玉の浦の海女

大川郡志度町 志度寺

 藤原鎌足の追福のため奈良の興福寺の釈迦像が作られたとき、像を飾る玉を運ぶ途中の遣唐使の船が、讃岐の玉の浦で沈没した。藤原不比等は、大急ぎで奈良から玉の浦へ来て、玉の捜索を指揮した。そのころ不比等は一人の海女を妻として、子(藤原房前)を設けた。玉は、妻の海女が海中で発見したが、海女は海中で竜王に襲はれたとき、自分の乳房(ちぶさ)を切ってその中に玉を隠して逃げた。海女はどうにか岸にたどりつき、玉を手渡すとそのまま息絶えたといふ。海女の墓は志度寺にあり、玉は奈良興福寺の釈迦像の眉間に埋め込まれた。次の歌の房前は地名である。

 ○汐みちて島の数添ふ房前の入江入江の松の村立(むらだち)

 ○珠のある水底見ばや三日の海                 弄花