疫隈の里〜鞆の浦
むかし素戔嗚尊が、
○吾妹子が見し鞆の浦のむろの木は、常世にあれど、見し人そ無き 大伴旅人
能地の浮き鯛
むかし新羅へ向かふ神功皇后の船が、
○春来れば、あちかた海の一かたに浮くてふ魚の名こそ惜しけれ
○水底に酒瓶ありと聞くからに、浮きたいよりは、こちゃ沈みたい 茶山
むかし能地の漁民は、船を家として船上生活をし、平家の落人との伝説もあった。
こしき天神
菅原道真が筑紫下向の折り、
○我いのるたのみもことに真清水の浅かるまじき恵みをぞ待つ 菅原道真
沼田の地は、平家の沼田某らが逃げ隠れた地で、源氏ののりつね朝臣に攻撃されて全滅したといひ、田畑を耕すたびに遺骨が出たといふ話もある。(了俊道行振)
○袖ぬらすならひも悲し、あやめかる沼田の田の草、今日はとりつつ 今川了俊
今櫛山
むかし大富山城に、照日姫といふ美しい姫があった。永禄のころ(1558- 70)のある春、姫は下女たちと連れ立って中野村の岩津山胎蔵寺に花見に出かけた。皆で花に見とれてゐると、若く美しい侍が近寄って来て、桜の枝に短冊をつけて差し出した。侍は東左近といふ名で、姫に一目惚れしたのである。短冊には歌がしたためてあった。
○我が恋は岩津の山の桜花、言はず散りなんことの悲しき 東左近
気品ある若者に恥ぢらひながら、姫は歌を返した。
○思へども我も岩津の花なれば、さそふ嵐に散らざらめやは 照日姫
以来、姫と左近は人目を忍ぶ恋に落ちていった。ところがまもなく、父君のはからひで、姫は三河内村の双子山城に嫁ぐことが決まってしまったのである。姫は父君のいふままに嫁いではみたが、左近のことが忘れられず、すぐに大富山城に帰って来てしまった。それでも母君にさとされて、再び三河内村へ行くことになった。
その途中、姫は、朝日山の頂上の池のそばの弁天さまにお詣りしたいと言ひ出した。一行が険しい山を登り、どうにかお参りをすませ、一息をついたすきに、姫はそばの池に身を投げてゐた。突然、雷雲が起り、あたりは暗闇となって大雨を降らし、池の水が空に巻き昇って大蛇が姿を現した。下女たちは、ある者は逃げ出して山を転げ落ち、残った者はその場で気絶した。明くる日、池の辺には姫の櫛だけが残されてゐたといふ。このことから、朝日山は、今櫛山といふやうになった。
安芸の宮島、宮うつし貝
安芸の宮島(厳島)にまつられてゐる厳島神社は、平清盛が安芸守となったころから、平家一門の篤い崇敬を受けた。宮島の北端を聖ヶ崎といふ。
○よもの海、浪しづかなる時にあひて、
○遠島の下つ岩根の宮柱、波の上より立つかとぞ見る 細川幽斎
安芸の宮島は、潮が満ち引きする浜に大鳥居が立ち、その洲には白い貝が棲み、その貝は鳥居の姿を紋章のやうにうつし出してゐるといふ。宮うつし貝といふ。
○ところから波の
厳島の合戦
天文二十四年、周防国から
○何を惜しみ何を恨まん、元よりもこの有様の定まれる身に
音戸の瀬戸
呉市と倉橋島の間の音戸の瀬戸は、幅が狭く、潮の速さは滝の如しといふ。
○ふなだまの
○船頭可愛や音戸の瀬戸で、一丈五尺の櫓が弱る 音戸の舟唄
この瀬戸は、むかし平清盛が厳島の神と約束して掘り開いたといふ。掘り終らぬうちに日が沈みさうになったので、清盛は
○音戸の瀬戸を切り抜く清盛こそは日の丸の扇で御日を
田植を一日で植ゑ終らないときに長者が扇で夕日を戻したといふ話は、諸国に多い。昔は田植に吉い日と悪い日が決まってゐたため、一日で植ゑなければならないことも多かったらしい。
おほ山姫
広島市と東広島市の境の瀬野峠は、大山ともいふ。
○もみぢ葉のあけのまがきにしるきかな、おほ山姫の秋の宮居は 今川了俊