叙情と判官贔屓

山折哲雄著『「歌」の精神史』(中公叢書)という新刊本を見かけ、帯に書いてある
「伝統的詩歌と歌謡に底流する生命の昂揚感と無常観。その叙情をわれわれ日本人はもはや喪失してしまったのか」という言葉にひかれて、読んでみた。
この20年前後の間に、日本人は今までになく大きなものを喪失してしまったのではないか、日本人そのものが大きく変ってしまったのではないかと、感じている人は少なくないだろう。社会科学方面から問題にするのは大変困難を極めることなので、こういう本なら読みやすいと思った。
そこそこ面白く読めるのだが、しかしここ20年ほどの「現在」を問題にしている部分は少ない。「叙情」をキーワードに短歌や文学が戦後捨ててしまった叙情が大衆歌謡で継承されていたという指摘は良いのかもしれないが、歌謡論になってくると、日本の近代文芸評論のような個人の評伝中心の記述となり、歌謡曲は贔屓がからんでくるので退屈する部分がある。
1986年の『サラダ記念日』は文学に親しんで来た人にとっては、伝統的で新しくもある短歌に見えたのだが、コピーライトの時代のコピー短歌という評価もあったとのこと。大人も子どもも歌える歌謡曲というのが消えてしまって、誰でも知ってて歌えるのはCMソングだけになった時代でもある。総合雑誌というのが消えてしまったのは広告会社の主導で雑誌が作られるようになってしまったからという論をどこかで読んだことがあるが、商品広告が大衆文化を席巻してしまったということなのだろうか。小泉前首相のワンフレーズ・ポリティクスもこの時代に続くものなのだろう。

日本的な叙情というのも、ある程度のところまで行くとわかりにくくなってしまっていけないのだが、日本人らしさのもう一つのキーワード「判官贔屓」が失われつつあるかのようなある論評も見たことがある。それは昨年の小泉選挙で「勝馬に乗る」という選挙行動が強く見られ、そういう大衆心理が各方面で広まりつつあるのだという。そうなのかもしれない。しかし判官贔屓そのものが無くなったと断定するのは早すぎるだろう。須佐之男命や倭建命の古事記の時代から引き継がれて来たものが無くなったというのでは未来がなくなってしまうに等しいことである。現代に残る判官贔屓の現象を探してみるのも良いだろうと思う。
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縄文土器の魂

縄文時代の土器は、発掘された破片を組み合わせて復元を試みようとしても、必ずどこか欠落部分が生じるものだという。欠落部分は石膏などで補われて博物館などでよく見かける。

欠損部分のない縄文土器はほとんど見かけないことから、その土器が廃棄されたときに人の手で一部分がもぎ取られるように抜き取られたのではないかと、『古代甲斐国の謎』(新人物往来社、小野正文氏執筆部分)に述べられていた。
道具にも魂が存在し、魂を抜き取ってからでなければ廃棄はできない。その抜き取られた魂は、粉末にされて再び次の代の土器を作る粘土に混ぜられ、土器の魂も伝えられていったのではないかという。

青森県などで出土される縄文時代の土偶も、必ずどこか欠けた部分があるそうなので、これもまた魂を抜き取ることが行われたのではないかと思える。猟師が捕獲した動物の耳を切り取って山の神に捧げるというのも、山の神の霊を動物のからだから抜き取るためであるといわれる。
人が使う道具にも魂が宿っているという考えかたは、戦後の経済成長の中でほとんど失われてしまったかのように見えるが、それでも母屋普請のときには、古い柱の一部を、新築の屋根の梁や屋根裏などに使うということは今でも行われていると思う。家の建物の魂も、そうして代々伝えて行くことができるわけである。

同書によれば、古い石臼もよく砕かれて発見されるそうで、箒を燃やしてはいけないとか、民具の扱いの中にも、道具の魂を意識してきた生活がうかがえる。
ものを大事にするということは、「環境にやさしい」ということだけでなく、昔の心を大切にし受け継いで行こうということなのだとわかる。
国民慶祝のこのたびの新宮様御誕生の折りにも、皇室では幼児用玩具そのほか多くのものが代々修理して使われる習わしであることが報道されている。

さて今身のまわりのものを眺めてみると、パソコンがある。今年から使用しているA社のベアボーンなのだが、フロッピーディスクの部分はもう7、8年も使用している。DVDドライブも5、6年前からのもので、こういう使い方もまた良いのではないかと思った次第。
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鶺鴒鳴く

9月13日ごろが、七十二候の一つの鶺鴒鳴(せきれいなく)であった。

セキレイは渓流や川辺などでよく見かけるらしいが、この時分によく鳴き始めるのだという話である。
(画像のあるサイト http://okasoft.ddo.jp/bird/segurosekirei/index.html
小さな鳥のわりに尾が長く、古い和語で鶺鴒のことを「庭たたき」ともいい、いつもせわしなく尾をたたくように上下に振っていることから、
  世の中は鶺鴒の尾のひまもなし  凡兆
などという句にもよまれる。

日本書紀では、伊弉諾(いざなき)、伊弉冉(いざなみ)の二柱の神が結婚したとき、鶺鴒の交尾の姿を見て結ばれ、大八洲(日本)の国を産むことができた。
こうした故実により、明治記念館の結婚披露宴会場の壁にも鶺鴒が描かれたり、皇室でも同様の飾り物があるらしい。「恋教鳥」という異名もある。

  行く水の目にとどまらぬ青水沫(あをみなわ) 鶺鴒の尾は触れにたりけり 白秋

この北原白秋の歌は情景が綺麗である。ある種の性的な連想が働いたとしても品を落とすことはない。
からだの一部を振るということは、たとえば手を振るという行為、これは魂を招くための古代の呪的行為なのだといわれる。別れて行く人を遠くに見て手を振るというのは、相手の魂を寄せて再会を期待してのものということになる。また遠くから近づいて来る人に手を振るのは、まちがいなく相手の魂を招き寄せるためである。万葉集で「袖を振る」というのも同様である。

  少女(をとめ)らが袖布留山の瑞垣の、久しき時ゆ思ひき。われは 柿本人麻呂

鳥が尾を振るのも、何かの魂を招き寄せる行為と見たほうが良いかもしれない。鶺鴒の場合は、新しく生まれるものの魂ということになると思う。

9月18日は七十二候の「玄鳥去(つばめさる)」で、燕はもう南へ帰るらしい。 (9/22)
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三本足の動物

その昔、犬は三本足だったという。むかし弘法大師が、「笑」という字をどうしても思い出すことができず、三年間苦行した。あるとき、籠をかぶった犬を見て、その姿からやっと思い出したという。そこで弘法大師は、犬にお礼をしなければと考え、それまで四本足だった五徳の足を一本取って、犬に与えたので、そのときから、犬は四本足になり、五徳は三本足になったという。
 (※ 五徳とは、3本脚のある輪で、火鉢や囲炉裏の中に置いて、やかんなどを載せる道具)
笑い話のようだが、「日本俗信辞典」にある。
別の話では、犬に足を与えたのは別の大神様で、犬は感謝の気持ちを忘れないので、小便をするときは大神様にもらった足を汚さないように片足を上げるのだという。
犬もまた神の使いなので、そういった特別の生い立ちの説話が必要だったのではないかと思う。神に近かったから普通の動物とは違った形をしていたという考えがあったのだろう。

ウサギの左前足も、山の神にもらったものだという。これは撃たれて左前足を失ったウサギを山の神が憐れんで与えたという話である。
猟師が兎を捕獲したとき、左前足以外の三本の足を縛って持ち帰るのは、山の神のものを尊んでのことだという。
別の話では、兎の左前足は、お月様からもらったものだともいう。

中国では太陽の中に三本足のカラスが棲むという伝説があった。これが、熊野の八咫烏(やたがらす)の話と習合してしまったようなところもあるようである。
熊野の八咫烏は、神武天皇が南から大和へ入ったときの道案内をした烏であり、熊野の午王札にも多くの烏の絵が描かれる。午王札は起請文にも使われ、もし偽りをなす者があれば熊野で烏が三羽死ぬといわれた。

動物の三本足にまつわる伝説は他にもあるかもしれない。
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疱瘡の神、源為朝

ダルマ絵関東地方の屋敷神といえば稲荷様が多いのだが、まれに八幡様や浅間様を見かけるときがある。先日見たのは、為朝大明神で、確実な由緒は不詳とのことであった。為朝とは源為朝のことで、九州や沖縄から八丈島(参考〜八丈島の為朝)などに多くの伝説を残している。私が見た為朝大明神もそうだとは断言できないが、源為朝は、江戸時代後期には疱瘡の神として信仰された歴史がある。

疱瘡は、今はほとんどなくなったが、近世までは難病の一つで、子どもにかかりやすく、疱瘡の子どもが出ると、医者を呼ぶほかに、さまざまな信心が行われた。疱瘡の子どもには赤い着物を着せ、枕や身のまわりのものも赤づくめとし、床の間には赤いダルマを飾り、ダルマ絵という赤色で刷られた御守札を祀ったという。滝沢馬琴の日記にもその様子が書かれているらしい。

上のダルマ絵には、ダルマのほか、張り子の犬、でんでん太鼓が描かれている。

 もて遊ぶ犬や達磨に荷も軽く湯の尾峠を楽に越えけり

と三十一文字の呪文のようなものも書かれる。湯尾峠は福井県南部にある峠のことである。
ダルマ絵には他にミミズク、そして為朝や鍾馗様の絵が描かれているのもある。
為朝は、ダルマとミミズクと犬を家来にして、疱瘡神を征伐したといったような、桃太郎のような話もある。(画像は週刊朝日百科「歴史をよみなおす-20-村の手習塾」(高橋敏編※)から)

犬については、古くから安産や子育ての信仰もあり、子どもの守護でもあるのだろう。ダルマなどの赤色は、疱瘡にかかった皮膚の色が赤くなることから、疱瘡神も赤色と考えて、疱瘡の神を手厚く祀って、のちに退散してもらうためだろうという。ミミズクはよくわからない。為朝の意味も不明なのだが、弓の名人だったことが関係しているのだろうかという。

村はづれに大草履を置いて疱瘡からの守護とする例もある。この村にはこれほどの巨人がいるので、それを怖れて疫病神も近づかないだろうとの考えである。疫病から守ってくれるのが巨人だということなら、為朝にも巨人伝説がある。蘇民将来の伝説の須佐之男命も同様である。
その他、門口に「紀州池上紀右衛門子孫」と書いた紙を貼ったり、地域で疱瘡踊りを賑やかに踊ったところもあるという。

宮田登『江戸のはやり神』(ちくま文庫※)によると、子どもにとっての疱瘡は、成長のための避けられない試練、通過儀礼であり、病床の子どものうわごとは祖霊そのものの声と見なされたようでもあり、子どもが試練を経て成長できるのかそうでないのかは、その祖霊のまつりかた次第。そのような古い善悪未分の祖霊から、こぼれ落ちた(零落した)のが疱瘡神ではないか、といった意味のことが書かれている。
参考文献 文中※印
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蝶の魂

文部省唱歌の「蝶々」は、フランスのあの有名な思想家のルソーの作曲だそうだが、春の到来を告げる風景描写などで日本人に親しまれている。
「蝶」をチョウというのは中国の漢字の音読みで、つまり中国から来た言葉(漢語)である。大和言葉には蝶を意味する言葉はないのだろうか、またあったとしても、なぜ大和言葉で呼ばれずに、漢語だけになってしまったのだろうか、という疑問がある。

蝶の古い和語は、古語辞典には「かはひらこ」とか「ひひる」とかいう言葉が見える。今の方言でも類似の言葉が残っているらしいが、標準の日本語ではとうに消えてしまった言葉である。万葉のころから近世まで、蝶は、和歌にもあまり詠まれなかったらしい。

蝶は鳥と同様に、死者の霊を運ぶものと考えられたのは確かである。
蝶が鳥と違うのは、幼虫から蛹になり成虫へと変態する。これは蛇の脱皮よりも神秘的に見えるかもしれない。空中を不安定にさまようような飛び方も、同じ霊でも何か不幸な死に方をした者の霊のように、我々にも感じられないことはない。
昆虫類は突然大量発生し、農作物に危害を及ぼすこともあり、とくに戦死者の亡霊であるとも意識され、死後にイナゴと化した越前の斎藤実盛の伝説もある。蝶は不吉なものとされたため、中世の絵巻にも描かれることはなかったらしい。

しかし蝶は、古事記や日本書紀には登場し、また平安時代以後の調度品類の模様や家紋(丸に揚羽蝶)などには、よく使われた。
紋様などについては、もともと中国でよく使われたデザインがそのまま輸入され、荘子が夢に魂が体から抜け出て胡蝶となって百年も花と遊んだという伝説から、縁起の良い模様とされ、そのような類型のままに伝承されていったらしい。舞なども同様の意識なのだろう。次は平安時代末期の蝶を詠んだ珍しい歌。

 百とせの花にやどりて過ぐしてき。この世は蝶の夢にぞありける  大江匡房

記紀のころは、蝶は蛾との区別があまりなく、不吉な兆しを予見させたりすることもあるが、また、常世の虫とも見なされている。鳥は、人の集団を一つの方向に導くためのものとして、船の舳先などにかたどられることがあるが、蝶は、あいまいではかなくも見える常世の国と関係づけられる。常世の国は「常夜の国」でもあり、つまり常闇の死者の国でもあるという最も古い時代の考えも残っていたので、蝶もまた吉と不吉との両面から意識されていたようである。
また絹を産む蚕も、記紀の時代から珍重され信仰の対象ともなっていた(このへんのところは、小西正己著『古代の虫まつり』学生社 に詳しい)。

平安時代に蝶の紋様が好まれ出したのは、信仰ということではなく、舶来のものを好んだ都の人の趣味なのだろう。また一方では平安時代の京都では御霊や穢れなどについて過敏に反応するようになり、蝶の不吉さも強調されていった。蝶についての紋様や中国の知識と、実際の生活の中の信仰とは、ずいぶん離れたように見える。
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トンボの国、秋津洲・日本

ふと、トンボを見かけるようになり、秋を感じる季節になった。

高知県では、初秋(旧暦)のお盆のころに現れるトンボは、先祖の霊であると信じられ、この季節に現れて子孫を守り、秋の稔りを約束して、山に帰って行くのだという。

というようなことが書かれた本があったのだが、トンボを先祖の霊と考えたのは、日本の各地でも同様だったらしい。
東北地方では、トンボを方言でダンブリといい、だんぶり長者の昔話が東北各地に伝わる。この話も、祖霊の恵みによって長者となったということなのだろう。

日本書紀によると、神武天皇が大和国の腋上(わきがみ)の地を訪れて国見(くにみ)をなさったとき、国を愛でて、「この国は、蜻蛉(あきつ)がつがったような形をしている」といわれたことから、日本を「秋津洲(あきつしま)」というようになったという。アキツとはトンボの古語とされる。季節ごとには祖霊が訪れ、恵み豊かな国という意味なのだろう。
古事記では本州の島のことを「大倭豊秋津島」と名づけている。

女性、とくに舞を舞う女性の、透き通ったような美しい衣装は、万葉時代には、トンボの羽にたとえられて「あきつは」と形容された。

 あきつ羽の袖振る妹を、玉くしげ奥に思ふを見たまへ、わが君  万葉集

一般に虫についての信仰や伝説には、吉凶両面のあるものが多いのだが、トンボについても同様で、万葉集には詠まれたのだが、平安時代以後(近世まで)は、歌の世界に現れることはなかったらしい。このへんのいきさつは、時間があったら調べてみたいところである。

西洋では、トンボは不吉な面ばかりが伝わる。あちらでは虫の声も雑音としか聴こえないという話もあり、迷惑な存在と見てしまうのだろうか。西洋の俗信では、子どもがうそをつくとトンボの尾の針で唇を縫われてしまうというのがあり、トンボに唇から美酒をそそいでもらった「だんぶり長者」の話とは好対照なのかもしれない。ドイツ語ではトンボの異名を「Wasserjungfer」といい「水辺の乙女」の意味であるというので、何か古い伝説はあるのだろう。
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叶福助

叶福助福を呼ぶという縁起物の福助人形の起源は、はっきりしないようだが、いくつかの資料を総合すれば、享和年間(1800-04)から文化元年(1804)までには、江戸で最初に売られ始めたらしい。
小柄で頭の大きな風貌のモデルは、摂津国の百姓の子であるとも、京都の呉服屋・大文字屋の主人であるともいうが、宮田登氏のよると(「庶民信仰の幻想」)、江戸吉原の娼家の大文字屋の主人だったともいう。

土の焼き物、または張り子で作られた福助人形は、小さな座布団の上に置かれ、大黒様のように棚や祠に祀られ、福を呼ぶ神として流行したという。

  今年よりよい事ばかりかさなりて、心のままに叶福助

という落首もある。「叶(かのう)」が福助の苗字なのだろう。

一部では女のお多福人形と並べて祀られたこともあったらしいが、福助そのものは子どものようでもあり、フクは火を吹くにも通じるのかもしれない。大きな頭は知恵の象徴のような気もしないではないが、当時はそういうイメージはなかったようだ。
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週刊百科雑誌

大判で30ページくらいでオールカラー、毎週買い揃えると本格的な専門百科事典のようになりそうな雑誌を、書店でよく見かける。中高年向きの教養シリーズのようなテーマが多いのだが、有名神社探訪のシリーズを買い始めたある人が、途中で飽きてきたようなことを書いていたのは、内容に新しさがないからなのだろう。
創刊号だけ半額低度の値段で売っていることも多いので、あるCD付きの童謡唱歌シリーズを一冊買ったことがあるが、掲載写真は郷愁とは別のリアリズムに満ちたもので、あまり良いものではなかった。あまり期待できるものはなさそうな気がする。

昭和30年代にブームだった画報雑誌は、文章はダメだが、写真は良いものが多く、山田書院の『伝説と奇談』シリーズなどには古い錦絵もふんだんに載っていて大事にしている。同じような内容で昭和40年ごろにリメークされてハードカバーとなった『日本の伝説』は、新しい専門家の解説などは良くなったが、巻頭のカラー写真は、石仏や人物の接写写真が多く、良いものではない。黒い影の部分やごつごつした部分、一部の赤色などが強調され、その時代の写真家の好みなのかと思った。映画でもやけに顔のアップの多いものが流行った時代である。大きな写真で万葉の名歌を訪ねるにしても、そのような写真のイメージでは、今では違和感があることだろう。音楽でもモーツァルトよりベートーベンやシューベルトの人気のほうがずっと高かった時代である。

10年以上前の「週刊朝日百科 日本の歴史」シリーズは、中世史をはじめ最近の有力な学説などが次々に紹介されて良かったので、古本屋でバインダー付きの揃いのものを買ったら、1冊50円くらいの計算だった。
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蔵書管理ソフト

パソコンで蔵書目録を作って管理するソフトウェアを使い始めてみた。
書庫の中で、本の背表紙を眺めながら、いろいろ思うことがあったり、何かの発想が思い浮かんだりすることもあったが、全てのリストをノートパソコンに入れておけば、書庫ではない場所でもそれに近い経験ができるかもしれない、などなど。

したがって管理ソフトは、一覧表のようなものが表示できなくてはならない。起動してすぐ検索キーワード入力になるようなソフトは困る。
Windows98でも使用できるものとして、次の3つが候補にあがった。
 1.私本管理Plus、 2.蔵書管理、 3.Bookshelf Application。
このうちの 3 は、マイクロソフト社の別ソフトが必要とのことで試みていない。2 はできあがったデータを検索する機能は良いのかもしれないが、データを構築してゆく上での操作法に難があるように思えた。結局、1 の「私本管理Plus」にした。

家には何冊くらいの蔵書があるのか不明である。当初は3万〜5万はあるのではないかと思ったが、実際に全体の1割ちょっとくらいだと思うが、そのくらいの量のリストができあがってみると、1600冊。全部で1万を越えるかどうか微妙なところである。「全部」というのは古いマンガや雑誌類を含めての数である。
すでに100冊以上は、この際、処分することに決めた。この際どんどん処分して、最終的には、5000冊程度が残れば良いと思う。

途中までできあがったリストから、著者ごとの冊数の順位を見ると、どういった人にお世話になってきたかがわかる。(小説やマンガは未着手)。
 90冊以上あるのが、柳田国男と折口信夫。ハードカバーの全集のほかに文庫判全集も揃っているので、こういう数字になる。
 30冊以上、
大野晋。意外だったが、国語の他に国文学に触れた著作も多く、かなり文庫や新書になっている。
 20冊以上
池田弥三郎。文庫本や親しみやすい内容の本が多いということ。
杉浦日向子。この人についてはマンガも含む。
中西進。万葉集にとどまらず、古代史関係の本も多い。
 10冊以上
宮本常一、谷川健一、梅原猛、網野善彦、丸谷才一、宮田登、金田一春彦、森浩一。
 9冊
和歌森太郎、吉田東伍(地名辞書)、山本健吉、鈴木棠三、司馬遼太郎、大岡信、藤沢衛彦、樋口清之、
  (以上は、リスト作成途中のもの)

●補足
以上は2006年8月のものだが、同年9月までに3000冊超のリストを作った。歴史・民俗学・国文学・国語学関係のもののみ。ムック類含む。
未着手の分野は、近代文学・西洋哲学・神道-神社関係・自然科学・心理学・音楽・美術・漫画評論・漫画など、これらを含めて1万弱と推定される。
2012年までの6年間でおよそ2000冊増えたと思う。管理ソフト用のバーコードリーダーは購入したが、追加分のリストは未作成。そのうち数十冊単位で多い著者は、宮本常一、丸谷才一、稲垣史生など。
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