仁に遠き者は道に疎し

豆まき 遠仁者疎道
 不苦者于智

漢詩のように見えるが、

 オニハソト
 フクハウチ

と読むらしい。節分の豆まきの掛け声の「鬼は外、福は内」である。あるいは次のようにも読むという。

 仁に遠き者は道に疎し
 苦しまざる者は智にうとし

 「于」には「ゆく」という意味があるそうだが、「歎く」という意味もあり、もともと紆余曲折というか曲がったものをいうと辞書にあるので「うとし」とも読むのだろう。
 仁とは愛に近いような徳のことをいうのだろうし、苦しむことも大事だという話にもなる。実は落語の『一目上がり』という話に出てくる。
 本来の「新年」であるところの立春を迎える気持ちとしては、良いものだろう。
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志ん朝の落語を聞く

古今亭志ん朝の40代のころの落語CDの解説(榎本滋民氏)を読むと、明治の中ごろまでは40代くらいの人を「名人」と呼んだ例はいくつもあったので、われらが志ん朝を名人と呼ぶことにためらいはないのだ、といった意味のことが書かれていた。明治の末以降からどうも老人天国的な風潮になってしまったようだという。そのようなことは何も落語家の世界だけに限ったことではないのだろう。

けれど明治の後半から昭和の前半にかけては名人にふさわしい人が多かったのだろうとも思う。古典落語の人情話の話の緻密さなどは、近代文学の時代だからこそ整えられていったような気がする。
『文七元結』という噺で、半年で50両を返済する約束をするというのは、江戸中期ではなく、明治の初めに1両を1円に切り替えたころの物価水準でなければ考えられない。明治の名人によって噺の形が整ったことの名残りなのだろうなどと思った。そうして明治の名人たちは老人となっても尊敬を集めたが、昭和の後半以後の時代では、どの分野でもともすれば老人天国的な弊害も生じやすくなったということなのだろう。

『御慶(ぎょけい)』という噺は、年末の湯島天神の富籤に当たった男が、羽織を買って着て元旦の年始回りに行くという目出度い話。道を歩いていたら向こうから恵方参りの帰りの知人に会うというのだが、その年の歳徳神の方位にあたる宮に参拝する恵方参りは、現在の知識では明治の初期に流行したものということになるので、そのころは富籤はすでに廃止されていたと思う。こういうのも明治の香りなのかもしれない。あまり野暮な歴史考証をしすぎても噺は面白くない。
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とんど焼き・左義長・小正月

 1月15日を小正月といい、民間では古くは小正月の行事が正月の中心行事だったという。旧暦では1月15日の夜は満月である。秋田の「なまはげ」など、元は小正月の日に行われた新年の行事も多い。
 現在でも、地方によっては小正月に小豆粥を食べたり、竹筒でその年の吉凶を占う筒粥神事などが知られる。また、前年のおふだや神棚の飾り、正月の松飾などを持ち寄ってお焚き上げする「とんど焼き」も広く行われる。とんど焼きは、火で焼くことによって古い年のものをお祓いし、新年の新しい命の再生を願うものなのだろう。その火で焼いた餅や団子を食べると病気にならないともいう。
 「とんど焼き」の「とんど」の意味は不明である。とんど焼きではなく「左義長(さぎちょう)」と呼ぶ地方もあり、京都で行われた行事を左義長と呼んだ影響と思われるが、この言葉の意味も不明である。一説には、正月に毬を打ち合う「毬打」という行事があり、毬を打つ杖のことをギチョウと言い、その杖を三つ、正月15日に焼いたともいうが、「三毬杖」でサギチョウとは公家による付会の色が感じられ正確なところは不明である。
 火を燃やすとき、「とうどやとうど」「とうどの鳥の渡らぬ先に」などと囃子言葉をかける地方もあるといい、地方によっては青年たちの勇壮な行事がある。

 道なかに御幣(おんべ)の斎串(いぐし)そそり立ち、この村ふかく太鼓とどろく 釈超空

 「とうどの鳥」という言葉から、鳥追い行事との関連が考えられるだろう。秋田の小正月行事の「かまくら」も、子どもたちの鳥追い行事のための仮小屋ないし宿だったという。

 古く民間では少年が十五歳になると一人前の若い衆と認められ、若者組や青年団に入ることができた。その行事を1月15日に行った地方が比較的多かったので、戦後に「成人の日」を定めるにあたって、その日が採用されたらしい。現在では成人の日は日を定めない祝日となっている。
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古い地図

昨年末に書店で普及価格の地図帳を購入。市町村合併後の地図だった。
現代の日本地図をあらためて眺めてみると、30〜40年前のころとくらべて地形の変った部分がある。
秋田の八郎潟はほとんど干拓され、千葉県の印幡沼も同様で小さくなっている。東京湾も埋め立てが進んで御台場という島もなくなり、大阪湾も同様である。

古い時代の史料をもとに作られた奈良時代以前の地図を見れば、さらに違いが大きい。

大阪平野は、内陸が深い入江となっていて、北方向に半島が伸びて入口は狭い。半島の先端が、大阪城や仁徳天皇の高津宮があったあたりである。入江は古事記では草香江とも呼び、生駒山のふもと近くまであって、そこへ神武天皇が最初に上陸しようとして失敗している。菅原道真は九州下向のときこの海を船で南に進んで道明寺天満宮(藤井寺市)に立ち寄ったという伝承がある、大和川もこの入江に注いでいた。

関東平野では北浦、霞ヶ浦から、印幡沼も含めて、群馬県東部に至るまで、ヤツデの葉を横に引き延ばしたようなかたちの長大な入江のようなものが続いていたらしい。平将門が新都を築こうとした場所はその「水郷地帯」のほぼ中央にあたる。東京湾も埼玉県の浦和あたりまで「浦」だったらしい。在原業平が隅田川で都鳥の歌を詠んだ場所は埼玉県春日部付近だともいう。

大阪湾には、奥州松島のように島がたくさんあったらしく、そこで天皇の八十島祭が行なわれた。しかし平安時代末期には島が陸続きとなってしまったために祭は中止になったという。平安時代中期に最も海面が下がったということだろうか。関東では平将門のあと、熊谷市北部の利根川べりの妻沼の歓喜院という寺の開基は源平時代の斎藤実盛だといい、その時代は川の水量もかなり減って利根川岸にも人が住めるようになったのかもしれない。

名古屋の西の熱田のさらに西にも内湾があったらしく、東海道で桑名までは江戸時代になっても陸路はなく、船で渡った。七里の渡しといったらしい。近世以後も海岸線は後退しつづけているということだろう。
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七草なづな、唐土の鳥の

1月7日は七草粥。七種類の野菜を入れて煮たお粥を食べる日である。一年の無病息災を祈るものとされ、七つの野菜とは、歌にも歌われる。

  せり、なづな、御形、はこべら、仏の座、すずな、すずしろ、これぞ七くさ(河海抄 1362年)

平安時代の京都では、正月最初の「子(ね)の日」に、野に遊んで若菜を摘み、それを煮て食べ、長寿を祈った。「子の日の遊び」といい、百人一首の次の歌はその光景を詠まれたものという。

  君がため春の野に出でて 若菜摘むわが衣手に雪は降りつつ  光孝天皇

春の初めの若菜摘みの行事は、ところによっては旧暦の小正月を過ぎたころであるとか、時期はまちまちだが、民間行事としても古くからのものであるらしい。少女たちが集団で野に出る話は、古事記の神武天皇が高佐士野(たかさじの)で出会った七少女や、万葉集の竹取の翁の物語など、数多く伝えられ、それ自体が成人儀礼のようでもあり、神武天皇の例のように求婚する男子が現れる場合もある。
 近世の民間では、七草を煮炊きする前日に、歌をとなえながら俎板の上で包丁の背や擂粉木(すりこぎ)などで叩いた。

  七草なづな とうどの鳥の ゐなかの土地へ わたらぬさきに ストト・ト・トン

この歌は、小正月のころの鳥追いの歌と類似のものである。鳥追いとは、秋の収穫のころに飛来する渡り鳥が農作物に害を及ぼすことがあるため、その鳥を追い払う行事を年の初めに行っておくのである。田植え祭なども年の初めに山間の清流近い場所で行われることが多く、年の初めには一年の無事を祈るさまざまのことが行なわれた。
「とうどの鳥」つまり「唐土の鳥」とは、大陸から飛来する渡り鳥のことと意識されるが、意味は不明のところもある。柳田国男翁は、同じ小正月のころの行事である「とんど焼き」の「とんど」に通じるものではないかと述べたことがある。

先の歌は「七草なづな、唐土の鳥が日本の土地へ……」と歌われることもあり、『志ん朝の風流入門』では地方によって次のような文句もあると紹介される。

 千太郎たたきの太郎たたき 宵の鳥も夜中の鳥も渡らぬさきに

参考 秋の七草
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若水汲み

手水「かつぎや」という落語がある。かつぎやとはつまり縁起かつぎの人のことである。
縁起かつぎで、目出度いものが大好きという呉服屋の旦那が、元日の朝、井戸に橙を供えて歌を唱えるようにと、下男に命じた。その歌は、

  あら玉の年立ち返る朝(あした)より若柳水(わかやぎみづ)を汲み初めにけり

下男は歌を間違えて失敗してトンマな話になる。

若柳水とは、一般には若水と言うことが多く、元日の朝に汲む水のこと。その水で口をすすぎ、また煮炊きしたものを神仏に供え、同じものを「おさがり」として家族もいただく。若水は、その年の邪気を祓い、その一年の無事を約束してくれる水であるという。文字の通り、年の始めに命を若返らせる水、生まれ変われる水のことである。ところによっては自然の泉のわき出ている場所に出かけて汲むこともあるらしい。若水を額につける習俗もあり、禊(みそぎ)の一種なのだろうともいう。

落語では、その後、客人が来て旦那と娘の二人を褒め、「大黒様のようだ、弁天様のようだ」と言い、「この家には七福神がいる」と言う。二人では二福ではないかと旦那が問うと、「こちらの御商売が呉服屋(五福)でございます」というのが落ちである。

落語の下男のように、新年や節分の行事の準備をする役割の者を、年男(としおとこ)という。昔の大きな家では下男などの仕事だったが、一般家庭では世帯主の仕事である。お供え物を年神さまや神仏に供えるのは男の仕事だった。節分の豆まきも同様である。(現代では女性による豆まきも行なわれる)。
=====昨年の"幻のブログ"歌語り歳時記の記事を補筆したものです12/31=====
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来年の戌年にちなむ犬の話

埼玉県の三峰山の三峰神社では、狼が神使とされ「お犬様」と呼ばれる。現在の動物学上のイヌではないが、「いぬ」と呼ばれた動物はいくつかあったようだ。
「狼」とは言葉としては「大神」から来たのだろうが、畏怖すべき動物を別の名で呼ぶことは多く、猪のシシは獣肉の意味、シカは食物の意味と言われるし、鼠を忌物(よめ)と言ったりするのと同様のことなのだろう。

神社の聖域を守る鎮獣である狛犬は、実際はほとんど獅子である。平安時代の御所では獅子と狛犬は区別されていたが、その後民間の寺社では混同されるようになったという。「こまいぬ」とは高麗犬の意味で外国の犬を想像しての名前だという。
中国では「狛」はハクという犬に似た動物の意味だったらしい。ちなみに狗の字もイヌと読むが天狗とは中国では流星のことだったとか。

日本書紀では、海彦山彦の話で、兄の海彦(火酢芹命)が負けて、弟の山彦(彦火火出見尊)の宮を衛ることに奉仕し、狗人(いぬひと)という。その子孫が隼人(はやと)と呼ばれる部族で邪霊を鎮める呪力を有したとされるが、南方の異族の服属儀礼の意味であるともいう。

古事記の雄略天皇の話に、志幾(磯城)の大縣主が天皇の宮殿に似せて家を造ったことが発覚し、布を白い犬にかけて鈴を著けて天皇に献上して詫びたという。犬はやはり服従の意味があるのだろう。天皇はその犬を「つまどひのもの」として若日下部王の家に届け、王を大后とされたという。志幾の大縣主は多くの大后が出た家系だが、意味はよくわからない。

犬は万葉時代から番犬として飼われていた。床を敷いて夫を待つ妻の歌で、訪ねて来た夫に犬よ吠えるなと歌っている。

  赤駒を馬屋を建て、黒駒を馬屋を建てて、
  そを飼ひ、わが行くが如、思ひ夫(づま) 心に乗りて、
  高山の峰のたをりに、射部立てて、鹿猪(しし)待つが如、
  床敷きて、わが待つ君を犬な吠えそね(万葉集3278)

犬は産が軽いといい、お産に関する習俗も多い。安産の御守りの犬張り子、戌の日に妊婦が着ける岩田帯、関東近辺に多い村の女性たちによる犬卒塔婆や犬供養など。

歌語り風土記には、犬の伊勢詣り犬頭糸伝説などもある。
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煤払い

煤払い今日は冬至だった。年末年始は季節の行事の話題が多くなると思う。

さて暮れの煤払いという行事があった。
江戸では12月13日、江戸城でも行なわれたそうで、同じ日に京都でも行なわれたけれど京都のほうが元なのだろう、徳川様といえど、煤払いだけに後塵を拝したと、古今亭志ん朝師匠の『風流入門』(ちくま文庫)にある。

12/14の忠臣蔵の記事に書いた元赤穂藩士の大高源吾は、一説によると笹竹を売り歩く商人になっていたという。笹竹は煤払いに使うもので、討ち入りの直前はさぞ忙しかったと思うが、雪の両国橋の話も史実ではないとのことである。

有名な寺社で笹竹で建物の入り組んだ部分のほこりを払う場面がテレビニュースでも報道された。画像はある雑誌の広告(伊勢名物の赤福という甘味のお菓子)だが、伊勢神宮でも行なわれるようだ。
  神楽殿 巫女が総出の煤払ひ  浦田長吉

昔の庶民の家は天井がない家すらあり、カマドや囲炉裏から出た煤が、天井や屋根裏にたまって真っ黒い色をしていた。その煤を払うのだから煤払いの男の顔も真っ黒になって、飼犬にも誰だかわからずに吠えられたという。
  俺だわえ吠えるなと言う十三日
この川柳も志ん朝師匠の本にあったもの。煤と一緒に一年のうちに降りかかった火の粉のかすのような災やらを祓い清める意味もあるのだろう。煤払いが終っていよいよ正月の準備にとりかかったらしい。現代は暮れの数日のうちに大掃除をする家が多いと思う。
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冬の季節のお正月

まもなくお正月。
今の太陽暦では、お正月は真冬の時期にあたるので、子ども時代に「新春」とか「初春」「迎春」という言葉を耳にしたとき、なぜ春というのか不思議に思ったことは誰にもあったのだろうと思う。陰暦(旧暦)というのがあってどうのこうのと、大人たちに教えてもらっても、すぐには実感できないものである。
けれど日本の古典や歳時記は、陰暦を知らなければわからない部分も多い。

古今集のいちばん最初の歌に、こんなのがある。

 年の内に春は来にけり 一とせを 去年(こぞ)とやいはん 今年とやいはん 在原元方

詞書に「ふるとしに春たちける日よめる」とあって、新年にならないうちに立春が来たことを詠んだ歌である。旧暦の一月一日は、立春の前後の30日間のうちのどれかの日に当り、年によっては、立春の後に新年が来ることもある。それだけのことを述べた歌なので、理屈っぽい歌と評されることもあるようである。とはいえ、現在が今の年なのか古の年なのか、今と古がその区別を越えて年を巡って一つにつながっていることが古今集の題名の意味でもあるのだろう。

民間では元旦の行事より1月15日の小正月のほうが重要だったという。旧暦の小正月なら、立春の前に来ることはないので、新春らしい祝になる。同様に古い年の厄祓いをした節分の豆まきも小正月の前に済ませることができる、という理屈になる。
正月三が日というのは重視されず、三が日の初詣というのもなかったようだ。正月とは1月の一ヶ月間のことなので、一ヶ月のうちにお詣りするのが、その年の最初のお詣りである。初詣は、太陽暦になった明治時代からだんだん盛んになり、大正時代ごろになってから俳句の季語にも加わった。それ以前は季語にはなかったというか、庶民になじみのある言葉ではなかったらしい。

太陽暦以後、新年を祝う行事と、春を迎える行事は、分離されて行なわれる傾向になる。
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回文歌

回文番付昭和初年講談社発行の教養全集という本に、いくつか回文歌が載っていた。作者は不明。

上から読んでも下から読んでも同じ文句・回文番付
蒙御免
行事
 長き夜の 遠の眠りの 皆目ざめ 浪乗船の 音のよきかな(宝船の歌)
 惜しめどもつひに何時もと行く春は悔ゆともつひに何時も止めじを
横綱
 くさぐさの名は知らぬらし花守も名は知らぬらし花の咲く咲く
 桜木の問ひし香りは 花の園 縄張り犯し人の気楽さ
大関
 とく立たじ里の竹むら雪白し消ゆらむかたの戸さじ叩くと
 眺むらむ門を問ひなば草に木に咲く花人をとがむらむかな
関脇
 みなの川伝へつながれもつしきし積もれかなつへ立つわかの波
 むら草に草の名はもしそなはらばなぞしも花の咲くに咲くらむ
小結
 むら草の名は知らぬすらこの庭に残らず濡らし花の咲くらむ
 紫もついやれつつぞをなの身の名をぞ綴れやいつも着ざらむ
前頭
 むらしはて見つつ摘み草名は知らじ花咲く見つつ摘みて走らむ
 村鳥は離れ立ちもす枝に葉に絶えずもちたれ縄はりとらむ
(以下略)
勧進元 紫会

江戸時代後期の奥州仙台に、回文の名手として知られた、仙代庵という風流な人がいた。回文の名手 仙代庵
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