松浦佐用姫

東松浦郡浜玉町

 宣化天皇の御代に朝鮮半島南部の任那を救ふために松浦(まつら)の港に来た将軍大伴狭手彦(さ で ひこ)は、しばらく松浦の篠原村に滞在し、村の長者の娘の弟姫子(おとひめこ)を妻とした。やがて出航の日がきて、狭手彦は姫に形見の鏡を与へて任那に向かった。別れを悲しむ姫が、船を追って玉島川を渡ったとき、鏡の小紐が切れて、鏡は川に落ちた。姫は、さらに高山の峰に登って、離れて行く船を望み見て、領巾(ひれ)を振り続けたといふ。この山を領巾振(ひ れ ふり)山といふ。弟姫子は、佐用姫(さ よ ひめ)ともいふ。

 ○遠つ人、松浦佐用姫、(つま)恋ひに領巾振りしより、負へる山の名 山上憶良

 ○海原の沖行く舟を帰れとか、領巾振らしけむ。松浦佐用姫   山上憶良

 それから五日後の夜、姫のもとに通ってきた男があった。容姿は狭手彦にうり二つで、その日から夜毎に来ては朝目覚めると去ってゐた。不審に思った弟姫子は、寝る前に男の衣に麻糸を縫ひ付けておいた。翌朝その糸をたどってゆくと、山の沼に至った。沼には、頭が蛇で身は人間の形をした蛇が横たはり、たちまち男の姿になって歌を詠んだ。

 ○篠原の弟姫の子を、さ一夜(ひとゆ)も、率寝(ゐね)てむ(しだ)や、家にくださむ (肥前風土記)

 それきり弟姫子の姿は見えなくなり、数日後に沼の底に遺体となって発見されたといふ。