吉備の児島
○大和路の吉備の児島を過ぎて行かば、筑紫の児島、思ほえむかも 大伴旅人
児島半島は、「吉備の児島」と呼ばれた島だった。本土との間に瀬戸内の航路が開けてゐたが、高梁川などの堆積作用と海面の後退により遠浅となり、江戸時代の初めごろから干拓が進んで陸続きとなった。それ以来、半島南端の下津井港が、港町として栄え、参勤交代の大名の船や、金比羅参りの船などで賑はった。
○下津井港は入りよて出よて、
○大和路の吉備の児島を過ぎて行かば、筑紫の児島、思ほえむかも 大伴旅人
児島半島は、「吉備の児島」と呼ばれた島だった。本土との間に瀬戸内の航路が開けてゐたが、高梁川などの堆積作用と海面の後退により遠浅となり、江戸時代の初めごろから干拓が進んで陸続きとなった。それ以来、半島南端の下津井港が、港町として栄え、参勤交代の大名の船や、金比羅参りの船などで賑はった。
○下津井港は入りよて出よて、