神話の森Home > 日本の神々

ちかつ拾遺


まとめの概略

 以上までについて、いろいろと話が飛躍してゐる部分もあるが、全体を概観して整理してみると、次のやうになる。

 1、白鳥などの飛来した水辺の土地を聖地とあがめ、そこに神を祀り、港や渡し場を定めた。のちに、各地の村では鳥によって聖地を卜定したこともある。
 2、白鳥の飛来は、鉄などの金属精練とも関連する(谷川健一「白鳥伝説」参照)。
 3、交通の要である、渡し場の神としてあったものが、道路の神の性格に広がった。
 4、鳥に縁ある武将が、館や城の堀のそばなどにこの神を祭り、地域によっては城の鎮守の代名詞にもなった。武将・荘園領主などにより門神の性格を色濃くしていった。
 5、村々では白い鳥が稲穂を運んだといふ類型説話から、鎮祭の地を鳥によって定めるとともに、この神を田の守護神ともした。
 6、鳥を追って聖地を求めて行くと、川を遡ることになる。昔は人を葬る場所を決めるときにも、鳥を使ったといふ。このことから、首が川を遡って川上に祀り葬られたといふ話が成立するとも考へられるが、首だけといふのも、よくわからないところである。(14/9)

ちかつ拾遺   ちかた、ちかつの神


 (1)千鹿頭神社 長野県諏訪市大字豊田字宮垣
 「千鹿頭神社(ちかとう) 諏訪市有賀にあり、浜南宮ともいふ。建御名方富命の御子内県神をまつり、有賀郷の産土神で、諏訪社御頭祭の鹿を調進する古例があったといふ。鎌倉時代の文献にもみえる古い社で、武将の崇敬があつく、祭日は御頭祭の7日前であった。諏訪頓水の詠歌に『みすずかる信濃の諏訪の賑はひは内県神のいさをなりけり 源朝臣頼満」といふのがあり、戦国武将千野昌房の武具がをさめられてゐる。同名の社は長野県内にいくつもあるが、埴原田村の社は御柱のかはりに鳥居、玉垣をつくるといふ例外社である。』<長野県百科事典・信濃毎日新聞社、仮名遣訂正>
 武家の崇敬は第2章でも触れたが、信州のこの神がどの程度の古い神であらうか。
 柳田国男は、「千鹿頭神は東国に数多き近戸神の一種の宛字で、遠戸神と対立する門神すなはち境の神であると思ってゐる。……諏訪の神が狩りの神で、多くの鹿の頭を以て祀る因縁からでもあらうか、これを諏訪明神の別称の如く解する地方はここばかりではない。」といふ。これは前記の諏訪市の千鹿頭神社についてのコメントということではないが。

 (2)近戸と遠戸
 柳田国男は『地名の研究』で、「根岸、根搦(ネガラミ)、根柄」の地名について、もともと岡の麓の意味だったが、のちに台地から湿地や川沼岸へ降りる土地をも意味するやうになったといふ。
 「岡に添ふことをカラムまたはカラマクとも云ったと思はれる。城の二つの入口を大手・搦手と呼ぶことはここから説明がつく。古くはこれを遠戸・近戸といってゐる。正面は平坦であるから門をなるだけ遠方に置き、外人の進入にひまを取らせる。いはゆる遠待遠厩はその方面を守らせたものである。他の一方には裏口の崖を斜めに、樹隠れの嶮岨を降って出る路が近戸である。根搦へ下りて行くから搦手といふのであらう。これは古い世からの風習のままらしく思はれる。」(『地名の研究』)
 近戸神の祀られた場所やその地形はこの通りだらう。ただ「遠戸の神」については、どこかに所在をまだ確認できてゐない。
※「遠戸神」が見つかったので六章でレポートする予定です。

 (3)面足命(おもだる-のみこと)
 一部の"ちかつ社"の祭神でもある面足命とは、不思議な神である。古事記冒頭の神代七代の第六代目に当ることから、神仏混淆を色濃く残す第六天社の祭神ともされる。
 三面六臂、八面六臂などの慣用句は、仏像の姿から来た言葉といひ、多面多肢の仏は多い。埼玉県熊谷市下増田の近殿神社(祭神:稲田姫命)は、武蔵風土記稿に「村の鎮守なり。本地十一面観音を安置す。観音寺持」とある。日本では十一面観音は四臂で描かれることも多いといふ。面足命とは、もと多面多臂の仏像を祀ったことから、近代に定められた祭神名なのかもしれない。
 漢字の字形のよく似た「百足」から来たかについては未調査である。馬蹄石のやうに、何かの動物の足跡が石などに残ったことから来たのかどうかも、考慮中である。

 (4)下総のちかつ
 ちかつ社の分布の中心(単に地図上の中心)は、常陸と下総の国境付近の古代の広大な入江があったあたりと思はれるが、今の千葉県側には、「ちかつ」の名の神社は確認できない。千葉県では馬頭神を保食神社の名とするなど祭神名のままの神社名が多いのだが、ちかつ社は祭神名を特定しにくいのがつらい。面足神社は第六天だともいふ。下総の武家は妙見神に熱心だった。川岸を探してみるのもよいかもしれない。
 (※ 我孫子市高野山新田の手賀沼の北岸に「千勝神社」が一社あるとの情報を、平成17年9月20日の掲示板にいただきました。)
 あるいは同じ意味の「とりうみ、とりみ」の名となったのかもしれない。印旛沼周辺に多い鳥見神社(トリミと読む)も、「とりみ」に「鳥見」の字を当てたため、物部氏系の祭神(饒速日命)に関連した社名と今の人に意識されすぎてしまった感もある。
 常陸国風土記に景行天皇が下総の鳥見の丘に登ったとあり、鳥見を「とみ」とする訓読が多いが、何とも言へない。神社名については文字よりも読み(呼び方)を重視しなければならない(おほむね現在の呼び方しか知りえないといふ制約付きだが)。

 (5)智方神社と悲劇の皇子の首(静岡県)
 静岡県駿東郡清水町長沢の智方神社は、南北朝のころの南朝の英雄・大塔宮護良親王を祀る。親王は建武2年に鎌倉で足利直義に殺害されたが、その妃(藤原保藤の女)が親王の御首をこの地へ運んで埋めたといふ 。
 智方神社は道祖神的な性格の強い神といふ。この智方神社のもう一柱の祭神は菊理姫である。菊理姫は清水町新宿の地方神社にも祀られ、ここでは疱瘡の神様とされるのは、新宿の地名から宿場と思はれ、宿場の道祖神だからであらう。

 (6)近松門左衛門と鳥居
 「ちか」は鳥の意味で「ちかと」は門神である。
 近松門左衛門の名の由来は、若き日に近江の近松寺の小僧をして勉学したことから、近松寺の門前の小僧の意味で付けたといふ咄がもっぱらだが、ペンネームは二重三重の洒落で付ける場合も多いのだが。
 神社の門といふべきものは鳥居である(以下略)。

 (7)「ちか」の地名と水辺
 某地図ソフトから抽出した全国地名表から「ちか〜」といふ地名を検索すると、大字以上の地名で28例あった(「主税」「力…」を除く)。そのうち21例が現在の海岸または川岸の地名である。ほかに2例が、川から少し離れた地だが、2例とも川の下流の平野部なので、元は川岸だった可能性がある(以下の*印)。以下は小さな川も若干含まれてゐるが。

  北海道旭川市  近文町  石狩川
  北海道えりも町 近浦   海岸
  北海道池田町  近牛   利別川
  岩手県宮古市  近内   閉伊川(*)
  山形県余目町  千河原  最上川  
  埼玉県秩父市  近戸町  荒川
  東京都青梅市  千ケ瀬町 多摩川
  神奈川県    茅ヶ崎市 海岸
  横浜市都筑区  茅ヶ崎町 早渕川
  富山県立山町  千垣   常願寺川
  石川県金沢市  近岡町  金沢港
  名古屋市南区  千竈通  山崎川
  兵庫県市川町  近平   市川(*)
  和歌山県中辺路町 近露   日置川
  島根県加茂町  近松   赤川  
  岡山県津山市  近長   加茂川
  山口県岩国市  近延   錦川支流の上流
  愛媛県今治市  近見町  海岸
  愛媛県広見町  近永   広見川、須賀川
  愛媛県津島町  近家   北灘湾
  佐賀県玄海町  値賀川内 外津浦
  長崎県     値賀島
  熊本県熊本市  近見町  白川

 川に隣接しない「ちか」の地名は次の5例のみ。
  近田  山形県山形市、広島県油木町。どちらも山間部。山形の近田の南は「鷺ヶ森」
  親園  栃木県大田原市
  血ケ平 福井県越前町
  近内町 奈良県五條市

 以前、埼玉県内の「久下、久下戸」の地名4例を調べたところ、熊谷市と飯能市の久下は川岸にあり、川越市の久下戸も隣に菅沼や川がある。加須市の久下は、大日本地名辞書に「沙丘あり東西十二町に渉る」とあるので昔は大きな川があったと思はれる。「くげ」とは神奈川県藤沢市の「鵠沼海岸(くげぬまかいがん)」の地名表記の通り、鵠(くぐひ)の飛来した地のことである。本庄市の利根川岸の「久々宇(くぐう)」も同じ意味の地名だろう。「久々宇、久々江」については谷川健一『続日本の地名』(62ページ、岩波新書)に詳しい。
 (以上 9/7)

ちかつ拾遺 続

(a)秀郷の子(孫)の千方
 新編武蔵風土記稿の埼玉郡堤村(現羽生市堤)の項に、
 「千方社 村の鎮守にして延命寺の持。相伝ふ俵藤太秀郷の男を祀る所なりといへり。按ずるに秀郷が六男修理大夫を千方と云ふ。この人を祀りしなるべし」とある。
 「秀郷の男」といふ村の何かの口碑に対して、調査官である幕府の役人は、秀郷の六男の千方といふ人物を知ってゐて、「按ずるに」この人だらうと書き加へたわけである。「尊卑分脈」といふ書に、秀郷と千方の系譜があることがわかった。
秀郷 ─┬─ 千晴 …… 平泉藤原氏
    ├─ 千春
    ├─ 千国
    ├─ 千種  ┌─ 千方 [実者千常舎弟]
    └─ 千常 ─┴─ 文脩 …… 佐藤、足利、小山、下川辺など
 千方は系図では秀郷の孫だが、「実者千常舎弟」の注があり、実子(六男)として生れ、五男の千常の養子となったため、系図上のやうになったらしい。
 ただし埼玉県に7社ある「ちかた社」は、他の近津社、千勝社などと同様、すべて河岸、または「土手」などの地名の、昔に河岸だった場所、しかも多くは渡し場として重要な場所を占める地に祀られてゐる社である。加須市や羽生市ではこの六男を祭神とする動きがあるやうだが、地域的なものにすぎない。
 なお系図については、一般論としては、偽作があるとすれば長男や末弟の位置に多いらしいが、ここでは深入りしない。
 次は旧武蔵国全体で、皇族以外の歴史上の人物が3社以上で祀られる12例である。(*印は御霊的な神)
593社 菅原道真
37社 徳川家康
6社 鎌倉權五郎 *
5社 源義家  平將門 * 吉備眞備・藤原広嗣(*ともに八所御霊)
4社 新田義興 橘逸勢(*八所御霊)
3社 源頼朝  畠山重忠  藤原鎌足
 神社名が似てゐるからといって「藤原千方」を祀る神社は、これ以上増やさないほうが良いだらう。
(追記) *印のうち、八所御霊とは平安時代の京都の八方除けの禦ぎの神、五郎は山や丘陵の境の神、天神さまは雷の神または正月の歌ひ初めの神であって、言葉の意味での御霊ではないのである。

(b)「もう一人」の藤原千方
 愛知県蒲郡市の形原神社(かたのはら-じんしゃ)の由緒に、
「往古摂政藤原千方公、大和より勧請」(平成祭データ)
 とある。摂政とは、ずいぶん身分の高い人である。
 旧三河国、愛知県宝飯郡や蒲郡市の伝説を扱った「穂の国 蒲郡」といふHPに、形原神社(旧県社、祭神:埴安大神 朝廷別王命 譽田別命 豐受姫大神 天兒屋根神 )の神職執筆のより詳細な由緒が紹介されてゐる。
 「往古 天児屋根命苗裔摂政形原千方公は大和の産にして、欽明天皇御宇十一年己亥、東夷鎮定の大将となり当地に下向あり。当村は海岸に面し諸国船舶輻港の要港たるを以て、この山に征旗を翻し、屯田の策を設け、部下の将卒をして荒地を開拓せしめ、山麓に社頭を就築し、埴安大神を勧請し、遷宮の式を行はれ、其の後、千方公、都に復帰し例年祭礼料として清所官より米二石を賜はり」
 この形原千方といふ人が、当地の藤原千方のことであるやうだ。藤原氏の祖神が天児屋根命であるので、祭神にもなってゐるのだらう。欽明天皇の御代とは、藤原秀郷よりもかなり古い時代であり、この時代に皇族以外の者が摂政となることは考へにくく、何か事情があるやうである。同じHPに、こんな記載もある。
 「大化の改新の後、藤原氏の勢力が全国的に広がり、この地は征討への中継基地となり、藤原北家の秀郷の子 藤原千方が治めていました。この千方氏の末裔が牧原又兵衛氏である。」
 「大化の改新の後」に藤原秀郷の時代まで飛んでしまってゐて、これもわかりにくい話である。「千方氏の末裔が牧原又兵衛氏」とあるやうに、当地の牧原氏の伝承そのままの聞き書きなのだらう。三河国宝飯郡は、持統天皇の行幸も伝へられ、壬申の乱のころにも中央と密接な関係にあった地でもあり、欽明天皇の時代の形原氏の話も確かなのだらうが、わかりにくい。徳川のころの三河武士たちの系図の確定問題などの影響ありか?
 (b)の続
 HP「穂の国 蒲郡」を主宰する吉本さんに、いくつかの資料もいただき、いろいろ親切に教へていただいた。(http://village.infoweb.ne.jp/~fwhc6172/mokuji.htm)
 それによると、藤原千方は大筋において平安時代の秀郷の子で、安和の変や藤原千常の乱に関って、伊勢国の一志郡で殺されたとするのが、当地での一般的な見方らしい。藤原千常は千方の兄である。
 安和の変(969年)とは、左大臣源高明が謀反の疑ひで左遷され、これにより藤原氏の摂関体制が不動のものとなったとされる事件である。長兄の藤原千晴はこれに関って隠岐へ配流になったといふ。五男の藤原千常は、その前後の頃に数回、信濃や下野で反乱を起こしたらしい。このころから貴族どうしの権力争ひに、東国の武士団の動きがからむやうになったらしい。千常の乱のときに六男の千方も伊勢あたりまで出かけて行き、結局都から来た紀伴雄の一矢で射られ、平将門と同じやうな死に方をしたといふ。かういった点でいろいろと憚るところがあって、異なる時代の話として伝はったのだらうといふ。
 伊勢の藤原千方は「太平記」や謡曲「田村」にも登場し、二つとも悪人に描かれてゐてる。平将門は江戸幕府によって復権がなされたが、藤原千方については第六天の神になったともいふが詳細は不明であり、さういふ意味では「憚るところ」があったのだらうか。
 埼玉県の一部の千方神社の話は、「太平記」や謡曲の流布以降の時代に、音の類似から、御霊神社と同様のいきさつとなったものと見るほかはない。
 「ちかた」には大河や入江の港といふ意味もあるので、愛知県蒲郡の場合も、律令制初期の港についての研究が進めばよいのだが。(14/9-11)

ちかつ拾遺 続々

 (イ)掲示板から
 68. 近都牧、神社と「結べず」か 神奈備 2002/09/14 (土) 21:10
近都牧の振り仮名は「キントマキ」となっています。『馬・船・常民』網野、森対談。
意味は、都に近い牧場のことで、楠葉牧、会賀牧などを指す言葉です。畿内の牧場は川の傍に置かれ、船を上流に曳くために馬や牛を飼っていたと推測されています。
近都はチカツと読めます。
多くのチカツ神社も川傍にあるとしますと、元は牧であった可能性もありえるのかも。
後世には武士がたむろして、城にまで発展していったとしても不思議ではありませんね。鎮守になるとかその鎮守社の名前がチカツになるのには結びつきにくいですね・・・。
 ※鎮守社との関係は、このページ冒頭の「まとめの概略」を見てください
 69. Re: 近都牧、 管理人 2002/09/15 (日) 01:06
 近都牧については未知でしたので、平凡社世界大百科を検索すると「鳥養牧」の項目が出ました。鳥養牧は摂津国の淀川下流にあった近都六牧の一つとかで、「近都牧は諸国から貢上されてきた馬牛を,必要に応じて京につれてくるため一時的に放牧しておく都近辺の牧である」ともあります。「諸国」といふのは主に東国でせうか。
 「都に近い」意味といふのも洒落てますが、やはり「鳥養」が出てきました。鳥養部や鳥取部は放牧とどう関ったのかなど、「結び付く」ものが多く、興味は尽きません。
 網野善彦、森浩一対談集は「関東学」の副題のある書が強く印象に残ってますが、紹介いただいたものはその続編なのですね。調べる時間はかかるかもしれませんが、いよいよ面白くなってきました。
 いつも貴重なお話を有り難うございます。
 ※キントマキの読みは歴史学者の慣用のものにすぎないやうだ。
 ※『馬・船・常民』はこれ以前の発行で、講談社学術文庫にあり。
 ※鎮守社の九割は室町時代から近世初期の成立といはれ、経緯はさまざまです。(1)移住した地に前からあってそのまま祀られたものとか、(2)行きすがりの歩き巫女などが最初に祀ったもの、(3)村内宥和のために武家が推奨して祭られたものなど。(4)名前も地名がそのまま社の名前になることもあります。その他さまざまですが、ちかつの神では(1)と(4)はじゅうぶん当てはまります。
 70. 岸辺の牧、河童 管理人 2002/09/20 (金) 00:03
 柳田国男の「山島民潭集」には、河童が馬を川に引き入れるといふ伝説から、河童などの水神は牛馬の守り神でもあり、春先の一日間、牛馬を岸辺に遊ばせ、牛馬の一年の災ひを払ふ(無病を祈る)習俗について書かれてあります。良い牛馬は水中から現はれ出てその胤を残したともいひます。近都牧など、岸辺に牧が置かれたのも、良い馬に育てるためとされます。猿も河童の仲間であり、正月の猿廻しなどは牛馬の一年の無病を祈ったものらしいです。柳田翁によれば、水神に牛馬を生贄として供へた名残りではないかといふことです。
 藤原秀郷の6代の子孫で近江国甲賀郡に住んだ藤原高年といふ武士は、九州筑前から淀川岸の牧へ輸送される途中の最上の馬を略奪したことがあるさうです(野口実「伝説の将軍藤原秀郷」)。平安時代の中頃の話です。こんなことが頻繁に起こるやうでは、都に近い牧には防衛のための別の武士の軍団が配属されたことでせう。
 71. 牧と武士 神奈備 2002/09/23 (月) 21:13
また引用ですが、『馬・船・常民』によれば、摂関家で罪に問われた人は「厩に下し」厩の番人に監視をさせたそうです。牢獄の役割があった。厩の番人は刑史の役割も持っており、武力集団であったそうです。
平将門は戦に負けると船で逃げたそうで、東国の武士団は馬と船とを巧みに使い分けていたとか。

 (ロ)ホームページを検索して
 ホームページ『古代であそぼ』の掲示板で、長野県の千鹿頭神についての書込がある。諏訪社についての関連から若干触れてある。書かれたことがらが、本当に古代からのものであるかの検証は、弱い。
 ホームページ『玄松子の記憶』で、久慈川上流の棚倉の都都古別神社や大子の近津神社数社の参拝記があり、みな川俣の地に鎮座することを指摘してゐる。

 (ハ)「石神問答」から
 柳田国男『石神問答』巻末の「小祠表」の並べ方を見ると、近津社が、川に関する神と同類であるかのやうに置かれてゐることに気づいた。こんな具合である。
  (76)河内神 (77)河裾神 (78)近津権現 (79)唐土権現
 川のそばの神であることは、やはり見抜いてゐたのだらう。