鍋島藩の追腹禁止令

佐賀市

 佐賀鍋島藩主・鍋島勝茂の嫡子の忠直が、江戸の藩邸で天然痘により病死した。このとき忠直の側近四名が殉死したが、同じ側近の江副金兵衛だけが行方をくらまし、不忠義者と罵られた。実は金兵衛は、高野山に隠って亡君の菩提を弔ひつつ、その姿を像を刻んでゐた。一年後、佐賀の高伝寺で一周忌の法要が行なはれると、そこへ金兵衛が現はれ、忠直の像を献じ、庫裡へ退いて自害した。

 ○去年(こぞ)の今日なくなりし君弔ひて今年の今日は跡したひゆく   江副金兵衛

 忠直の子の光茂は、藩主となって寛文元年(1661)に追腹(おひばら)禁止令を出してこれを戒めた。徳川幕府もこれにならひ、二年後に殉死の禁止を定めた。のちの鍋島藩士の山本常朝は、主君の死に際して出家の道を選んだ。常朝が晩年に語った言葉が『葉隠(はがくれ)』として編纂されたといふ。