崇徳院
坂出市
保元の乱ののち、
○浜千鳥あとは都に通へども、身は松山にねをのみぞなく 崇徳院
長寛二年(1164)に四十六歳で崩御されたあと、讃岐白峰陵(坂出市)に葬られた。以後、京の都は源平がしのぎをけづる乱世となり、崇徳院の亡霊によるものと恐れられた。崇徳院は白峰神宮など、讃岐の多くの神社にまつられてゐる。
保元の乱ののち、
○浜千鳥あとは都に通へども、身は松山にねをのみぞなく 崇徳院
長寛二年(1164)に四十六歳で崩御されたあと、讃岐白峰陵(坂出市)に葬られた。以後、京の都は源平がしのぎをけづる乱世となり、崇徳院の亡霊によるものと恐れられた。崇徳院は白峰神宮など、讃岐の多くの神社にまつられてゐる。