愛媛県(伊予)

君がゆくいよの松山、年経ともいよいよ待たむ。伊予の松山  香山景樹

熟田津石湯

松山市道後温泉

 むかし少彦名(すくなひこな)命が死にさうになったとき、大国主(おほくにぬし)命がトンネルを掘って九州の別府温泉の湯を引き、その湯に少彦名命を入れた。すると少彦名命は、「暫し()ねつるかも」と言って起き上がり、元気になったといふ。この湯は、熟田津石湯(にぎたづのいはゆ)と呼ばれ、景行天皇以来、たびたびの天皇の行幸があった。今の松山市の道後温泉のことである。(風土記逸文)

 斉明七年には斉明天皇を乗せた百済救援の船も訪れてゐる。船出のときには、天皇に代はって額田王が歌を詠んだ。

 ○熟田津に舟乗りせむと、月待てば潮もかなひぬ。今は漕ぎ出でな  額田王

 松山市北部の姫原(ひめばら)の地は、木梨軽太子(きなしのかるのみこ)が流罪になった地である。



三島大明神

大山祇神社、高縄神社

 大三島の大山祇(おほやまつみ)神社、北条市の高縄神社は、ともに三島大明神と呼ばれる大山積(おほやまつみ)神をまつり、伊予の豪族河野氏の氏神でもあった。河野氏の祖先の越智高縄といふ人のころ、高縄山(北条市)の頂上に居城をかまへ、神功皇后の新羅征伐にも従軍したといふ。越智氏は代々、大三島の大山積神を氏神としてゐたが、推古天皇の御代に高縄山に新たに社殿を造営して、その先祖の霊とともに大山積神を祀ったのが高縄神社(三島大明神)であるといふ。この越智氏の別れの河野氏は、河野郷(北条市)を拠点として瀬戸内の海運を掌握して勢力を拡大し、河野水軍を率ゐて源平の戦や蒙古襲来時に最大の活躍をした。河野水軍の分派には村上水軍もある。時宗の一遍上人も河野一族から出たといふ。

 むかし越智玉興が、備中の海上で水に餓ゑた時、三島大明神に祈って、海中から清水を授かったといふ伝説や、源頼義が祈願して一子を得たといふ伝説などがある。

 三島大明神は祈雨の神としても知られる。平安時代に藤原実綱が伊予守として伊予に下向したころ大干魃があり、京からともに下向した能因が歌を三島明神に献納したら、雨が降ったといふ。

 ○天の川苗代水にせきくだせ天くだります神ならばかみ      能因

雀鷹(つみ)を題に詠んだ歌(「しもと」は若枝のことだが、刑罰の道具にもなる)

 ○伊予路行く大山つみは、三島江の秋のしもとか、鳥をとるらん  藤原定家



宇摩の関

宇摩郡土居町

 愛媛県東端の宇摩郡土居町は、古代の南海道の近井駅があった場所で、ここには宇摩の関も設けられた。

 ○秋雨に谷のしば栗しばぬれて、わが袖ひたす宇摩の関守     宗祇

 土居町中村の井守神社には、むかし出湯井があり、斉明天皇の御代には道後温泉へ向ふ途中の中大兄皇子らが立寄ったといふ。この出湯は、天武天皇の御代に冷泉となったため、水の神の水波能売(みづはのめ)神を合祀して、井守神社の名となったといふ。

 ○千早振る井守(ゐもり)の神の岩清水、曇りなき世の鏡なるらん      頼直

 土居の地名は、河野氏の分派の土居氏に由来すると思はれ、県内各所に散らばる。



真吉水也

北宇和郡三間町

 戦国のころ、今の北宇和郡三間町土居のあたりを領してゐた土居清良の家臣に、真吉水也といふ侍があった。水也は、悪疾を煩ひ、宮下の谷に隠居して暮らしたが、主家への忠誠心に変りはなかった。庵の壁に貼られた歌がある。

 ○雨あられ雪や氷とへだつれど、解ければ同じ谷川の水      真吉水也

 水也は、病で動かぬ指に筆を縛り付けて、主君の事蹟を綴った『清良記』を著はした。またあるとき扇の要の形から新しい測量法を発見し、弟の甚左衛門に伝授したといふ。



松山の八百八狸

松山市

 むかし松山の久万山に八百八匹の狸が住んでゐた。狸のボスは隠神(いぬがみ)刑部(ぎょうぶ)と名告り、天智天皇の御代からここに住んで松山城を守って来た最長老である。ある日、刑部狸のところに犬の匂ひのする妙な侍が現はれた。後藤小源太といひ、飛騨高山で生れ、幼いころ母を亡くして野白(のじろ)といふ犬の(ちち)で育ったといふ。狸は親しみをおぼえたので、小源太が狸たちに害を及ぼさない代はりに、小源太が困ったときはいつでも助太刀することを約束した。小源太が助けを求めるときの合図は、こんな歌である。

 ○人外の身の性来を引くからは心に心、心して見よ

 ところがこの小源太は、城の悪家老の奥平久兵衛の回し者だったのである。奥平は殿様の側室のお袖と通じて、お家乗っ取りを計画し、殿様に毒を盛って、殿は中風のやうになってしまった。城内は乗っ取り派と正義派に別れて大騒動。狸は、約束と正義の板挟みの中、あちらこちらに神出鬼没の化かしあひを繰り広げる物語が展開されて行く。



伊予の松山

 松山は松平氏十五万石の城下町として栄えた。

 ○春や昔、十五万石の城下かな  正岡子規

 ○逢ふことはまばらに編める伊予簾、いよいよ我をわびさするかな  恵慶

 ○君がゆくいよの松山、年()ともいよいよ待たむ。伊予の松山    香山景樹

 正岡子規は松山市湊町に生まれた。

 ○くれなゐの梅散るなべに故郷につくしつみにし春し思ほゆ     正岡子規



蒲冠者の墓

伊予市上吾川

 伊予市上吾川の称名寺にある鎌倉塚は、蒲冠者(かばかんじゃ)といはれた源範頼の墓だともいふ。実際は長門探題に赴任した北条時直などの類の伝説ではないかと吉田東伍はいふが、夏目漱石の句碑があるので紹介する。

 ○蒲殿のいよいよ悲し、かれ尾花                夏目漱石

 ○木枯しや、冠者の墓撲つ落松葉                夏目漱石



水野広徳

 水野広徳は、軍人として日露戦争に従軍し、日本海海戦を描いたベストセラー『此一戦』を出版。現役を引退してからは、当局の監視の中で、軍縮論や日米非戦論、軍部大臣現役武官制廃止などを主張し、平和主義を貫いた軍事評論家として知られる。

 ○世にこびず、人におもねらず、我はわが正しと思ふ道を進まん  水野広徳