伊豆半島

 日本列島はユーラシアプレートの東端に乗る島だが、東に太平洋プレート、南にフィリピン海プレートが接してゐる。太平洋プレートはわづかづつ西に移動し、日本海溝の底でユーラシアプレートの下に潜り込んでゐるといふ。フィリピン海プレートは、北端に伊豆諸島や伊豆半島、丹沢山地を載せて北上してゐるらしい。百万年以上前は、伊豆半島は独立した島だったらしく、特異な植物の生態も見られるといふ。

 丹沢山地の麓(神奈川県秦野市平沢)の震生湖は、地震でできたものなのだらう。

 ○山さけて成しける池や水すまし  寺田寅彦

 ○山はさけ海はあせなむ世なりとも、君にふた心、わがあらめやも  源実朝

 右の実朝の歌は単に似た歌といふこと。



枯野

田方郡天城湯ヶ島町

 応神天皇の御代に伊豆で造られた船は、浮くこと軽く、海上をすべるやうに走ったので枯野(かるの)(軽野)と名づけられたといふ。田方郡天城湯ヶ島町松ヶ瀬に軽野神社があり、事代主(ことしろぬし)命をまつる。

 ○鳥総(とぶさ)立て足柄山に舟木伐り、木に伐り行きつ。あたら舟木を    沙弥満誓

 鳥総とは、切り倒した切り株のあとに小枝などを立てて、山の神や樹霊に感謝をささげるもののこと。



伊豆山神社

熱海市伊豆山

 むかし熱海の洞窟から湧き出た温泉を、「走湯(はしりゆ)の湯」といった。滝のやうに激しく湧き出してゐたらしい。

 ○伊豆の国、山の南に出づる湯の速きは神のしるしなりけり     玉葉集

 その地に浜宮として走湯神社がまつられ、山を登ると本宮の伊豆山神社がある。ここの森は「古古比(ここひ)の森」といはれた。ココヒとは「かがひ」(歌垣)のことだらうといふ。

 ○五月闇ここひの森のほととぎす、人知れずのみ啼きいたるかな   兼房朝臣

 伊豆山神社の神木の(なぎ)の木の葉は、男女の仲を結ぶなどのお守りとされる。葉脈が切れにくいからだともいふ。

 ○今度ござらば持て来てたもれ、伊豆のお山のなぎの葉を



諸句

 ○「伊豆は詩の国であると、世の人はいふ。伊豆は日本歴史の縮図であると、ある歴史家はいふ。そこで私はつけ加へていふ。伊豆は海山のあらゆる風景の画廊であると」(川端康成)



三島の神

伊豆、伊豆諸島

 下田市白浜の伊古奈比咩(いこなひめ)神社は、三島大明神の后神をまつるといふ。その白浜の地が、平安初期の延喜式名神大社の伊豆三嶋神社のあった旧址であるらしい。今の三島神社{大社}は、平安中期以降にここから伊豆国府のあった今の三島市の地へ遷ったものといふ。

 ○あはれとや三島の神の宮柱、ただここにしもめぐり来にけり    十六夜日記

 伊豆の三島神社は、最古のものは三宅島にまつられたといふ。伊予の三島明神の分れとされるが、伊豆諸島では三島の神は事代主(ことしろぬし)神とされることが多い。火山列島の伊豆諸島に住む人々は、御神火を恐れて暮らしてはきたが、事代主神が火山の噴火のたびに島を広げてくださるといふ信仰があるといふ。

 三島明神の主な后神は次の島にまつられてゐる。

  波布比売(はぶ大后)  波布比売命神社 大島

  伊賀牟比売(伊古奈比売)  后神社   三宅島伊賀谷

  佐岐多麻比売  御笏神社  三宅島神着

  久爾都比売(泊御途口大后明神)  泊神社   新島

  阿波売命(三島神社の本后)  阿波命神社   神津島



絵島と生島新五郎

三宅島

 正徳年中、江戸の人気役者、生島新五郎は、大奥の女中絵島(ゑじま)と通じた罪で三宅島に流された。事件は大奥改革を狙った老中たちの捏造したものだったといふ。江島は信州高遠(たかとほ)へ流罪となった。新五郎を哀れんで三宅島の民謡に歌はれた。

 ○花の絵島がから糸ならば、たぐり寄せたい身がそばへ



八丈島の為朝

 むかし八丈島は「女護(にょご)が島」ともいひ、美人ばかりが住む島だった。島の女たちは、年に一度、南風の吹く日に、それぞれの作ったわらぞうりを南の浜に並べた。南風に乗って青ヶ島から男たちが渡って来て、そのぞうりをはくと、ぞうりには女たちの印がついてゐて、女は自分のぞうりをはいた男を一夜夫に迎へたのである。

 ○南風だよ皆出ておぢゃれ。迎へぞうりの紅鼻緒         八丈しょめ節

 男たちは明くる日には「男島」とも呼ばれた青ヶ島へ帰っていった。八丈島は女だけの島だった。むかし島に漂着した先祖たちが、海神のたたりを恐れ、男女別々の島に住んだのだといふ。

 保元の乱に敗れた源為朝は、追手を逃れて諸国を渡り、八丈島に着いた。為朝は島の女と結婚して男子の双子が生まれた。このときから、男女の同棲が始まったといふ。

 まもなく追討の軍船がやってくると、為朝は小島(八丈小島)に渡った。八丈実記によると、敵を待つ間に為朝が卯の花を折り挿した地を宇津木村といひ、鳥を飛礫(つぶて)打ちにした地を鳥打村といふ。為朝が詠んだ歌がある。

 ○梓弓、手にから巻いて、いたづらに敵を待つまぞ久しかりける   源為朝

 為朝はこの地で壮絶な最期をとげ、宇津木村の八郎大明神にまつられた。




富士山

富士市

 むかし富士郡に子のない老夫婦があり、裏の竹林の中から現はれた幼い女の子を養子にして、かぐや姫と名づけた。姫が美しい娘に成長したころ、駿河の国司に見初められて求婚されたのだが、姫は、自分が富士山の仙女であり、老夫婦のもとでのつとめが終ったことを告げ、玉手箱を国司に与へて富士の頂に帰っていった。国司が玉手箱を開けると、中から富士の煙が漂ひ、その煙の中に姫の姿が見えた。国司は姫の幻を追って富士の頂上に登り、噴煙の中に再びかぐや姫の姿を見て、火口に身を投げたといふ。

 ○山も富士、煙も富士の煙にて、煙るものとは誰も知らじな    (神道集)

 別の話では、帝が行幸されたとき、美しい姫を見初められて一泊され、あらためて后に迎へようと都へ戻られた。ところが姫は、時が来たといひ、形見に不死の薬を残して、天の飛車に乗って天上へ帰って行った。不死の薬は帝に届けられたが、帝は、思ひ出すのも悲しいことだと受け取らず、使者は富士山の頂上で不死の薬を焼いた。その煙は絶えることはなかったといふ。

 富士山の神は、普通は、木花開耶姫(このはなのさくやひめ)といひ、浅間神社にまつられる。(版画・田中義一)

 ○富士の嶺は(ひら)ける花のならひにて、なほ時知らぬ山ざくらかな   続後撰集

 ○駿河路や、花橘も茶の匂ひ                   芭蕉

 ○物干しに富士や拝まん、北斎忌                 永井荷風

 源平のころ、鳥の羽音に驚いた富士川の合戦の以降、平氏は衰へていったといふ。

 ○富士川の瀬々の岩越す水よりも早くも落つる伊勢平氏かな



足柄峠

駿東郡小山町

 駿東郡小山町、国鉄(JR)足柄駅付近に竹之下の宿場があった。

 ○足柄の山の嵐の跡とめて、花の雪ふむ竹の下道          風雅集

 ここから東の足柄峠を越えて相模国へ入る道が、古代の東海道である。むかし美濃国青墓(あをはか)の遊女が足柄峠を越えようとしたとき、何かはばかるものがあったらしく、山神が翁の姿で現はれて越えるための歌を教へてくれたといふ。その歌が、竹之下宿の遊女たちに伝へられて来た。

 ○秋ならばいかに木の葉の乱れまし、あらしぞ落つるあしがらの山



三保の松原

清水市

 清水市の三保の松原、その西の有度山の南の有度浜あたりに、むかし神女が天から降りて舞ひ遊びをしたといふ。羽衣伝説としては最も有名な地である。

 ○有度浜(う ど はま)に、天の羽衣むかし着て振りけむ袖や、今日のはふりこ   能因

 ○清見潟(きよみがた)、磯山もとは暮れそめて、入り日のこれる三保の松原    藤原冬隆

 清見潟とは今の清水港をいふ。

 静岡市の久能山(くのうさん)東照宮に伝はる歌。

 ○人はただ身のほどを知れ、草の葉の露も重きは落つるものかな   徳川家康



草薙の剣

 清水市宮切の久佐奈岐(くさなぎ)神社は、日本武尊をまつる。四体の神像があり、吉備武彦命、大伴武日連、七掬脛、弟橘姫をかたどったものとされるが、この四人は尊の東征に従った者たち(日本書紀)である。日本武尊は、久能山の北の草薙の地で賊の火攻めにあひ、剣で草をなぎはらって難をのがれたといふ。火を焼かれた地は少し離れた焼津だったともいふ。

 ○焼津辺にわが行きしかば、駿河なる安部の市路に逢ひし子らはも  春日蔵老



諸歌

 ○登呂をとめ、安倍をのこらが歌垣の歌声に交じる遠つ潮騒     佐々木信綱

 ○(あたひ)無き(たま)をいだきて、知らざりしたとひおぼゆる日の本の人    三矢重松



宇津山

宇津ノ谷峠

 宇津山は、安倍郡と志太郡の堺(今の静岡市と岡部町の堺)にある峠である。伊勢物語の主人公が東下りにここを通ると、道は暗く細く、蔦や楓が繁り、歩く身は心細く、思ひがけないことに出会ひさうだと思ってゐたら、旅の修行僧に出会ったので、京への歌を託した。

 ○駿河なる宇津の山辺のうつつにも夢にも人にあはぬなりけり    伊勢物語

 以来、京の人にも知られた土地となったが、正応二年(1289)にここを通った「とはずがたり」の筆者は、蔦も楓も見ることなく歌を詠んだといふ。

 ○言の葉も繁しと聞きし蔦はいづら、夢にだに見ず。宇津の山越え  後深草院二条



西行の笠懸松

志太郡岡部町

 武士だった西行が出家をして、東国の旅に出たとき、家来の西住も伴として従った。だが西住は、旅の途中、志太郡岡部で病死した。西住を葬った塚の傍らの松に掛けた笠には、西行の歌が記してあったといふ。

 ○西へ行く雨夜の月や、あみだ笠、影を岡部の松に残して      西行



小夜の中山 夜泣き石

榛原郡金谷町

 東海道の日坂(にっさか)峠(掛川市)から東、榛原郡金谷町へ出る坂道を、小夜の中山といふ。

 ○甲斐が根をさやにも見しか、けがれなく横ほりふせるさやの中山  古今集

 南北朝のころ、ここで小夜姫といふ身重の女が、山賊に殺された。山賊は北条氏の残党だともいふ。小夜姫は息を引き取ったが、生まれた子は石の上で夜泣きしてゐたところを、近くの里人に発見された。里人に養育された子は、十三の年に出家したが、「命なりけり、さやの中山」と口ずさみながら諸国をめぐり、池田の宿で、母の仇討を遂げたといふ。

 ○年たけてまた越ゆべしと思ひきや、命なりけり、さやの中山    西行

 その石は、夜啼き石と呼ばれ、久遠寺境内、または東海道沿ひにある石をいふ。近くの夜泣き松は、樹皮が子供の夜泣きに効き目があるといふ。



桜井王

磐田市中泉 府八幡宮

 天武天皇の曽孫・桜井王が遠江国司として赴任した時、国府内にまつられたのが、府八幡宮(磐田市中泉)の始りであるといふ。万葉集に、桜井王が遠江国から聖武天皇に贈った歌があり、何かの了解を求めて請願したときの歌のやうである。

 ○長月(ながつき)のその初雁(はつかり)の使にも、思ふ心は聞こえ来ぬかも        桜井王

 聖武天皇は、遠州灘の長浜の地名を歌に詠んで、すべて任せたと答へてゐる。

 ○大の浦。その長浜に寄する波。ゆたけく君を思ふ。この頃     聖武天皇



池田の熊野

磐田郡豊田町池田

 源平時代に、池田宿の長者の娘・熊野(ゆや)は、京に召されて平宗盛(清盛の子)に仕へてゐた。ある年の花見のとき、故郷から老母の重病を知らされ、暇乞ひに歌を詠んだ(謡曲熊野)。

 ○いかにせん都の春も惜しけれど、馴れしあづまの花や散るらん   熊野

 源頼朝の弟の範頼は、池田宿の遊女を母として、蒲御厨に生まれたことから、(かば)冠者(かんじゃ)といはれた。義経とともに平家を倒した功績はあったが、最後は伊豆修善寺で頼朝に殺された。

 池田は、もとは天竜川の西岸にあったらしく、川の流域が変って東になったやうだ。

 ○そのかみの里は川瀬となりにけり、ここに池田の同じ名なれど



秋葉山

 ○あなたふと秋葉の山にまし坐せるこの日の本の火防ぎの神     伝元明天皇



井伊谷宮

引佐郡引佐町井伊谷

 引佐郡は、南北朝のころ後醍醐天皇の皇子・宗良親王の東国での拠点の地であり、また終焉の地ともいふ。興国元年(1340)に井伊谷(ゐのや)城が落ちてから親王は信濃などへ移ったが、信濃から安倍城の狩野氏の娘への変らぬ思ひを送った歌がある。

 ○富士の嶺の煙を見ても君問へよ。浅間の岳はいかが燃ゆると    宗良親王

 引佐町に親王をまつる井伊谷宮があり、墓廟には龍潭寺が建てられた。



春日明神と野狐

浜松市白羽町 白羽神社

 天文のころ、馬込川の河口に、白い鹿に乗った貴い神が現はれた。その夜、上流の白羽の里では、里人全員が同じ夢をみて、白鹿に乗った春日の神のお告げを聞いた。その鹿は口に麦の穂をくはへてゐたといふ。神のお告げにより、里人たちは、里の南の荒涼の地を開墾し、春日明神をまつった。これがのちの白羽神社(浜松市白羽町)である。

 それからまもなく、開墾のために住むところを失った野狐たちが領主のもとへ訴へ出た。領主は、駿河国の富士の裾野の良い土地を教へたので、野狐は歌を残して移住して行ったといふ。

 ○住み慣れし里を離れて野狐の旅もするがの富士の裾野へ

 村の耕地の中には狐塚が残ってゐる。



橋本の宿、浜名湖

浜名郡新居町

 奥州を平定し、建久元年(1190)に京へ上る源頼朝の一行は、各地で歓迎を受け、浜名湖の南の橋本の宿でも遊女たちの大変なもてなしがあったので、頼朝は機嫌よく歌を口ずさんだ。

 ○橋本の 君に何をか 渡すべき                 源頼朝

 臣下の梶原景時が、たはむれに下の句を付けた。

 ○ただ杣山の くれであらばや                  梶原景時

 実際は織物などの豪華な引き出物を遊女たちに与へた。頼朝は京で権大納言、右近衛大将に任ぜられ、建久三年には征夷大将軍に任ぜられた。

 浜名湖はもと淡水湖で、遠江(遠つ淡海)の国名にもなったほどだが、湖から南の海へ通じた浜名川といふ短い川に架る橋のそばに橋本宿があった。明応七年(1498)の大地震以来、地殻変動によって海水が入りこみ、橋本宿も水没したので、宿場は新居宿へ移った。