊りは下下の下の客   宗鑑

 庵には連歌を志す者が多く訪れたが、「下下の下の客」と書かれてあっては、泊まって行くものはなかったといふ話だが、宗鑑の本心は、堂々と泊まって行く客を期待したらしい。この歌から「一夜庵」と呼ばれた。天文二十二年、八十九才でこの地に没した。

 ○宗鑑はどこへと人の問ふならば、ちと用ありてあの世へと言へ   宗鑑(辞世)



日柳燕石

琴平町

 琴平町榎井の加島屋といふ質屋に生れた日柳燕石は、勤王家でもあった父の遺産を背景に花街に出入りするうちに「加島屋の親分」と呼ばれるやうになり、博打打ちになっていった。博打は開いても、自分では打たずに、傍らで酒を飲みながら書を読みふけったといふ。勤王の士との交際も広く、多くの侍をかくまったりした。高杉晋作をかくまった罪で投獄されたが、明治元年に出獄し、そのときの祝の歌(都々逸)。

 ○いせ海老の腰はしばらくかがめて居れど、やがて錦の鎧着る    日柳燕石



諸歌

 ○玉虫のたてし扇を射落せしほまれは那須の与一宗高

 三豊郡三野町の弥谷寺の門前の茶屋で、漫画家つげ義春が戯れに詠んだ句。

 ○野の仏、錫杖(しゃくじょう)もつ手に花一輪  つげ義春

 順礼中に古泉千樫の訃報に接して(場所は高知県室戸岬)

 ○なき人のけふは七日になりぬらむ。遇ふ人もあふひともみな旅人  釈迢空