後醍醐天皇と瓊子内親王

米子市車尾

 元弘二年、隠岐島へ向かはれる後醍醐天皇の一行は、車尾(くつも)村(米子市車尾)の深田長者の家を宿として、数日の滞在をされた。そのとき天皇の詠まれた御歌。

 ○春の日のめぐるも安き尾車のうしと思はで暮らすこの里     後醍醐天皇

 御出発のとき、守護職の佐々木某は、お伴の女房が連れてゐた童女に不審を抱いた。童女は身分の低いいでたちではあったが、女房の娘ではなく、皇女の瓊子(たまこ)内親王であった。鎌倉幕府の沙汰では同行が許されたのは、わづかの女房蔵人だけであり、まして皇族がともに行くことができるものではなかった。天皇は、内親王を車尾に残して隠岐へ旅立たれた。

 瓊子内親王はこのとき十六歳で、さる上人のもとにあづけられた。天皇が京に還られて建武の新政を興されてのちも、この地に留まって尼僧となり、天皇から領地を賜って安養寺を開基されたといふ。瓊子内親王と同母兄の尊良親王との歌のやりとりが、新葉和歌集にある。出家の身が羨ましいといふ兄を激励されてゐる。

 ○いかでなほ我もうき世をそむきなむ。うらやましきは墨染の袖  尊良親王

 ○君はなほそむきなはでぞ、とにかくに定めなき世の定めなければ 瓊子法内親王

 元弘三年、山陰の豪族名和(なわ)長年が、船上山で賜った後醍醐天皇の御製。

 ○忘れめや、よるべも波の荒磯をみ船の上にとめし心を      後醍醐天皇