稲葉の高尾

下都賀郡壬生町上稲葉 高尾神社

 源平の戦が終ったころ、安徳天皇の御母・賢礼門院にお仕へした高尾は、暇を与へられ、一人の下女とともに京を去り、故郷の因幡国へ帰ることになった。ところがその旅の途中、下女は病死し、高尾は一人旅のまま悪人に捕へられ、遊女に売られようとした。そこへたまたま通りかかった金売吉次に救出されたのだが、吉次はそのまま奥州へ立ち去ってしまった。吉次と別れた高尾は、もう一度吉次に逢ひたいものと、道を引き返して奥州へ向った。下野国に入り、都賀郡の稲葉の里で吉次が滞在してゐるといふ噂を聞き、喜びいさんで来てみれば、吉次はすでにこの世の人ではなかった。高尾は、身の不運を歎きつつ、墓を築いて吉次の霊を供養した。これまでの長旅の疲れが襲ひ、まもなく高尾は病の床に伏した。その床で郷里の因幡を思ひつつ歌を詠んだ。

 ○ふるさとの道のしるべも絶えはてて、ちぎるいなばの名こそつらけれ 高尾

 高尾は、世話をしてくれた村人たちに身の上を語り、錦の袋に入れた懐剣と錦の服紗包みを取り出して、「この懐剣はこの家に伝ふべし。またこの服紗包みは大内裏の御宝の一品にて、この家にて持つべきものにあらざる故に、所を定めて埋めてわが在所、因幡国峰の高尾大明神をまつりてほし」と言ひ残して息絶えた。文治四年(1188)九月のことといふ。

 村人は高尾の遺言にしたがひ、服紗の包みを土中に埋め、翌年九月、高尾大明神を勧請して祀った。高尾の神は、疫病除けの神として信仰されていった。