イザナギプレート

地球上の大陸や島々は、プレートと呼ばれるものの上に載って僅かづつ移動しているそうだが、日本列島は、ユーラシアプレート、北アメリカプレート、太平洋プレート、フィリピン海プレート、以上4つのプレートが入り組んでいるらしい。
その昔には、イザナギプレートと呼ばれるプレートも存在したらしい。


「西田のホームページ」の「中央構造線」のページが詳しい。
http://www.nishida-s.com/main/categ3/mtl-nagano/index.htm
上記を参考に、まとめてみた。

1億8000万年前、ユーラシアプレートの東端に、細長い山脈状のものができた。これは後の日本列島の中央構造線以北の部分である。そのすぐ東には別のプレートが接し、これがイザナギプレートである。場所は今の日本海のあたり。
1億3000万年前、位置でいうと今の九州から南西諸島以南の位置に、日本列島の南側に相当する山脈状のものができた。これはイザナギプレートの西端の上であり、プレートの移動により北上してゆく。
7000万年前、プレートの移動により2つの山脈状のものがつながり、日本列島の原型ができた。このときの接合部分が、中央構造線である。日本海はできていなかった。
2500万年前、イザナギプレートはユーラシアプレートの下にもぐりこんで消滅し、太平洋プレートとフィリピン海プレートが押し寄せてきて、日本海溝と琉球海溝ができた。さらに大陸が割れて日本海ができ始める。
1450万年前、日本海が広がり、北からは北アメリカプレートが押し寄せてオホーツク海も広がり、北海道東部がくっついて、ほぼ日本列島が完成した。ただし東日本はほとんど海中だった。日本海が広がるときに、直線状の列島が弓なりになったため、列島中央にフォッサマグナが陥没した。フォッサマグナは西関東と甲信・上越地方あたりで、西端が糸魚川-静岡構造線になる。
800万年前、東日本が隆起し始める。北アメリカプレート上の千島列島が北海道に衝突して日高山脈が隆起する。
500万年前、南からフィリピン海プレート上の伊豆半島が本州に衝突して半島となる。
1万8000年前、氷河期で海面が下がり、日本列島は大陸と地続きとなる。その後、海面が上昇し、現在の日本列島となる。

以上であるが、要約に間違いがあるかもしれない。また、どの時代にどの部分が海だったか不明の部分もある。イザナギテンプレートが消滅したころ、北アメリカプレートが東日本の下へもぐりこんだようだ。

一つ、気になるのは、「イザナギプレート」という命名である。地底の国といえば、日本の神話では、根の国、黄泉の国であり、黄泉大神(よもつおほかみ)とはイザナミの命のことである。「イザナミプレート」でも良かったのかもしれない。
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よく使われる異体字など

神名地名難読漢字・ユニコード対照表
https://nire.main.jp/rouman/dic/hsgaiji.htm
のページは比較的多いアクセスをいただいていますが、今回1文字のユニコードを追加し、ページ内容も全面改訂となりました。協力いただいたかたのサイトへのリンクはそのページ内にあります。

改定により余計な説明を省きすっきり見やすくなったと思います。WindowsXP以前では「MS明朝」のフォントをアップグレードしないと表示されない文字ばかりかもしれません。

この漢字リストの中には、28宿の一つでもある「氐」という字があります。「𣑥」は万葉集で「白𣑥の(しろたへの)」などとよく使われます。「嬥」(かがひ)も万葉集でときどき見かけます。

また、そのリストの中で、江戸時代から明治時代にかけての一般文書でよく見かける漢字でいえば、人名などに多い「杦」(すぎ)があります。さらに、「㕝」(こと)は「事」の異体字ですが、かなりよく使われました。「霊」の異体字の「灵(れい)」もよく見かけます。
(この記事中の一部の漢字はMSのフォントをアップグレードしないと表示されないかもしれません)
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名主が小作をする証文 など

江戸時代の農村では、よほどの例外でもない限り、身分ないし専業職としての「小作人」というのは確認できないと思う。西洋史を無理やりに当てはめて日本の農村に大地主がいて、土地を持たない大勢の小作人が働くということを吹聴するのは大きな誤りであるというほかはない。
当地では小作人はもちろん存在しなかった。
司馬遼太郎の対談集での発言によると、彼の故郷の大阪近郊では、よっぽどのわけありの家が一軒だけ「小作人」としてあっただけだったという。それは昭和初期の話であるというが、明治以後の地主が増えていった時代でさえそうなのである。また西日本のほうが東日本より子供の出生率がやや高く人口も過剰ぎみであるにもかかわらずである。

さて『百姓の江戸時代』(筑摩書房)の著者田中圭一氏によると、越後地方にはいくらかの「小作人」がいたような書き方である。小作だけなら年貢もないし、休みたいときに休めるので気楽であり、そのほうが良いと考える人もあるということである。こうした人に他に職があるのかどうか詳細は不明だが、いづれにせよこれもごく小数ということだろう。

北武蔵の当地に、江戸中期から後期の「小作證文」が数通残っているが、小作すなわち他人の土地を期間を定めて借りて耕作していたのは、比較的裕福な家ばかりで、名主や組頭クラスの人たちばかりである。
江戸時代は庶民の家はどこも子供が少なかったのだが、裕福な家なら4〜5人以上の子供があり、男子も2人以上あった例が多い。そうでなく子供が少ない家では、男の子のない家が3割近くあり、そういう家では娘に婿をとるのだが、婿を供給するのが上層農民ということになる。上層農民の家では二男以下の男子が成長してくると、労働力が過剰になる。そこで逆に働き手の少ない家の土地を借りて耕作したということだろう。それで小作をするは上層農民ばかりだということになる。

同じ一軒の家でも、ある時代には三代の夫婦が十分働けるときもあれば、一組の夫婦しか働き手がいない時期もある。こうした労働力の過剰と不足を、村内の人々で補い合うのが小作なのだと思われる。

名主が他村の名主から小作をするという證文が存在するのだが、これは少々変っていて、小作料が先払いになっている。小作に借りる土地というのが、もとはこちらの名主の名義だった土地で、その土地を他村の名主に質入れして借金をして金銭を得、さらにその土地を小作することによって小作料を先払いで得たことになる。何かの金策のための便宜かもしれない。あるいはその土地も元は名主のものではなく、質として預ったものが流れたために、貸したお金が戻らず、そのための金策かもしれない。

ところで明治の初めには、土地を売る農民が増え、土地を売って金を得て、同じ土地を小作して毎年の小作料を得るようなことがブームになったらしい。そのほうが当面の収入は増えるのである。しかし長期的に見ればマイナスになることはもちろんである。けれどそれが新しい時代の生活スタイルであるかのようにもてはやされたようである。
これと似たようなことが、1990年代ごろからのフリーターのブームとしておこったことは記憶に新しい。正規社員よりも派遣社員やフリーターのほうが、当面の年収は確かに多かった。
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「おやけのとと」と組頭

佐藤常雄(著)『貧農史観を見直す』(講談社現代新書)が近世史の最良の入門書だと思うが、この本は冒頭から、日本では江戸時代初期まで夫婦が同居する慣習がなかったことから始まっていたと思う。
核家族と直系の祖父母が同居する家族形態は、江戸時代の最初の百年くらいのうちに徐々に定着していった。それが可能となったのは、時代とともに近代的な意識に近づいていったのが大きいのだろうと思う。
秀吉の時代に行なわれた検地は、田畑を耕す者の耕作権と所有権を保証するものであったが、当時は、同じ苗字のリーダー格の者が数町歩を所有することが多かったようで、江戸時代になると家族はそれぞれ独立・分家して小規模経営の農業が主体となっていった。こうして農業では「中間搾取」のようなものはほぼ皆無になったことになる。

寺請制度なども、家族生活の保証と引き替えに、庶民の側で受け入れることになったのだと思う。それ以前は家族の成員ごとにお寺が違うのが当たり前であったのだが、それは、住んでいる場所が違ったからお寺も違ったのだともいえる。

分家というのはほとんど江戸時代の初期か明治以降に成立した家のことである。
「同じ苗字のリーダー格の者」とは、越後方言でいえば「おやけのとと」のことであり、後に分家する「をぢ」たちとともに江戸時代初期までは共同で暮らしていたようだ。歴史学者は、おやけのととのことを名主(みょうしゅ)と言い、をぢのことを名子(なご)と言っている。
名主(みょうしゅ)とは、江戸時代の村の名主(なぬし)とは違うものである。ややこしいので、名主(みょうしゅ)でなく「おやけのとと」の用語を使うことにする。

おやけのととの中には、村の名主になった者もいたが、最初は名主の下の村役である組頭(くみがしら)というものになった。分家が成立したとき、1軒の家が平均すると5軒になったので、そのグループの呼び名を、北武蔵あたりでは苗字で「○○一家(いっけ)」と呼んだが、苗字の使用は禁止されたので幕府のいう「五人組」という言葉を村でも使うことになった。この「五人組」の頭(かしら)が「組頭」である。すべての組頭が集まって村の代表の名主を互選し、村は名主を含めた組頭たちの合議制で運営されていくわけだが、時代が進むと同苗一家のリーダーがよりふさわしい別の家に交替することも多く、新しいリーダーが組頭になるわけである。
名主・組頭・百姓代といった村の三役が整備されると、百姓代になった「おやけのとと」もある。
すべての同苗一家が同じ戸数ではないので、五人組の中に違う苗字の者が入ることもあり、家々の様々な盛衰によって組合せも変化する。
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「おじ」という言葉

日本人は、伯父と叔父、伯母と叔母の書き分けは、学校で教わるのでたいていはできる。ところが親の兄弟姉妹以外の、祖父母の兄弟姉妹や親類の年長者、近所の年長者に対しても、オジサン、オバサンと呼び、いつの時代からか「知らないオジサン」という使い方もあり、文字表記は適当にすますしかない。

未来社『日本の民話』越後東頚城郡に「伊勢参りと雷様」という昔話があり、冒頭部分に「おじ」という言葉が出てくる。

「村の孫右衛門と吉右衛門と徳右衛門の三人連れで、伊勢参りの相談をしました。三人とも"おじ"で分家したばかりで、おやけ(本家)の"とと"に相談して、許しを得ることになりました。おやけのとと(親父)は、喜んで許してくれました。」(同上書)
このあと、留守を預る村人たちが日を決めて行なう予祝行事のしきたりの数々が書かれ、興味深いのだが、それは本題ではない。

本家のあるじを「とと」といい、分家のあるじを「おじ」といっていたことがわかる。昔話を聞いているのは村の子供たち一般であるので、誰から見て伯父叔父なのかということではないわけである。分家の後に何代を経ようとも、分家のあるじは「おじ」であり、村全体で、そのように「とと」「おじ」と呼んでいたのだろう。

武蔵北部のある家の墓所の区画内に、「伯父」「為伯父」と刻まれた江戸時代中期の石塔(墓石)が2つある。分家2軒の初代の墓を、本家のあるじが立てたもので、続柄から言えば「叔父」または「親の叔父(祖父の弟)」に当たるが、伯父という漢字はただ字を宛てただけのことで、要するに大和言葉の「おじ」であり、分家のあるじなのである。このような意味の「おじ」という言葉は、さらに広い地域で使われていたと思う。

書名はすぐに出てこないのだが、実話集か物語か忘れたが、井原西鶴の訴訟事を扱った読み物のなかに、親類どうしのもめごとがあり、双方が相手を「おじ」と呼びあっていたという話がある。なぜお互いが「おじ」なのか、話の結論では、男が孫娘と結婚すると、娘の父親と男の関係は伯父と叔父の関係になるらしい。そうした近親どうしの関係を奉行所で暴かれて、話は終る。しかしどうも腑に落ちない話だった。
今思うには、分家どうしだから「おじ」と呼びあっていたのではないか。そうした村のしきたりを知らない武家か商人がそれを端で聞いて、興味をおぼえて、後に頓知話のようなカラクリ構造のような関係を思いついて話が出来、西鶴の耳にも入ったのではないか、と思えるのである。
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都市と農村と、領主

 ヨーロッパ史では、民主主義は、日本の近世の時代に、都市部の市民階級から広まったという。農村部では日本の武士階級に相当する貴族が城を構えて大規模な農場を所有・経営し、農場では農奴のような人が働いていたらしく、農村部で貴族と農奴とではなかなか対等な関係は生れにくいのだろう。ヨーロッパのお城は、郊外の村(森近く)に多い。
 日本の近世では、お城の下には城下町が拡がり、都市である。都市の武士と町人とでは、やはり政治的に対等な関係は生れにくい。日本においては、農村部で、小規模な家族経営の農民たちの間では、かなり平等な人間関係が誕生していたようである。日本の民主主義は農村部から始まったともいえ、このへんのところは今後より明らかになって行くだろうと思う。しかし政治の中心は都市へ都市へと集中してゆく時代であり、農村が主役となることはなかったが、少なくとも地方自治の見本は既に成立していたのである。

 近世の日本の武士は、ほとんど土地を所有せず、江戸の旗本たちは、住居さえ公用地を徳川氏から借りるか、商人から借りて住んでいたらしい。土地を持って土地にとらわれることを恥としていたともいう。のちに明治新政府が出来たとたんに、彼らは住む土地すらも失い、抵抗どころではなかったのだろう。

 日本の武士が持っていたのは領地に対する年貢の徴収権である。武士は年貢と引替えに、治水事業などを行なって農地での耕作を保証する義務があった。畑より田の年貢が高いのは、治水の費用がかかるからである。戦国時代末期から江戸初期にかけて、治水土木事業で名を残した武士は多い。そのほか、農工具の貸し出しもした。日本の政治は、環境を調えることに主眼があったようで、福祉事業などはおおむね村任せということかもしれない。
「土木事業によって必要な環境を整備するのが政治」という考え方は、現代では必要性がなくても道路や箱物作りに勤しむような歪んだ形になっている。
 また稲作のための種籾の保証も領主の役割である。年貢米は、貸与された種籾に対する返礼の意味でもあり、領主というのは司祭性を持つものである。

 西洋では土地も生産物もすべて領主のものであるが、なんといっても、生産食料の分配権を領主が独占することに最大の特徴があるのではないだろうか。家庭の食卓でも家族に食肉を切り分け分配するのは父親の役割だという。食料の分配に政治の主眼があり、民を食わせられない領主は打ち負かされる可能性もあるわけである。戦争経験も多く、食料を輸入に頼ることはない。
 日本の近世を飢饉の連続だったかのように言う者もあったが、実際は、乱開発による洪水などの「人災」であったり、買占めが原因の食料不足であることが多かったらしい。自然の恵みは比較的豊かな国であり、村々の地域社会の相互扶助や連係はしっかりした国だった。
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年貢の話 その2

年貢の多い少ないという話である。
東京板橋区で出版した史料集の解説によると、村人のうち20石以上の者もあれば2〜3石の者もあり、「農民の階層分化」が進んだせいだと書いてあったが、表に出た数字だけを論じているだけのようである。江戸時代の論評で「農民の階層分化」という言葉が強調されているものは、ほとんど信用できないものばかりである。

20石とはどの程度の経済規模かというと、たとえば商売でいえば、商売を始めて最初は苦労したが今ではどうにか人を雇えるくらいになった、というような、それが20石程度である。本人と使用人の2世帯の稼ぎということだ。
中規模以上の農村では名主クラスの家では使用人がいるのが普通で、番頭と呼ばれていた。人別帳などでは本百姓(納税者)ではないという意味で「下人」と書かれるが、商家の番頭以下もみな下人なので、そういう用語を使う決まりがあったのだろう。
村の名主は、農繁期であっても外交などで外出せねばならぬことも多く、番頭の男手は必要であった。名主家の番頭は、村役人の娘婿などの縁者であるとか、信用のある者が雇われ、もし離散した農家があればすぐに後釜として独立して、本百姓となることができる。

当地には造酒屋があったが、その造酒屋の借金の證文に「酒造株 五十石」という評価が書かれている。50石という数字から経営規模や雇用規模を推し量ることができると思うが、納税方法については、まだわからない。

当時の平均は1軒が10石ということだそうだが、この平均に及ばない5〜6石前後の家が、当地では少なくない。これは隣接する宿場の御伝馬の馬子を兼ねる兼業農家だからである。5〜6石の石高は農業分だけのものである。
御伝馬とは、宿場に設けられた幕府公用の運輸を担う職業で、宿場ごとに必要数の人馬の確保が義務づけられ、実際は宿内で営業する問屋が一切を請うことが多かった。問屋は必要な人馬を調達するのに、手元に気性の荒い専門の馬子を寄宿させるのではなく、周辺の村々と契約を結んで農家に依頼するほうが安心と考えたようだ。村で御伝馬を引き受ける農家は、馬喰(馬子)としての現金収入もあった。当地ではこれが村高に加算され、村全体では314石も加算されている。

2石余りしかない家が1軒見つかったが、中山道の端で居酒屋を営む家である。村内では対等の付き合いをしているのでいわゆる極貧ではない。2石余りは田畑の分で、別に店の分があったのだろうと思う。店の分の石高や納め方は未確認。居酒屋などに対し国定忠次のような集団が金品の徴収権を持つことは黙認されていたろうが、それが公の年貢と二重になるのかならないのかは未確認(筆者は徴収権は二重にならないのではないかと疑っているが)。
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年貢の話 (四公六民の謎?)

 加賀百万石、岡崎五万石など、江戸時代には国や城下の生産高を表現するのに石高が使われた。
 日本の村々の平均的な石高は、五百石ほどで、平均戸数は五十軒ほどという。一軒の石高は十石くらいになる。十石とは、田畑に換算すると十反(一町)。一町歩の田畑があれば、家族が働き、平均的な生活水準を維持できた。
 ところで量の単位では1石は10斗である。米4斗が1俵なので、1石は米2俵半。1反の田から米1石(2俵半)の収穫を想定して、これが一人が1年間生活するための米の必要量であるとされた。現代人はそんなには食べないが。

 「四公六民」という年貢の計算方法があるらしいが、四公すなわち4割が年貢だとすると、年貢は田1反につきちょうど米1俵である。江戸時代の村の文書にも、一反につき平均ほぼ一俵の記載がある。しかし実際の一反の田からの収穫は、米2俵半ということはない。災害さえなければ5〜6俵以上だろう。これだけでも田の年貢は、実際の米の収穫の2割以下になる。裏作の麦の収穫を考慮すれば、田の年貢は1割ちょっとにすぎない。
 年貢は土地にかけられる固定資産税のようなもので、米2俵半とは固定資産税の評価額のようなものである。評価額が実際の市場価格と異なるように、米2俵半は実際の収穫とはかけ離れた数字である。

 さて畑の年貢については、当地では1反で永90文余りで、これは普通の銭では4倍の360〜380文になるので、ほぼ1朱である。米1俵の平均的な価格を1分2朱とすると、畑6反で米1俵分の年貢である。畑の年貢は田の6分の1ということになる。畑からの収穫量は、江戸時代初期は同じ面積の田の米の収穫よりずっと低かったと思われるが、江戸中期以降は商品作物の栽培も増え、田の収穫を上まわるケースもあったようである。それでも畑の年貢はあまり上がっていない。

 田と畑を5反づつ所有している家では、年貢は収穫の1割をだいぶ下まわる。ただし街道筋の村では、助郷と称する運輸労働の奉仕が月1〜2回程度あるので、このぶんを金銭に換算すると、1割程度といったところであろう。
 むろん間接税もなく、現代からみれば非常に安い税金だったのだが、これは今でいう「小さな政府」のためであり、生活の多くは村の自治に依存していたためである。「地方税」ともいうべき村の費用の負担は、別に納めなければならない。
 とはいえ農民が「四公六民」の重税に苦しんだというのは誤りである。

 江戸時代を通じて、年貢は書類の上ではほとんど値上げされなかった。しかしそれでは農民の収入ばかり増えて、物価は上がっても武士の収入は増えない。次第に年貢先納や臨時の上納金などが増えることになるが、それらについても武士は体面を重んじて、農民に対して借用書を書いている。最低限の利息で暮の年貢の際に清算するという内容である。しかし借金が1年ぶんの年貢額を上まわり、清算しきれないで溜まった借金がある程度まで増えると、「借切」と称して、借金がなかったことにしたようである。その額はおそらく農民の収入増に比例した程度のものだったろう。しかしその負債分を一部の村役人のみが負うことになると、幕末のころには新手の商売に手を出す農民も増えてくるわけである。
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藤原宮の運河

昨日の新聞で「藤原宮に大規模な運河跡」という記事があった。ネットからも見られる。

「日本最初の都市計画に基づく都、藤原京(奈良県橿原市、694〜710)を造営するために資材を運んだとみられる運河跡が、中心部の藤原宮跡を南北に走り、総延長500メートルに及ぶ大規模なものであることがわかった。奈良文化財研究所が24日発表した。北東に延びる支線と推測できる溝も見つかった。同研究所は「運河は網の目のように張り巡らされていたのではないか」と推測している。 」
http://www.asahi.com/national/update/0924/OSK200809240116.html

記事の後半にある、近江国田上山から材木を運んだ民の歌とは、次の歌のことだろう。

安治ししわご大君、高光る日の皇子、荒栲の藤原が上に、食す国を見し給はむと、大宮は高知らさむと、神ながら思ほすなべに、天地も寄りてあれこそ、石走る淡海の国の衣手の田上山の、真木さく桧の爪手を、もののふの八十宇治川に、玉藻なす浮べ流せれ、そを取ると騒く御民も、家忘れ身もたな知らに、鴨じもの水に浮きゐて、わが作る日の御門に、知らぬ国、寄りこし路よりわが国は常世にならむ、書フミ負へるあやしき亀も新世と、泉の川に持ち越せる真木の爪手を、百足らず筏に作り、上ぼすらむ、勤はく見れば、神ながらならし(万葉集巻一 50)

宇治川から藤原宮まで運河でつながっていたということになるのだろうが、
運河については、他に思い当たる万葉歌がある。

 大君は神にしませば、赤駒のはらばふ田居を、都となしぬ(大伴御行 巻十九 4260)

詞書に壬申の乱の後の歌とあり、大君とは天武天皇のことで、都は藤原宮である。従来の解説では、赤駒は農耕馬で、田を都とするほど大君の威力は絶大なのだという意味だといわれていた。

しかし、運河の風景を詠んだ歌なのではないかと思った次第。
藤原宮に井桁のように張り巡らせた運河は、田のように見えたであろうし、運搬のために運河に馬が入ることもあったようで、水深は馬の腹まであったということになる。馬が腹這うように見えるほどの深さの田というのは、現実的ではないのではなかろうか。

ともかく、藤原宮は運河と水の都であったらしい。

 大君は神にしませば、水鳥のすだく水沼を、都となしぬ(同 4261)

★2018.8.4 補足
http://center.miggy.jp/history/question/486
大学入試センター試験のページによると、大伴御行の「赤駒」の歌は、「都の造営を詠んだ万葉歌」として大学入試験問題に出題されていることがわかった。資材運搬のための馬と見るかどうかは不明ではあるが。
以下は上記URLより引用。
都の造営
古代の都の造営を詠んだ次の万葉歌?T〜?Vについて,古い歌から年代順に正しく配列したものを,下から一つ選べ。
?T 大君は神にしませば赤駒の腹ばう田居(たい)を都と成しつ
(神格化された天皇による造営事業をたたえた,大伴御行の歌)
?U 昔こそ難波いなかと言われけめ今は都引き都びにけり
(天武朝に造られた都を,約半世紀ぶりに改修した,藤原宇合の歌)
?V 今造る恭仁の都は山川のさやけき見ればうべ知らすらし
(橘諸兄政権の下,この地に遷都されたことを喜ぶ,大伴家持の歌)
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心配の種

645年の"大化の改新"については、むかし学校で習ったものだが、「公地公民制」など、意味がよくわからず、長年わだかまりをいだいていたが、石井紫郎という日本法制史の先生の説明がわかりやすかった(司馬遼太郎対談集『土地と日本人』)。
それによると、国が開墾した田を庶民に貸し与えて税金を納めさせるような感じで、つまり「公団住宅のようなもの」なのだそうだ。
大規模な制度というより、稲作の奨励程度のことのような印象である。
「農具は国が貸し出した」そうである。
もしかすると、鍬などを祀った神社の起源と関係あるかもしれない(ただし東海地方に多い鍬神は、近世初期に伊勢信仰から広まったという通説で良いのではと思う)。

そこで思い出すのは古事記の軽太子の話である。
允恭天皇の崩御の後、軽太子と穴穂皇子の争いになり、軽太子は敗れた。軽太子の矢は古い銅製であり、穴穂皇子の矢は新しい鉄製だった。それが勝負を分けた原因らしい。
新しい鉄製の道具が、何か新しい農業を象徴しているように思える。

種籾も、国が貸し出したのだろう。
大きな神社仏閣も貸し出したというが、利息を付けて返済するのが「年貢」の起源らしい。
近世に至っても、領主は種籾を貸して年貢を徴収した。種籾は農民が前年の収穫の一部を当てれば済むのかもしれず、そのへんは不明だが、少なくとも満足な収穫のない年もある。そういったときに、領主からの種籾の支給について心配した農民の文書も残っている。「心配の種」ということである。
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