献花の持ち方、左高? 右高?

戦没者追悼式などで、行なはれれる献花について。
これは、日本独自の新しい慣習のようである。おそらく、神道の玉串奉奠などを参考にはしたが特定の宗教色にならないように考案されたもののように思はれる。

欧米でも献花はあるようだが、日本の献花のように1輪ではなく、花束を捧げることが多い。花束の持ち方は当然、左高(左が花で高く持ち、右は根元を低く持つ)である。勲章やアクセサリーを左胸に着けるように、花束も花が左胸になるように左高である。日本でも玉串は左高に持ち、歌手などが花束を持って歌ふときなど左手で左高である。

ところが、日本の献花の作法では、統一はされてゐないが、右高が多くなってゐるようなのである。
Googleの画像検索を試みてみたら、解説イラストの上位10件のうち、8件が右高。左高は2件のみだった(昨年)。

「冠婚葬祭」のマナーやら作法やらについてネット検索してみると、著名と思はれるサイトは、
「冠婚葬祭マナー百科」 http://5go.biz/kankon/ → 「献花の作法
である。他は葬儀ホールなど企業サイトのページばかり目立つのだが、このサイトは自動広告は入るものの、ネット上では長期にわたって支持のありそうな「老舗」の印象がある。この「冠婚葬祭マナー百科」では、献花の花の持ち方は、左高だと言ってゐる。「玉串の捧げ方に準じます」とも書かれてゐる。多くの企業サイトは右高だといふが、「冠婚葬祭マナー百科」では左高である。

そこで思ふのは、日本の献花も、最初はやはり、左高が普通だったのではないかといふことである。

日本の玉串も欧米の花束も、左高に持つ。利き手の右手でしっかり茎を持ち、左手は花に近い位置を下から支へるといふのが自然な形だらう。
いつから右高が広まり始めたのか、写真資料が多ければ調べることも可能かもしれないが、見つからない。
日本で右高だといふのは、どのような理由付けが想定できるだらうか。
あるいは、政治家でも左高の人の写真も見つかるが、最近の総理大臣は右高が実に多い。政治家の発想としては「右肩上がり」が好ましいといふ縁起担ぎで始まったといふ説(?)もあるかもしれないが、いかがなものだらう。 

最初のころ、葬儀などで、係員は左高に持ったが、手渡しの作法を教へてもらってないので、そのままスーッと参列者に差し出した。参列者は、受け取ったときは右高になり、献花などは慣れてないので、そのまま献花台へ歩いて行った。
これが可能性としては高いような気がする。(手渡すときは左右を持ち替へてから渡すと良いのだが……)

なほ、天皇皇后両陛下の場合は、花束は左高にお持ちになるが、前へお進みのときなどで、ときどきまっすぐに立ててお持ちの写真がある。国民の意見が統一されてゐないのでそうなさるかのようでもあったが、そうではなく、神道儀礼での陛下の御玉串は、大きさも"特大"で、垂直に立てたまま御奉奠になるので、それを連想した次第である。
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黄泉つ伊邪那美 いろはうた

日本語についてのエッセイなどのアンソロジー「日本語で生きる」といふシリーズは、福武書店から刊行され、その1『この素晴しい国語』は、"大野晋 編"とある。
同書のなかの、塚本邦雄「いろはうた」に、いろは四十七文字を使った「うた」が多数引用されてゐた。有名な「あめつち」と「いろは」、そして近世中期以降の作などである。
近世の作は、仮名遣ひが恣意的でいけない。ただし本居宣長以外は。本居宣長は、こんなもの(?)にも関心を示すのが面白い。

明治以後は、新聞社の募集の作などであり、内容は、個人の感情やメッセージを込めたもの、地名・苗字などの無作為の羅列で、面白みがないものが多い。地名の羅列は、昔の歌の伝統もあったと思ふが、たとへば、鉄道の1つの路線の駅名を、多少の通過駅があっても、出発から順番に辿るのでなければ面白みがない。

30年ほど前の自作の歌は、内容の面白みはそこそこだが、「遅悪子(おそわろこ)」といふ造語を使ってしまったのが難点。
遅悪子とは、最後に生れた悪い子のことで、古事記では、伊邪那美命が最後に生んだ火の神・迦具土神のことである。

ちはやふる 黄泉(よも)つ伊邪那美
おそわろ子 在らせ終へ得
めのほとに 受けし傷ゆゑ
隠れ居て ねむり給ひぬ
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子(ね)の日の小松

<一昨日の続き>
一昨日にも書いた『和漢朗詠集』の「子日付若菜」に載る菅原道真の詩。

「松樹に倚り、以て腰を摩で、風霜の犯し難きを習ふ」

について、
やはり落語の「寿限無」に出てくる「五劫の擦り切れ」を連想したのだが、それはともかく・・・、

松の樹に倚りかかると、樹皮は堅くて、悠久の昔から天女が衣を掛け、長い長い年月にわたってもなほ変ることのない松樹。
たしか菅原道真自身も、九州太宰府への旅の途中で、衣を掛けたといふ衣掛松の伝説の地もあったと思ふ。ほかにも旅をした幾人もの歌人に、衣を掛けて将来を祈ったといふ、同様の伝説がある。

子の日について、前述の壬生忠岑の和歌もあるが、
江戸時代の鈴木春信の絵に書かれた和歌がわかりやすい。

 子(ね)の日とて今日引きそむる小松はら木たかきまでを見るよしもがな

年の始めに野辺で小さな松を引いて、家の庭に植ゑる。その木が高く成長した将来の姿を見る方法はないものか、といふ意味である。
逆に、後世の者からいへば、よく成長した、あるいは老いた松を目の前にして、誰が植ゑたのだらう、今の姿を、植ゑた人に見せたいものだと思ふこともあらう。


★補足 「子の日とて」の歌は、国歌大観CD-ROM版を検索したところ、新後撰和歌集(1216)にのせる後嵯峨院御製であることがわかった。
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「倚松帖」とは

「倚松帖」とは、我が家の幕末のころの当主が書き留めた、覚え書き帳の題名である。ブログのタイトルに拝借した。
覚え書きといっても、当座の小さい帳面ではなく、菊判サイズの厚めの良質の紙を二十葉ほど綴ぢて、丁寧に清書されたもので、手習ひの教本のような体裁になってゐる。
内容は、江戸時代の御触書などのうち家訓とすべき内容のものや、詩歌などが、書き写されてゐる。おそらく、家督を譲ったあとの晩年、明治初年ごろ書かれたものと思はれる。

その書の、詩歌の写しの冒頭は、『和漢朗詠集』の一節「子日付若菜」であった。

倚松樹以摩腰。習風霜之難犯也。
(松樹に倚り、以て腰を摩で、風霜の犯し難きを習ふ)
和菜羹而啜口。期気味之克調也。
(菜羹を和して口に啜り、気味の克く調はんことを期す 雲林院行幸 菅原道真)

子日(ねのひ)する野辺にこまつのなかりせばちよのためしになにをひかまし(壬生忠岑 拾遺集)
(以上、和漢朗詠集 子日付若菜より)

正月の子の日に、野辺に出て、若菜を摘み、小さい松を引くといふ子の日の遊
年の始めに、常磐樹である小松に触れて、長い年月に思ひを寄せ、長寿を祝ひ、そして七草粥をすする。
小松引きとは、野辺に自然に芽生へた小さい松を、引き抜いて持ち帰り、自宅に植ゑることであり、正月の門松をそのようにしつらへた地方もあったとのことである。
次代の繁栄を祈ってのものでもあらう。
英語で言へば、wish you ... となる。
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教科書の悪文について

東京新聞(8.21)に『教科書 読み取れない』『中学生 複雑な文章苦手』という大きな記事が載っていた。「中学生の半分近くが教科書を正しく読み取れていない」というので、それならば、ゆゆしき問題のようにも読める。日本の中学生はまだ発展途上のロボット知能程度の能力だともいう。
しかし記事はどうも歯切れの悪い文章が続くので、途中で、記事の別枠に例示してある、教科書からの試験問題3問を読んでみた。

どうということはない、教科書の文章というのは、悪文の見本のような文章である。

現代の悪文の代表例は、要するに、英語文の関係代名詞を直訳したときに複雑怪奇な構文となるような、あの文章のことである。
そこで3つを検討してみよう(画像参照)。

1は、正答率はかなり高かったらしい。
「太陽の400万倍の質量もつ」が「ブラックホール」に係り、「太陽の」の直前に句読点もあり、わかりにくさは少ない。「太陽の400万倍の質量もつ」と断定的な強い表現があるが、文末は「推定されている」と弱い表現になるのがやや奇妙な感がある。おそらくは「太陽の400万倍の質量もつ」ものが存在することは様々な観測結果から明白なことなのだが、太陽のように光を発しないので、仮に「ブラックホール」と呼んだ、というような経緯が反映されてのことかもしれない。

2は、正答率 中学生53% 高校生81%。
宗教名と地域名という「主語 -- 目的語」の組み合わせが3組並列し、最初の2つは「述語」を省略し、文末に1つだけ「おもに広がっている」という「述語」がある。3つの並列文の中には、「東南アジア、東アジアに」という並列表記が入り箱のように入りこんでいる。この地域名の区切りは読点(、)であり、3つの並列文の区切りも同じ読点である。「東南アジア・東アジアに」と中黒点を使えば少しわかりやすくなるという意見もあるだろう。「仏教は、東南アジア……」というふうに主語の後に読点を入れるとよいが、入れないのは、読点が多すぎてしまうためだろう。
知識があれば、「仏教は東南アジア、東アジアに、キリスト教は」とくれば、「東アジアに」の次に何が省略されているかは想像がつく。しかし中学生では無理かもしれない。
(なお、文章内容の問題として、オセアニアをキリスト教で代表させるのはいかがなものか。)

3は、正答率 中学生9% 高校生33%。かなり低いが、一般の大人も意味を知らないようなアミラーゼ、グルコースといった専門用語があり、中学校の国語科のテキストとして適当かどうか問題があろう。
後半の文、「同じグルコースからできていても、形の違うセルロースは分解できない」というのがわかりにくいわけである。
文頭の「アミラーゼという酵素は、」で主語を示す読点があると少しわかりやすいだろう。
末尾の「セルロースは分解できない」の「は」は、目的語を示し、「デンプンを分解するが」の「を」と同じである。2つの並列文なのだが、目的語を示すのに「を」と「は」で助詞が異なる。「は」は、並列文のうち一方を強調したいときなどに使うものであるが、「セルロースを分解することはできない」と「は」の位置を変更すれば少しわかりやすくなる。

以上、新聞記事に取り上げられた3つの例文を見た限りでは、問題なのは、教科書の悪文であろう。

これらの悪文を、関係代名詞を用いた英語文に翻訳し、その英語文を、英語のロボット知能に解読させてみたとき、日本語のロボット知能より良い結果が出るような気がする。それは人間に対しても同様で、日本の児童よりも、英語圏の児童のほうが成績が良いことになりそうである。
あるいは、英語文を、日本語の悪文で翻訳し、「世界共通試験問題」として日本の児童に課すとしたら、どうなるであろうか。

(蛇足) 例文3で「中学生の正答率9%」といのは、四者択一の問題にしては低すぎないか。
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昭和天皇の仮名遣ひ

先年(平成27年(2015))、『昭和天皇実録』が公開刊行され話題になったが、中央公論社の新書判で『「昭和天皇実録」の謎を解く』(半藤一利ほか著)を昨年読んだ。
終戦の御決断における貞明皇太后の存在。また、戦時中に天皇へ虚偽の報告ばかりしてゐた一部の大臣について、やはり天皇の御評価は戦後に至っても低いものであったことなど、あらためて再認識できた。

『「昭和天皇実録」の謎を解く』の中に、明治四十三年、昭和天皇が九歳のときの手紙が引用されてゐる。歴史的仮名遣ひで書かれた手紙の主要部分を、次に写し書きしてみる。アンダーラインは筆者によるもの。

「まだやっぱりおさむうございますが、おもうさま、おたたさまごきげんよう居らっしゃいますか、迪宮(みちのみや)も、あつ宮も、てる宮も、みんなじょうぶでございますからごあんしんあそばせ
私は毎日学校がございますから七じ四十五分ごろからあるいてかよひます
四じかんのおけいこをしまつてみうちにかへります。そしておひるをしまつてたいてい山や、村や、松林などにでておもしろく遊びます
またときどきせこに行ってにはとりなどを見て、これにゑをやることも有ります
またはまにでてかひをさがすことも有ります、しかし、かひはこちらにはあんまり有りません、葉山にはたくさんございますか
きのふはおつかひでお手がみのおどうぐやおまなをいただきましてありがたうございます。
おもうさま
おたたさま
  ごきげんよう
 二月四日 (以下略)」
(明治四十三年)

「やつぱり」でなく「やっぱり」などといふ表記は、原文通りではない可能性もあるが、「じょうぶ」「どうぐ」といふ字音の仮名表記は、そのままなのではなからうかと思ふ。
辞書を引くと、丈夫は「じやうぶ」、道具は「だうぐ」といふ仮名表記が見られる。
我が家には明治末から昭和前期(20世紀前半)に曾祖父などが書いたものが沢山保存してあるが、字音は「じょうぶ」「どうぐ」といった類の表記で、例外なく徹底してゐる。
曾祖父の場合は、「…のやうな」ではなく「…のような」などの表記であり、字音については徹底してゐる。
このような表記は当時一般に多く行なはれてゐて、昭和天皇も同様であったのだらうと思ふのである。中学生以上になれば、丈夫、道具などと漢字表記が普通とならう。

字音の仮名表記は、発音に近い表記で、といふことについては、昔から多くの支持があったわけで、一方における伝統といってもよい。
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螢の歌、3つ

ホタルについての歌、というより、最初のは都々逸だが・・・

 恋にこがれて鳴く蝉よりも鳴かぬ螢が身をこがす

江戸時代のものだろうか。
恋のつらさにもいろいろあるが、蝉のように誰にもわかるように泣いて訴えることができるような恋なら、まだいい。螢のように、夜にひっそりと声も出さずに惑い耐え忍ぶ恋のほうが、悲しみも深くつらいものだ……
蛍の光に着目し、螢が自分の火でやけどをするかもしれない、という洒落やユーモアもある。

次に、平安時代の有名な歌。

 もの思へば沢の螢もわが身よりあくがれ出づる魂(たま)かとぞ見る 和泉式部

宵の闇の中をさまようように浮遊する螢。それは、恋に憧れて、我が身から飛び出ていった魂の姿に違いない。だから、行き場もなく飛び迷い、我が心は無心でもあり、空っぽで虚しくもある……
鳥は山の霊であるとか、死んだ人の霊であるとかの信仰があったが、虫も同様に人の霊などに見られることがある。蝶が眠っている人から出た魂に見られることもあったが、螢もそれに近いものがある。

以上の二つは、歌のプロによる技巧の歌という感があるが、次の近代の歌は、素朴な民俗をふまえたもの。

 その子らに捕へられんと母が魂、螢となりて夜を来るらし  窪田空穂

幼な子を残して死んだ母のことを歌ったものだろう。
夏の御魂祭りの季節に現われる螢は、人魂に近いものに感じられていたようだ。

(蛇足 「螢」は昔の字体のほうが螢らしい)
エッセイ風にもう少し長く書こうと思ったが、箇条書風になった。
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「坊ちゃん」の実母、そして丸谷才一

昨年秋、丸谷才一の『星のあひびき』といふエッセイ集(文庫判)を読んだら、「『坊ちゃん』のこと」といふ4ページのエッセイがあり、何かにつけ坊ちゃんを可愛がり援助しようとする清(きよ)といふ女中は、坊ちゃんの実母であらうといふ。
「やっぱりそうか」といふ思ひ。この「やっぱり」とは、かねて自分がさう思ってゐたわけではないのだが、「やっぱり」と表現するしかないやうな、どこかでさうなるべくして到達した認識に違ひないといふ感覚である。

丸谷氏は、清が実母であることを証明する手間は簡単に済ませ、なぜ今までこのことに気づかなかったのだらうと、その原因について筆を進めてゆく。

父と清の間に生れた坊ちゃんは、家の体面を重んじて母の戸籍上の実子として育てられたわけだが、昔はありそうなことである。

大塚英志『捨て子たちの民俗学』によると、柳田国男や小泉八雲にも、自分は一種の「捨て子」だといふ意識があり、それが学問の大きな動機になってゐたといふ。折口信夫も然りであらう。
沢山美果子『江戸の捨て子たち』は、江戸時代の捨て子をケアする村のしくみなどについて、実証的に研究した本である。
他にもいくつか同類の本を読んでゐた。

私自身は、江戸中期以後の村々の人口が固定していった時代の二男三男たちは、一種の「捨て子」となって、都市の町人文化を成立させたのだと思ってゐた。「二男以下の者たちが皆非人になった」といふ司馬遼太郎の言葉も、意識から離れない。明治時代の徴兵制では、親の扶養義務のある長男は金納によって兵役を免れたが、二男以下は徴兵に取られ、戦死する者もあった。靖国神社は、長男が二男以下を祀るかたちで国民に定着していったのではないか。鎮魂によって二男以下は故郷にもどり、長男は意識の上で故郷を捨てるのだろう。これらは全て一連の「捨て子」たちであり、神話時代の須佐之男命以来の、さすらふ文学のことであり、日本文化のことでもあるのだらう、そんなことを考へてゐた。

丸谷氏のエッセイに書かれてゐた三浦雅士『出生の秘密』を読み始めてみたが、文芸評論の本に不慣れで、分厚い本だといふこともあり、途中で読むのをやめてしまったが、その本でふれられてゐた『樹影譚』といふ丸谷才一の小説を読んだ。これは、ある小説家の前にある日突然謎の老女が現はれ、私はあなたの実母なのだと名のり出る話。

河出書房『文芸別冊・丸谷才一』の三浦雅士氏によると、
丸谷氏がいふには「折口信夫を一言でいへば、……自分の本当の父親は違ふんぢゃないか、本当の母親は違ふんぢゃないかといふ幻想が膨らんだ、それであれだけ書いた人」、といふことらしい。通俗的な一面をとらへて何か核心をついてゐるやうな指摘が丸谷氏らしいのだらう。

丸谷氏の小説『横しぐれ』も読んでみた。
産婦人科医の父の、生前唯一の長期旅行だった四国道後温泉の旅で出会った男は、種田山頭火ではないか、それを推理してゆくストーリーである。結局単純な年代の思ひ違ひが原因で、その説は否定されるのだが、最後に父のそのときの旅の理由が明らかにされる。父は過去の愛人であった女性の堕胎手術に失敗してその女性を死なせて事件となり、その沈鬱な心理状態を救はうと父の友人が誘った旅であった。堕胎手術の10年前に父と愛人との関係は解消してゐた。事件当時、主人公は中学一年生なので13歳。愛人との交際が4年以上だったとすると、主人公が生れた時期に愛人関係だったことになり、まさか主人公はこの愛人の子ではあるまいか、などと思った。そこで最後の何ページかを再読することになる。
事件当時、母が自殺するのではないかと周囲が心配した。愛人の発覚がそれほどショックなら、愛人の存在を知ったのはそのときが初めてであり、夫の愛人の子を戸籍上の実子として育てたとは認めがたい。しかし周囲が心配しただけで実際の母の行動は明らかではない。
女性は愛人関係だったころ既に若い未亡人だった。実母であるなら、小説ではやはりどこかで実子のことを気づかったり意識してゐることを匂はす描写があると思ふので、それがないところをみると、物語の上では、やはり愛人は実母ではないのだらう。
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「私本管理Plus」という蔵書管理ソフト

「私本管理Plus」というフリーの蔵書管理ソフトを使ってみたのは、6年以上前の2006年8月ごろだが、そのとき3000有余を登録。今年2013年になって、バーコードリーダーを使用して、続きをやってみた。
現在、一般書が5900冊。ほかに漫画関係で1500冊、伝来物和本200冊、他に処分予定の本から新しめの本でバーコードで簡単に登録できるもの200冊。合計7800冊。切りの良い1万まで登録してみたい気もする。残りは、郷土史物、自費出版物・紀要類、漫画、トンデモ古代史系、実存主義マルクス主義哲学、雑誌などがある。

「私本管理Plus」というソフトは、若干使いにくい部分もあるが、個人の蔵書はそれほど際限なく数があるわけではないので、不便を感じながらも、登録は終ってしまう。

ただしデータベースとして長く使い続けるためには、改善を望みたい部分もある。
このソフトの良いところは、Amazonのサイトから本の内容説明のテキストを取り入れることができ、そのテキストには目次のリストが含まれている場合もあり、それらのテキストに対してソフトから検索することができることである。
Amazonの「内容説明」は全ての本にあるわけではないが、日々追加されているようでもある。増補もあるようだ。6年前には「内容説明」が欠けていたものが、今は追加されている場合がある。表紙画像もなかったものが付いている。それらの新しいデータは、一件一件このソフトの「登録画面」を開いてISBNの横をクリックしなければ取得できない。そのときクリックしても必ずしも追加データがあるとは限らない。これらの新しいデータを、どう取得するかが問題になる。
今回は、全てのISBNを再登録することにした。方法は、「データ整列」でカテゴリ基準に並べ替えて保存。そのcsvファイルからISBNだけ取り出して新規フォルダに一括登録する。カテゴリ順に保存したのは、カテゴリの再登録が不可避なので、それをやりやすくするためである。

「内容説明」には手動で全集の目次などを貼り付けておくと便利である。目次をテキストにして個人ブログに載せている人がいる。柳田国男集、折口信夫全集、日本の民話(未来社)などの目次をそれらのサイトから拝借した。三田村鳶魚全集はWikipediaに目次があった。

次の画像は、キーワード「猫」で検索したときの67冊のリストの一部。こういう使い方ができるのがよい。
私本管理Plus


私本管理Plusで、さらに欲しい機能は、右側の「プレビュー」エリアは、画面上のボタン1つで開閉できると良い。このエリア内の不要な表示項目は表示しない選択ができるようにし、ヒットしたキーワードがすぐにわかるように色表示にするとか。
(こういう画面はMSの Media Player に似ているかもしれない。電子書籍を登録して、ここからビュ−ワを起動できるとか。星5つまでの評価欄もほしい)

入力についての改善策としては、古い本のISBNを取得するための検索で「タイトル」「作者」「発行所」の3項目の入力欄があるが、その検索で見つからないときは、手動登録になるが、新たに「新規登録」画面を開いて、同じ3項目を再入力しなければならない。最初に入力した3項が生かされたまま、「新規登録」画面を開いたとき該当する3項目に既に入力された状態になっていると便利。
逆にISBNのない手動登録データの(データ修正のための)「登録画面」の内の3項目から、ISBN取得のための「ISBN検索」へ飛べるようにすれば、新規にISBNが付与されたケースではそれを取得できる。
更に登録データの「検索画面」で3項を入力して検索してみたが、未登録とわかり(登録忘れ)、新規に登録したいときは、この3項入力を保持したまま「検索画面」から「ISBN検索」へ切り替わると便利。
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伊勢参宮道中記 9冊 その2

伊勢道中記についての収集本が、またたまってしまった。

伊勢道中記6
 「伊勢参宮日記考」三冊(川崎吉男著、茨城県・筑波書林・昭和62)
上巻と中巻が資料編。7種類の道中記を翻刻掲載。おおむね常陸国からの出立と思う。当時の街道筋の道標をスケッチした絵が載っていた。
下巻は随想編で、解説である。

伊勢道中記5
 「秩父坂東湯殿山紀行・伊勢太々講道中記」(藤沢市文書館・藤沢市史料集33、平成21)
太々講道中記の文量が多い。天保14年、茅ヶ崎辺りからの出立。狂句、狂歌が面白い。

 「伊勢参宮紀行・道中日記」(藤沢市文書館・藤沢市史料集28、平成16)
文政11年の藤沢周辺から道中記2点、翻刻で収録。

 「青梅市史史料集第五十二号」(青梅市教育委員会、平成16)
嘉永2年の女性による道中記を翻刻収録。道中記以外の日記等もあって厚い本。

伊勢道中記4
 「金井忠兵衛旅日記」(金井方平編、高崎市・あさを社、平成3)
文政5年、板鼻の宿場の人の道中記で、長崎まで行っている。大量の写真画像と翻刻文の併載。

 「善兵衛さんの道中記」(宮本勉編、静岡・羽衣出版、平成4)
「駿河国安倍郡水見色村の庄屋」佐藤善兵衛の元禄6年の旅というから、かなり古いもの。水見色村は安倍川上流の山間の村。写真画像と翻刻文の併載。

 「政えんどんの旅日記」(静岡古文書研究会、平成11)
安政4年瀬名村から出立。道中記は写真画像と併載だが、文量は少ない。解説が多い。

以上で9冊。次の2点は古い道中記の全文掲載のないもの。

伊勢道中記7
 「社寺参詣と代参講」(世田谷区立郷土資料館、平成4)
資料館の企画展示のためのパンフレット。伊勢講・富士講・御嶽講などの資料。道中記の翻刻はない。
 「復刻版 宝来講道中細見記」(奈良大学鎌田研究室、平成4・平成6増補)
道中記の収録はない。現代の道中体験記と歴史研究。
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