天目山
大和村田野
武田勝頼は、長篠の戦の大敗北以後、劣勢に立たされてゐた。度重なる重臣の裏切にあひ、織田徳川の大軍の攻撃をうけて城を捨て、天目山の麓の田野を最後の場所と決めた。精鋭を選んで押し寄せる敵兵に向って最後の合戦を試み、田野に引き上げて生き残りの臣下とともに自害した。天正十年三月のことである。
○黒髪の乱れたる世ぞ、果てしなき思ひに消ゆる露のたまの緒 相模(勝頼夫人)
○朧なる月のほのかに雲かすみ、晴れて行くへの西の山の端 武田勝頼
○あだに見よ。誰もあらしの桜花。咲きちるほどは春の夜の夢 武田信勝(勝頼嫡子)
武田家は新羅三郎義光(源義家の弟)を祖とする名門である。新羅三郎は笙の名手でもあり、後三年の役のときに死を覚悟し、足柄山で豊原時秋に秘曲を伝授したといふ。