民俗地名語彙事典

民俗地名語彙事典 民俗地名語彙事典 松本美吉、ちくま文庫
三一書房の大型本上下2冊を少々省いて文庫化したもの。大きな2冊の本は家にあるのだが、重くて手にとらぬまま、文庫判を注文。780ページの厚さだが、手軽に扱える本である。

「原」の項目を見る。
九州などでは、何々原の原は、何々村の村と意味が近いのだということだけが、長々と書いてある。
しかし、だとするなら、同じ九州に多いフレ(何々触)にも似ていることになる。このフレは行政用語なのであって、隣国に似た言葉があっても行政用語として採用されただけなので、それをもって人の移住があったとすることはできないとは、都丸十九一氏が書いていた。都丸氏のほうが国語学的なのである。
「崩壊地名」の小川豊氏は、複数の古語辞典などからの引用も多くて、国語学的であり、説得力がある。

「山」のところを見る。
平地の山林のことを山という例の説明が長くある。
それだけでなく、猟師の猟場のことをヤマというとか、ヤマは仕事場の意味に広がって、畑のことをヤマという例もあるとか。海の漁師は良い漁場のことをヤマというなど。こういった説明は、「民俗地名語彙」の名にふさわしく、多くはこのパターンで書かれているので、評価も高い本なのであろう。先程の「原」のような説明は例外的ということ。しかし国語学的な説明はもう一つ足りない気がする。

やはり、地名研究者には国語学的でない人が多いのかもしれない。柳田国男が地名研究から撤退したときも、国語学の不得手を理由にしたという話を思い出した。
だが、ここで、柳田国男の撤退については、本当の理由というのが、わかったように思った。それはすなわち、地方の地名研究者たちの多くは民間語源説から抜け出ていないところへ、柳田翁が介入して国語学などを材料にして審判を下すわけにはいかなかったのだろうということ。論争する地方人たちの一方を否定して一方を肯定するのでは、地方に痼が残り、他の分野の研究を進めるにあたって好ましいことではない。柳田本人は国語学が苦手だということもあるまい。いわば大人の判断で介入を避けたということではなかろうか。
その結果、国語学から遠い地名研究者は減らなかったのかもしれない。
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読みやすい印刷用書体とは

地方のある研究者の本の印刷文字が、丸ゴシックのようなメイリオのような書体だったので、奇妙に思った。おそらく世間で「読みやすい」といわれる書体だから、そうしたのではなかろうか。
だが最近の「読みやすい」というのは意味が違うのであって、メイリオなどはスマホで読みやすいとされる書体であろう。昔のワープロなどは印刷は明朝体でも画面表示は16pxのゴシック体が標準だった。ゴシックよりも横長で中央を魚眼レンズのように拡大した新聞活字に近いデザインの書体が、小さい文字でも「読みやすい」とされている。
また、新聞活字では、「目」と「日」を誤認しないように正方形のマスいっぱいに大きくデザインする傾向がある。「江」なら「工」の部分を縦いっぱいに大きくし、「戸」ならまん中の「口」を大きく強調する。画像の例では「平成明朝」にもこの傾向があることがわかる。游明朝にもその傾向がある。極小の字なら、読みやすいかもしれないが、普通サイズの字については疑問である。
fontW5 Demibold は太字のこと。

読みやすい書体の条件とは何か。いろいろな見方があるだろうが、速読での読みやすさというのは重要であろう。
速読では漢字の一画一画を確認するのではなく、また異体字の区別も重要ではない。文字全体の輪郭が重要で、四角いマス内の周辺部分の余白の形や配置なども重要である。昔の活字や写植文字は、そのようにデザインされてきた。それを最も継承しているのが、PC環境では、MS明朝であろう。

また、画像の「江」のように、MS明朝のやや縦が短く横に長いデザインが見やすい。漢字は「健」や「康」などのように、縦線より横線が多い字が多いのだから、縦長に書いたほうが他の字と区別しやすいのでは?、と思いがちだが、そうではない。
おそらく、漢字は偏と旁の左右の要素に分けられるものが多いので、全体をやや横長にすると、左右の各要素の変形の度合いが少なくなり、たとえば「工」と「江の中の工の部分」とは、相似形に近くなる。とくに旁の部分が縦に細長く変形しては認識しづらい。つまり、前述したように、輪郭認識なのである。
一画一画を認識しながら最終的に一字の認識に到達するというのは、漢字をおぼえたての小学生なら、そういうのもありうるが、普通は、漢字というのは一瞬で認識できなければ、文章はすらすら読めるものではない。

次に、文書の見出しなどで使う強調文字について
明朝体の太字は、MS明朝をワープロソフトの編集時に太字(Bold)に設定したのでは、くっきりした印刷文字にならない。太字用の書体、いわゆるフトミンの書体がを選べば、かなり違ってくる。本文のMS明朝とは多少デザインが異なる見出し文字になるのもやむをえないだろう。
ゴシック体については、印刷ではMSゴシックが良いわけだが、ディスプレイ表示では何故か太い字で表示されない。編集画面では、どの文字がゴシックなのかわかりづらい。ここは游ゴシックを使うしかないようだ。上の画像の例では、表示ではかなり太さが違うが、印刷ではMSゴシックも太く印刷される。

蛇足になるが、手紙や葉書の宛て名で、毛筆体というのも、変な字が多い。楷書体が、良いと思う。楷書体は、名刺や冠婚葬祭の案内状・礼状などで長い歴史があり、洗練されたデザインで見やすい字である。
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わが歴史的仮名遣ひ

詩人の入沢康夫は、、
高校3年から大学時代に、歴史的仮名遣ひで詩を書いて投稿などもしたが、1955年に処女歌集を出版したときは現代仮名遣ひになってゐることに、だいぶ年月が過ぎてから気づいた。そこで、その経緯をふりかへってみるために書かれたエッセイがある。
歴史的仮名遣ひにしなかった理由は、どうやら小規模だった出版社の意見に配慮したためらしい。印刷は町の小さな印刷屋さんに頼むこともあり、誤植が多くなることへの危惧があった。その後は、宮沢賢治全集の編纂や校訂に関はったことがきっかけで、歴史的仮名遣ひに戻したとのこと。

それで思ひ出したのは、自分のことなのだが、2002年ごろにホームページを始めたときは、歴史的仮名遣ひだったのだが、2005年に始めたブログは、現代仮名遣ひにしてしまった。その理由を思ひ出してみた。
あれは確か、グーグル等からの検索のときに、歴史的仮名遣ひは不利なのではないかと思ったからだった。たとへばキーワード「思ひ出」では検索されず、「思い出」としたほうが良いのではないか。当時はさう思った。
その後はたまに歴史的仮名遣ひでも書くけれど、両方切り替へ方式では、かなを間違ふことも多くならざるをえない。

言葉は思考の道具であるといふが、思考するときに自分の頭の中に飛び交ふ言葉は、どんな仮名遣ひなのであらうか。
頭の中で、認識や判断をした瞬間があったことはわかるものだが、語形をもったものが飛び交ふのではない気がする。飛び交ふのは言葉ではなく概念といったものである。文字で表出してから、読み返したときに初めて仮名遣ひを意識するのではないかと思ふ。

思ひ出したことはもう一つあって、昔ある町の印刷屋さんが、小さな出版も兼ねてゐて、ある人の句集を作るといふときに、歴史的仮名遣ひのチェックをしてくれ、謝礼は著者が払ふ、といふ話があった。100パーセント完璧といふわけには行きません、と言ったら、それで構はないといふので、引き受たことがある。といふことは、その当時、私が歴史的仮名遣ひで書いてゐたことを、印刷屋さんは知ってゐたといふことになる。あれはいつごろだったかといふと、1980年代だらう。
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『日本人の芸能』

日本人の芸能『日本人の生活全集7 〜日本人の芸能』(池田弥三郎著、岩崎書店 1957)なる本を入手。
最初に開いた「屋内の芸能」という見出しのところ(78p)に、興味深いことが書いてあった。「屋内」はルビはないが、ヤナイと読むべきだろ。

「屋内とはかならずしも建物の内部ということではない。かこみ内ということになろう。これも、今日のような建物の構図では、中門というべきものがないので、かこみ内でも、大道とひと続きであって、芸能固有の舞台にも混乱を生じている。
屋内の芸能が内部に進入していくとき、そういう芸能は、門口でひとつの芸能を行うのが常道で、そういう芸能の種目には、門口の芸能種目がある。」

屋敷の門の中へ入る前に、ごあいさつのような、門の手前で行うことになっている種目があるということだろう。村々では、その家の敷地ののことを「屋敷」といったので、表の道から門までの間は、屋敷内である。

(わが家でも、20メートル程度の入り口の道(カイドウといった)の中ほどに門があったが、市街化区域に指定されたため、門の脇の広場のような場所を税の安い畑に作り替え、門は母屋の前の庭への入り口まで動かしたことがあった。広場は近隣の子供たちの遊び場になっていたが、江戸時代には高札場でもあった。戦前までは鎮守の祭礼のときには、この道の入口に、神社とは別に、村の若い衆たちが大きな2本の幟旗を立てたという。)

歌舞伎という言葉の語源についての部分。

「かぶきという語の語源について、だいたんな想像をすれば、門口における祝福、つまり門祝ぎという語が、かぶくという語をうんだのではないか、という想像だ。」

歌舞伎という言葉は、門祝ぎからきている、ということらしい。
言祝ぎが寿(ことぶき)となったように、ホギがブキになる例はある。


この本には珍しい写真がたくさん載っている。祭礼などの写真では、不特定多数の人たちが写っているのもあり、もし自分が写っている写真を見つけたら、出版社に連絡すると、記念品が贈呈されるとのこと。肖像権等の対策を兼ねてのものかもしれない。
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花札の絵柄と和歌

花札には、1月から12月までの12種類の花と動物の組合せの絵が描かれている。動物は鳥が多い。

新潟県方面で流布されている「越後花」と呼ばれる花札のセットには、札の表に、花にちなむ和歌が添え書きされていて、興味深いものを感じた。ただし、歌は、必ずしも花と動物の両方を詠んだものは少なく、また、12種全部に和歌が書かれているわけでもない。
そこで、「国歌大観CD-ROM版」を利用して、月ごとにふさわしい歌を探して選んでみた。

花札春
1月 松に鶴
 住吉の松よりすだつ鶴の子の 千とせは今日やはじめなるらん  新葉和歌集
  ※ 松と鶴の歌は多いが、正月なので祝賀の歌が良いだろう。

2月 梅に鴬
 折りつれば袖こそにほへ 梅の花 有りとやここにうぐひすのなく  古今和歌集巻一
  ※ 古今集巻一の最初のほうに載る歌。

3月 桜に馬
 あるかぎり心をとめて過ぐるかな 花もみしらぬ駒にまかせて  和泉式部集
  ※ たんに花といえば、桜のこと。神の前の道を、通常の道のようにそのまま通過すると落馬したり事故に遭遇するという伝説が、各地にある。

花札夏
4月 藤に時鳥
 藤波の咲き行く見れば、ほととぎす、鳴くべき時に近づきにけり  万葉集巻18 田辺福麿
  ※ これは「越後花」にもある。

5月 杜若と燕
 つばくらめ つちくひはこぶ古沼の花もゆかりの姿にぞさく
 かり初めに 八橋わたす しづがやの 庭ゐにさける かきつばたかな  調鶴集122-123
  ※ 二首並びで、つばくらめと、かきつばたが詠まれる。一首で二つを詠んだ歌は見つからなかった。
杜若(かきつばた)は、花の形が燕に似ていることから、燕子花という別名があるらしい。「ゆかりの姿」に咲くとはそのことかも。

6月 牡丹に蝶
 ももとせは花にやどりて過ぐしてき この世は蝶(てふ)の夢にやあるらむ  大江匡房 和歌童蒙抄
  ※ 百年あるいは生涯をさまざまな花に宿り暮してきたが、胡蝶の夢のように人生ははかないという。牡丹の花に限定した歌ではないが、この歌が良いだろう。「蝶の魂」参照

花札秋
7月 萩に猪
 てる月に萩のもとあらもしたがれて けぎよくみゆるまだら猪のふし  夫木集
  ※ 「もとあら」は萩の根元がまばらなこと。「下枯れて」。
「けぎよく」は気清く。「ふし」は「伏し」ということなのだろう。
まばらに生えた萩の根元から枝が枯れてきて、伏している猪の姿が見えるのを、縁起の良いものとしたのだろうか。


8月 芒に雁 月
 雁鳴きて秋風さびし。尾花散るしづくの田井の夕暮の空   続草庵集(頓阿)
  ※ 尾花はススキの別名。「空」で月を連想させる。

9月 菊と盃
 行末の秋をかさねて ここのへに千代までめぐれ 菊のさかづき  新院別当典侍 続千載和歌集
  ※ 重陽の節句で菊酒をすすめて寿ぐ歌。

花札冬
10月 紅葉(楓)に鹿
 奥山に紅葉ふみわけ、なく鹿の声きく時ぞ、秋は悲しき  猿丸大夫
  ※ 百人一首の歌。

11月 雨柳と燕 そして蛙
 河風に柳みだれて一葉ちる おも影うつすつばくらめかな  松下集(正広)
 柳ちる六田のよどの岸陰に秋を時とて鳴くかはづかな   藤簍冊子(上田秋成)
  ※ 燕と蛙の歌一首づつ。11月は冬だが二首は秋の歌。六田(ろくだ)は吉野の渡し場。

12月 桐と鳳凰
 かげたかき桐の木末にすむ鳥の 声待ちいでん御代のかしこさ  新続古今和歌集
  ※ 梧桐の木に鳳凰が棲むという中国の伝説にもとづくもの。

(馬、燕、雁は、別の絵札に描かれている)
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誰袖草

誰袖草
久しぶりに小説を読んだ。中里恒子の『誰袖草(たがそでそう)』。
「読んでみたいと思っていた小説の条件」を、いくつか満たしていた。

条件の1つは、古典の本歌取りのようなところ。
誰袖草とは、古今集の「色よりも香こそあはれとおもほゆれ誰が袖触れし宿の梅ぞも」という歌にちなむ名前の植物らしい。匂い袋のことを誰袖ともいうとのこと。
そして、中将姫伝説を追いかけるような物語になっていて、折口信夫の『死者の書』の話も出てくる。

2つめには、明治大正時代の人たちの生活慣習の一部にリアリティがあったこと。大店の女性たちの生活の一部に限ってのことではあるが。

3つめには、夫が愛人を妊娠させ、生れてくる子を妻の実子として全てをとりつくろうというトリッキーな計画があり、どのように運ぶのだろうと詳細を注目して読んだ。しかし流産やら関東大震災の直撃やらで、偽装する必要はなくなるのであるが。

突然の大震災の話には、読んでいて困惑。人物たちは日を追って立ち直ってゆくのだが、読み手にはまだ30分程度しか経過せず、読むのを中断して、続きは明日読もうということになった。

同じ本に、『置き文』という中編も収録。
こちらは舞台は隠岐で、隠岐へ流された後鳥羽上皇の話や、御製歌などが多く出てくる。
隠岐へ嫁いで、娘を設けた女性が、20年後に娘へ宛てた置き文を残して家出をする。
母の名はアキ(飽き?)で、娘の名はユキ。
島を訪れた植物学者の男に、娘は初恋ともいえない憧れを抱いていたが、母は年下のその男と逃げたのである。
男はキノコなどを研究する学者。20年に一度だけこの世のどこかに発生するキノコがあるという。それは毒キノコなのかどうかはわからないが、20年後の母の恋にもかさなる。
本の一作目が誰袖草という植物の名前なので、この小説の題名もキノコの名前にしたらどうだろうと思ったが、毒々しくてもいけないのかもしれない。
母が島を脱出するときは、周囲に気づかれないトリッキーな方法で行なっている。この方法なら自然に成功するのだろうと思えたが、前作のような自分が生んでいない子を生んだことにするようなこと……というのは江戸時代なら周囲が事情を察してその件は口を閉ざせばよいだけの話かもしれないが、明治大正期では、「誰袖草」で途中まで試みられたようなこともあったのであろう。
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六輝(あるいは六曜)

六輝(あるいは六曜)とは、今は普通のカレンダーにも印刷されてあるような
  先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口
の6種類の暦注のことである。
カレンダーを見ると、6つが順番にめぐってゆき、ある日突然何日分か跳ぶことがある。そのへんのところが、今の人には神秘にみえて、昔の人の智恵のようなものを感じて、ありがたがられることもあるようだ。
「それ(何日分か跳ぶこと)は、旧暦の月替りだからなんですよ」と説明しただけでは、通じない。

六輝は、旧暦の月ごとに、次のように決まっている。
  一月一日は先勝、二月一日は友引、三月一日は先負、
  四月一日は仏滅、五月一日は大安、六月一日は赤口、
  七月は一月と同じで、以後一年の後半は前半と同じ。
  閏月は前月と同じ。
6つが順番にめぐるので、一月七日と七月七日も先勝になる。三月三日と九月九日は大安である。五月五日は先負ではあるが、おおむね五節供には「良い日柄」が配置されているように見える。
八幡様の祭礼の日である旧暦八月十五日は、十五夜の日でもあるが、毎年必ず仏滅であると決まっている。そのほか全ての日が毎年同じで決まっているので、旧暦時代には面白みもなく流行らなかったようである。

旧暦八月の十五夜の日を、なぜ仏滅にしたのだろうか。
ちょうど半年前の二月十五日も仏滅である。西行法師の有名な歌がある。

  願はくは花の下にて春死なん その如月の望月のころ

望月は満月のことなので「如月の望月」とは、二月十五日のことである。
旧暦の二月と八月は、二十四節気の中気である春分と秋分(彼岸の中日)がふくまれる月である。彼岸の中日は、旧暦では毎年の日付が大きく動くのだが、平均すると月のまんなか、二月十五日と八月十五日になる。
彼岸でもあるし、二月は西行法師の歌もある、というのが、仏滅が配置されたことと無関係ではないようにもみえるのである。
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明治3年のこよみ

旧暦時代の、明治三年のこよみを見たら、七月のところに、こうある。
  立秋 十二日
  処暑 二十七日
十二日の立秋は、「くさかりよし」とも書かれる(理由は未調査)。
十四日は戊(つちのえ)の日なので、「たねまきよし」と書かれる。どちらも「下段」のうちでも生活実感のある暦注であり、詳細に調べてみると面白いかもしれない。

二十四節気には中気と呼ばれるものが12あり、そのうちの7番めの「処暑」がふくまれる月が旧暦七月になる。
処暑が三十日のときは十五日が立秋となり、その月の一日(立秋の14日前)から七月なので、俳句では秋の句を詠まなければならないのかもしれない。今年(2021年)なら立秋の14日前は新暦7月24日にあたる。
七夕などの夜の行事では涼しさを感じられる季節である。処暑とは暑さが止むという意味らしいが、旧暦七月の半分は残暑の季節なのだろう。

十月を見ると、
  立冬 十四日
  小雪 二十九日
立冬の前後には「むぎまきよし」という日が3日ある。
この年の十月は、二十九日までの、「小の月」である。
翌月は「閏十月」、
  大雪 十五日
二十四節気のうちの「中気」がない(小雪も冬至もない)ので、閏月となる。前月と同じ「小の月」がつづくが、閏月は小の月が多いと思う。
暦注は、八日の戊(つちのえ)の日が「たねまきよし」。
二十七日の辛(かのと)の日が、「か(う?)まぬりつめとりよし)。「かま」か「うま」か判読できなかったが、カマなら辛(かのと)と関係あるかもしれない。「つめとり」は翌月の小寒の前後にも2日ほどあって干支は異なる。農耕馬の蹄の手入れのことだと思う。

十一月は、「大の月」で、
  冬至 一日
  小寒 十六日
  大寒 三十日
中気である冬至と大寒が、同じ月にある
次の十二月を見ると、「小の月」で、またも中気がない。
  立春 十五日
普通は大寒がふくまれる月が旧暦十二月なのだが、先に冬至がふくまれるので十一月なのだろう。大寒は翌月分とみなされたようなかたち。
翌月は立春だけで雨水がない。雨水があれば正月だが、中気がない。

ややこしい話になるが、
冬至を中気のない前月分と見なして前月は閏十月でなく十一月とし、大寒の月はそのまま十二月とし、立春だけの月を閏十二月とするという方法を、なぜとらなかったのだろう、という疑問がわく。
前述のように、中気のない月がひと月置いてまた現れるときは、先に現れたほうを閏月とする方式かもしれない。あるいは、間にはさまれた中気が2回の月の、2つの中期の時刻を詳細に計算して(現代なら何分何秒まで計算して)、前月または翌月に遠いほうの中気をその月の中気として優先するという方式かもしれない。

(画像の最後に「明治二年」とあるのは発行年)

旧暦十二月十五日が立春だというので、古今集の最初の歌、
「年のうちに春は来にけり」を思い出した。

参考(国会図書館) 明治三年の三島暦
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桜桃忌

作家の命日ですぐに思い浮かぶのは、太宰治の「桜桃忌」(6月19日)くらいかもしれないが、
先日、家の者が言うには、太宰治は中学校時代に体育の成績もトップクラスの優秀さだったとテレビ番組で言っていたということである。
なるほどと思った。
成功した有名人の大方は、体力的にも秀でた人ばかりだと思う。なにごとも根気良く努力することが肝心というけれど、精神的な意味での根気だけでは続かないもので、平均以上の体力が必要だと思う。
太宰の場合、自殺未遂を繰り返して、その経験をもとに小説に書いて名をなしてきたようなところがあり、からだが弱ければ最初の自殺の試みのときに死んでいたかもしれない。
とはいえ、作家はやはり良い作品を残すことで評価される。それがすべてであろう。

体力がなく胃も弱いという人は少なくないと思うが、筋力などの体力があることと、内臓などの強さについては、必ずしも一致しないこともあるだろう。筋肉の疲労は若いころから経験的に気にしないような生活になっているのが現代人だが、そういった疲労ではなく実は内臓疾患だったと後で気づくこともあるかもしれない。
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小さなわらぶき屋根の家

小型の鉄道模型用の「わらぶき屋根の家」なるものは、どこか違和感があるものだが、特に、狭い敷地に大きな母屋。現在各地で保存されているこういう建物は、旧上層農民の大きな家ばかりで、それを参考にしたからなのだろう。また、模型では土地の広さが一反(25m×40m)もないような狭い場所に、線路の他あれもこれもと配置しがちである。
柳田國男アルバム 原郷
もっと小ぢんまりした家が良いと思うのだが、良いモデルはないかと思って、すぐに思い浮かぶのが「柳田国男の生家」である。
兵庫県の柳田国男記念館のそばに保存されているのを見たとき、本当に小ぢんまりした家だと思った。非農家の小家族なら、大きな母屋は不要なのだろう。

記念館発行の冊子を、取り出して見た。
『柳田國男アルバム 原郷』という題名。生家の写真がいくつか載り、『故郷七十年』という柳田の著書からの引用が添えられている。

「私の家の小ささは日本一だといつたが、それもきつちりした形の小ささで、数字でいふと座敷が四畳半、間に唐紙があって隣が四畳半の納戸、横に三畳づつの二間があり、片方の入口の三畳を玄関といひ、他の三畳の台所を茶の間と呼んでゐた。」

 日本一小さいというのは、ユーモアをまじえた誇張なのだろうが……、
つまり、東側の土間を除くと、小さな部屋が4つ、田の字形にあり、南西が座敷で、四畳半だが床の間もあるのだろう。その北側が、唐紙を貼った襖をはさんで、四畳半の納戸(寝室)である。南東の三畳は、玄関、つまり南の縁側から来客があがる客間である(一般的には重要な客は縁側から直接に座敷へ上がる)。その北の三畳が茶の間で、「台所」というのは板の間の意味かもしれない。火を使う炊事場は、土間にあると思う。
土間は、建物の写真を見ると、四畳半2つほどの広さで、南に通用口がある(玄関ではない)。ほかに納戸の西に半間ほどの押入れなどがあると思われる。
以上の構成が、瓦葺を除いた、わらぶき部分の母屋であり、間口(桁行)4間半、奥行(梁行)3間である。13坪半。
柳田國男生家
その他に、瓦葺の部分として、南の縁側、東の低い屋根の部分がある。
縁側は、一般に、古くは神祭のための仮の物だったのだが、だんだん幅も広く固定化され、簡単な板の庇(ひさし)だったのが、瓦葺になっていったものらしい。
東の部分は。屋根が低いので土間と思われ、通用口からの土間と一続きかもしれないが、古くに母屋と別に小さい小屋を建てることのあった、炊事場、風呂や洗濯場、炭や薪の小屋などを、建物の強度などの合理的な考えによって一つにまとめたものなのかもしれない。間口、奥行きとも、母屋部分の土間と同じ広さがあるように見えるが、内部の配置は不明。
全体は間口6間、奥行3間半、21坪。

ある模型の母屋は、原寸に換算すると50坪弱の広さだったが、上層農民の大家族の家のようで、そういう母屋は、土蔵や納屋や家畜小屋や長屋門などとセットでないとおかしい。
小さな情景模型の1棟のわらぶき屋根なら、13〜20坪くらいがちょうど良いと思う。
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