広島県(備後・安芸)

もみぢ葉のあけのまがきにしるきかな、おほ山姫のあきの宮居は  今川了俊

疫隈の里〜鞆の浦

 むかし素戔嗚尊が、(たけ)(あららき)(ぶとう)の神と名告って旅をしたとき、備後国の疫隈の里で一夜の宿を求めた。里には兄の蘇民(そみん)将来と弟の巨旦(こたん)将来が住み、富裕な弟の巨旦は宿を貸すことを断ったが、貧しい兄の蘇民は粟柄(あはがら)を敷いて座敷をつくり、粟飯で神をもてなした。年を経て蘇民の家を訪れた武塔神は、茅の輪を腰につけることを教へ、茅の輪の霊験によって蘇民の一家は疾病を免れたといふ(備後国風土記逸文)。その茅の輪は、夏越の大祓の「茅の輪行事」のもとともなり、家の戸口に「蘇民将来子孫之門」「蘇民将来子孫繁昌也」と書いた護符などを掲げて魔除けとする習俗もうまれた。疫隈の里とは諸説があるが、福山市の沼名前(ぬ な くま)神社の地ともいふ。ここの海は、鞆の浦といひ、瀬戸内の重要な航路だった。

 ○吾妹子が見し鞆の浦のむろの木は、常世にあれど、見し人そ無き  大伴旅人



能地の浮き鯛

三原市

 むかし新羅へ向かふ神功皇后の船が、能地(のうぢ)(三原市)の瀬戸を通ったとき、鯛の群れが船に寄ってきた。幸先の良いことだと皆で喜び、海に樽酒をふるまったので、鯛は酒に酔って浮かび上がったといふ。以来、春になるとこの海では鯛が浮かぶのだといふ。春に産卵のために瀬戸内に戻ってきた鯛が、ここの狭い海峡で潮流の変化に遭遇し、一瞬浮き袋の調節機能がうまく働かなくなるらしい。今は鯛そのものが減って来ないさうだ。(末広恭雄「魚と伝説」)

 ○春来れば、あちかた海の一かたに浮くてふ魚の名こそ惜しけれ

 ○水底に酒瓶ありと聞くからに、浮きたいよりは、こちゃ沈みたい  茶山

 むかし能地の漁民は、船を家として船上生活をし、平家の落人との伝説もあった。



こしき天神

三原市沼田東 沼田神社

 菅原道真が筑紫下向の折り、沼田(ぬた)川を少しのぼった沼田村(三原市沼田東)に滞在し、乾飯(ほしいひ)をこしきで蒸して食べた。道真が置き忘れたこしきをまつったのが「こしき天神」(沼田神社)であるといふ。近くには道真が掘った井戸があったといふ。

 ○我いのるたのみもことに真清水の浅かるまじき恵みをぞ待つ    菅原道真

 沼田の地は、平家の沼田某らが逃げ隠れた地で、源氏ののりつね朝臣に攻撃されて全滅したといひ、田畑を耕すたびに遺骨が出たといふ話もある。(了俊道行振)

 ○袖ぬらすならひも悲し、あやめかる沼田の田の草、今日はとりつつ 今川了俊



今櫛山

比婆郡西城町

 むかし大富山城に、照日姫といふ美しい姫があった。永禄のころ(1558- 70)のある春、姫は下女たちと連れ立って中野村の岩津山胎蔵寺に花見に出かけた。皆で花に見とれてゐると、若く美しい侍が近寄って来て、桜の枝に短冊をつけて差し出した。侍は東左近といふ名で、姫に一目惚れしたのである。短冊には歌がしたためてあった。

 ○我が恋は岩津の山の桜花、言はず散りなんことの悲しき     東左近

 気品ある若者に恥ぢらひながら、姫は歌を返した。

 ○思へども我も岩津の花なれば、さそふ嵐に散らざらめやは    照日姫

 以来、姫と左近は人目を忍ぶ恋に落ちていった。ところがまもなく、父君のはからひで、姫は三河内村の双子山城に嫁ぐことが決まってしまったのである。姫は父君のいふままに嫁いではみたが、左近のことが忘れられず、すぐに大富山城に帰って来てしまった。それでも母君にさとされて、再び三河内村へ行くことになった。

 その途中、姫は、朝日山の頂上の池のそばの弁天さまにお詣りしたいと言ひ出した。一行が険しい山を登り、どうにかお参りをすませ、一息をついたすきに、姫はそばの池に身を投げてゐた。突然、雷雲が起り、あたりは暗闇となって大雨を降らし、池の水が空に巻き昇って大蛇が姿を現した。下女たちは、ある者は逃げ出して山を転げ落ち、残った者はその場で気絶した。明くる日、池の辺には姫の櫛だけが残されてゐたといふ。このことから、朝日山は、今櫛山といふやうになった。



安芸の宮島、宮うつし貝

佐伯郡宮島町

 安芸の宮島(厳島)にまつられてゐる厳島神社は、平清盛が安芸守となったころから、平家一門の篤い崇敬を受けた。宮島の北端を聖ヶ崎といふ。

 ○よもの海、浪しづかなる時にあひて、(ひじり)ヶ崎を今日見つるかな  曼珠院法親王

 ○遠島の下つ岩根の宮柱、波の上より立つかとぞ見る       細川幽斎

 安芸の宮島は、潮が満ち引きする浜に大鳥居が立ち、その洲には白い貝が棲み、その貝は鳥居の姿を紋章のやうにうつし出してゐるといふ。宮うつし貝といふ。

 ○ところから波の白木綿(しらゆ ふ)、かけまくもかしこき神の宮うつし貝



厳島の合戦

佐伯郡宮島町

 天文二十四年、周防国から陶晴賢(すゑはるかた)の二万の兵が厳島に侵攻したが、毛利元就は四千の兵でこれを打ち敗った。毛利氏は村上水軍を味方につけたといひ、以後中国地方の大大名となっていった。陶晴賢はこのとき辞世の歌を残して自害した。

 ○何を惜しみ何を恨まん、元よりもこの有様の定まれる身に    陶晴賢(すゑはるかた)



音戸の瀬戸

安芸郡音戸町

 呉市と倉橋島の間の音戸の瀬戸は、幅が狭く、潮の速さは滝の如しといふ。

 ○ふなだまの(ぬさ)も取りあへず、落ち(たぎ)つ早き(うしほ)を過ぎにけるかな  鹿苑院

 ○船頭可愛や音戸の瀬戸で、一丈五尺の櫓が弱る  音戸の舟唄

 この瀬戸は、むかし平清盛が厳島の神と約束して掘り開いたといふ。掘り終らぬうちに日が沈みさうになったので、清盛は日招(ひをき)山にのぼり、太陽に向かって扇を振って日を招き、日没を留めさせたといふ。高田郡吉田町の田植歌にも歌はれる。

 ○音戸の瀬戸を切り抜く清盛こそは日の丸の扇で御日を()ぎもどいた

 田植を一日で植ゑ終らないときに長者が扇で夕日を戻したといふ話は、諸国に多い。昔は田植に吉い日と悪い日が決まってゐたため、一日で植ゑなければならないことも多かったらしい。



おほ山姫

広島市安芸区瀬野

 広島市と東広島市の境の瀬野峠は、大山ともいふ。

 ○もみぢ葉のあけのまがきにしるきかな、おほ山姫の秋の宮居は  今川了俊