有井の里

道文神社  幡多郡大正町、大方町

 後醍醐天皇の第一皇子、尊良親王は、元弘の変に笠置山で敗れ、土佐へ配流の身となられた。侍臣の(はた)武文(たけふみ)道文(みちふみ)の兄弟は、有井荘米原(幡多(はた)郡大方町有井川上流)の山里に御所を建てて親王をお迎へした。親王は、土佐に移って以来、各地へ配流となった天皇や弟の親王たちを思ひ、また京の情勢を按じて暮す毎日だった。中でも京に残した姫君を思はれるときのお姿は、傍目に見ても気の毒なほどだった。

 ○我が庵は土佐の山風さゆる夜に、軒漏る月も、かげ凍るなり   尊良親王 新葉集

 かくして兄の武文が京へ派遣されて姫をお連れすることになったのである。

 京へ上った武文は、鞍馬山で首尾良く姫を奪還し、淀川を下って難波で宿をとった。その夜、宿に盗賊が乱入した。武文は姫君を背負ひ、賊を蹴散らしながら港へ出て姫君を船に預けた。再び追手の賊どもを追ひ払ひ、ふと振りかへって港を見ると、船は岸を離れて遥か沖合ひを進んでゐた。武文は必死で小舟を漕いで後を追ひかけたが、大きな船に船足が追ひつくはずもない。武文は大声を上げて泣き叫び、そのまま夜の海中に跳び込んで死んだ。

 船は松浦五郎といふ海賊のものだった。船が阿波の鳴戸に至るころ、突然の暴風雨が船を襲った。水夫たちは皆恐怖に陥り、姫君をさらった罪ではないかと騒ぎたてた。この大混乱のさなかに、姫はひっそりと涙を浮かべ、「是は吾が形見なり、父上御在世なれば届け賜へ」と海神に祈り、小袖を海中に投げ入れた。天罰を怖れた海賊どもは、小舟を下ろして姫君を乗せて逃がした。まもなく船は転覆し、一味は全員、海の藻屑と消え去った。

 姫の小袖は、入野浜(大方町)に流れ着き、これを見つけた漁夫たちが、領主の有井氏の元に届けた。有井が親王に献上すると、親王は「吾れ在京時、姫君に授けし小袖なり」と涙を流された。弟の道文は、兄に代はって上京を決意、姫君を探すことにしたが、山越えの旅の途中、打井川の里(大正町)で病に倒れ、歌をのこして死んでいった。

 ○一筋に忠義をつくす道文が、吾が名を後のみ世にとどめん    秦道文

 ここに悲運の生涯を終へた秦道文をまつったのが、道文神社である。その頃から入野月が浜でとれるやうになった貝は、姫の小袖と同じ模様をした美しい貝で、小袖貝と名づけられた。