壷の石碑

上北郡東北町千曳

 平安時代のはじめ、坂上田村麻呂将軍が蝦夷を征討したとき、石文に「日本中央」の意味の言葉を刻んだといふ。都母村以北を征討したことから「つもの石文」ともいふらしい。

 ○陸奥(みちのく)の奥行かしくぞ思ほゆる、壷の石碑(いしぶみ)、外の浜風       西行

 ○いしぶみや、津軽の遠にありと聞く、えぞ世の中を思ひ離れぬ  藤原清輔

 千島列島を含めた日本の中央の意味なのだともいひ、西の「大和」に対する東日本としての「日之本」の中央なのだともいふ。