山梨県(甲斐)

甲斐が嶺に咲きにけらしな。 足引の山梨岡の山なしの花    能因

酒折宮

甲府市酒折

 日本武(やまとたける)尊の東征の帰途、箱根の碓氷の峠を越えて甲斐国に入り、酒折宮に留まって、土地の翁と片歌のやりとりをされた。

 ○新治、筑波を過ぎて幾夜かねつる               日本武尊

 ○かゞなべて夜には九夜、日には十日を             御火焼翁

 尊が旅立つとき、塩海足尼(しほのみのすくね)に袋に入った火打石を授けて甲斐国の将来を托された。この火打石は、尊が東国へ出発のときに伊勢神宮の倭姫(やまとひめ)命から賜はったものである。塩海足尼は、火打嚢を御神体に宮を建て、日本武尊を国の守護神としてまつった。その甲府市酒折の酒折宮は、もとは今より北の山の中幅にあったといふ。

 ○語りつぐ御歌とともに、万代(よろづよ)につぎて栄えむ酒折の宮      本居宣長



大嶽山

東山梨郡三冨村上釜口 大嶽山那賀都神社

 日本武尊が甲武信の国境の雁坂(かりさか)峠を越えようとしたとき、深い霧が立ち込めて進むことができなかった。尊が岩室に篭もって三神(大山祇神、大雷神、高おかみの神)に祈ると、進路を告げる神宣があった。尊は神に感謝を捧げ、岩室に剣を留め置いて三神を祀った。その地が、大嶽山那賀都神社の奥社であるといふ。天武天皇の御代の(えん)小角(をづの)以来、多くの僧が参篭した。天平七年には、行基が甲斐国を訪れ、大嶽山に参篭して観世音像を彫った。そのとき神の声が聞え、行基は恐れ畏んで歌を献った。この歌から大嶽山那賀都神社の名がついたといふ。

 ○赤の浦 那留都賀(なるつが)崎に那留(なる)神の 御稜威(みいつ)や高く那賀都(ながと)とは祈る



蹴裂明神

 太古の甲府盆地は湖であったともいふ。二代綏靖天皇の御代に、向山(むかうやま)土本毘古(ともびこ)王が甲斐国を訪れ、左右口(う ば ぐち)山に住む左右弁羅(さうべら)らの協力を得て、鰍沢(かじかざは)の南の山を足で蹴って切り開き、湖水を富士川に落して、広大な平地を得て国造りをしたといふ。のちに王の葬られた地にまつられたのが佐久(さく)大明神で、蹴裂大明神ともいひ、今の東八代郡中道町上向山の佐久神社のことである。

 甲府盆地が湖だったといふのは、甲斐地方に広く伝はる伝説である。地蔵菩薩の発案で蹴裂明神らが切り開いたともいひ、甲府市の稲積神社では、四道将軍の一人武淳川別(たけぬなかはわけ)命が切り開いたとする。甲府市の穴切大神社では、大己貴命に祈願して、和銅年中に国司以下、多数の人々の力で土木工事をして切り開いたといふ。韮崎市旭町の穂見神社の伝説では、大洪水で甲府盆地が湖水と化したとき、鳳凰山に住む大唐仙人が、蹴裂明神と力をあはせて山を切り開いたとされ、この里の山代王子が新しい土地を開墾して米作りの道を教へたといふ。また蹴裂明神とは安曇(あづみ)氏の祖神の日金拆(ひかなさく)命で、治水の神だともいふ。

 甲府盆地には水の神をまつる神社も多く、甲府市高畑の住吉神社に伝はる歌がある。

 ○有難や、今日住吉の神ませば、なほしも頼む代々の行末     武田太郎信義



笛吹権三郎

東山梨郡三富村芹沢

 後醍醐天皇の御代のこと、甲斐国の芹沢という村の子酉(ねとり)川の川辺に、京から母と息子の二人連れが移り住んだ。子の名は藤原権三郎といひ、正中の変で連座して死んだ父の弔ひのため、毎日小屋で高麗笛を吹いた。美しい笛の音に聞き惚れた村人は、笛吹権三郎様と呼んで親しんだ。
 ある秋、子酉川が大洪水にみまはれたとき、母は水に呑まれて行方不明となってしまった。それ以来権三郎の笛は、深い悲しみに満ちたものとなり、村人もあまり近づかなくなってしまった。そのうち権三郎の姿が見えないことに気づいた村人は、心配になって川下の集落を捜すと、筏に乗って笛を吹く男を見たといふ者があった。筏は発見されたが、権三郎を見つけることはできなかった。
 この村ではそれ以来、月のよい晩には、どこからともなく笛の音が聞えたといふ。すると村人は握り飯を作って川に流し、権三郎の霊を慰めたといふ。以来、子酉川は笛吹川と呼ばれるやうになった。

 ○山あらし雪の白波吹き立てて、ねとり流るる笛吹の川      夢窓国師

 ○峡川の笛吹川を越え来れば、この高はらはみな葡萄なり     窪田空穂


天目山

大和村田野

 武田勝頼は、長篠の戦の大敗北以後、劣勢に立たされてゐた。度重なる重臣の裏切にあひ、織田徳川の大軍の攻撃をうけて城を捨て、天目山の麓の田野を最後の場所と決めた。精鋭を選んで押し寄せる敵兵に向って最後の合戦を試み、田野に引き上げて生き残りの臣下とともに自害した。天正十年三月のことである。

 ○黒髪の乱れたる世ぞ、果てしなき思ひに消ゆる露のたまの緒   相模(勝頼夫人)

 ○朧なる月のほのかに雲かすみ、晴れて行くへの西の山の端    武田勝頼

 ○あだに見よ。誰もあらしの桜花。咲きちるほどは春の夜の夢   武田信勝(勝頼嫡子)

 武田家は新羅三郎義光(源義家の弟)を祖とする名門である。新羅三郎は笙の名手でもあり、後三年の役のときに死を覚悟し、足柄山で豊原時秋に秘曲を伝授したといふ。



甲斐の黒駒

 甲斐盆地では古代から放牧が盛んで、甲斐の黒駒は名産として朝廷に献上された。御坂峠の北の御坂町上黒駒の周辺が特に盛んだったといふ。

 ○ぬば玉の甲斐の黒駒、鞍着せば命死なまし、甲斐の栗駒     日本書紀

 御坂峠の文学碑

 ○富士には月見草がよく似合ふ                 太宰治



猿橋

大月市

 大月市の桂川の岸壁に架る橋を猿橋といふ。難所の谷であったが、猿たちが手をつないで谷を渡る姿を見て、その形を摸して橋を架けたといふ。猿は近くの山王社に祀られる。

 ○名のみしてさけぶもきかぬ猿橋の下にこたふる山川の声     道興



諸歌

 ○惜しからぬ命なれども、今日までぞ、つれなき甲斐の白根をも見つ 平家物語 維盛

・身延山

 ○うつぶさにさのみは人の寝られねば、月を身延に置きかへるらん  日蓮

・一宮町 浅間神社

 ○うつし植うる初瀬の花の白木綿(しらゆ ふ )をかけてぞ祈る、神のまにまに   武田機山