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武家とちかたの神


2、武家と、ちかた社


  イ、城の守護神(深谷城の智形神社、大胡城の近戸大明神) 

 瀬藤禎祥氏に群馬県勢多郡大胡町の大胡神社の由緒を紹介していただいた。
 この神社も、明治42年まで「近戸大明神」の名であった。

「『一筆致啓上侯 御堅固之段珍重奉存侯 然者 其地赤城大明神 当城之鎮守ニ近戸大明神奉祭度侯間 其元父子之中此方江引越神祭奉頼侯 万事家来(折紙)口上申入侯 謹言 常陸介 天正十七年十一月九日 奈良原紀伊守殿』
 大胡城主大胡常陸介高繁が三夜沢赤城神社の神官奈良原紀伊守に出した手紙である。大胡城の守り神として、赤城神社を近戸大明神として祭りたいので奈良原父子のどちらか来て祭りをしてもらいたいとの内容である。……しかし、これ以前に大胡城内に神社があったと推定している。」(平成祭データ)

 「平成祭データ」の「由緒書」で閲覧したものだが、「赤城信仰」と題するパンフレットからの転載で、考証を試みたりする論説風の内容なので、あへて評釈をする。
 手紙文の「近戸大明神と奉祭度」を「近戸大明神として祭りたい」の意味としてゐるが、「と」の解釈が現代的になりすぎるので、「近戸大明神とともに祭りたい」の意味だと思はれる。文中の「近戸大明神」の前後にだけ「ニ」「と」のかながあり、当時のものでないかもしれない。昔から城に祀られてゐるが、祭神もよくわからない近戸大明神だけでは士気があがらないので、ぜひ赤城大明神に後ろ楯になっていただきたい、といふ意味だらうと思へるのである。
 あるいは「奉祭」の意味からすると、分祀や合祀の依頼ではなく、もっと単純なもので、「其地赤城大明神」への報賽の祭も怠りなく行ひます(寄進します)ので、「当城之鎮守近戸大明神」の神事も行ってください、といった意味にもとれる。手紙の簡単な内容からいって、それは年中行事だったかもしれない。
 いづれにしろ、既に「近戸大明神」は「当城之鎮守」として存在したと思はれ、それはおそらく築城当時からの神で、「しかしこれ以前に大胡城内に神社があったと推定」する努力はしなくも良いと思ふのである。
 大胡城には近戸大明神が祀られ、康応(1389〜90)のころ深谷城には上杉氏によって智形明神が祀られた。この種の神を城に祭ることは、上州や北武蔵の地方ではごく普通の習慣だったのではないかと思ふ。それは、城を守護する神として、最もふさはしい神だったからであらう。(8/26)

 <補記> 大胡神社の前出のパンフレットでは「近戸は赤城の神を近いところに勧請したことを意味する。」ともある。この「近い所」とは里や村に近い所といったニュアンスである。しかし勢多郡粕川村月田の近戸神社では「近戸と称するは赤城神社に近きが故なるべし」とある。里に近いのか、山に近いのか、解釈語としての「近き所」の語の使はれ方としては、後者のほうが古いだらう。しかしこれらは、「ちかと」の古語の意味が失はれてしまってからの赤城山周辺での再解釈であらう。できあがった「近い所の神」の通念から、「近戸大明神として祭りたい」の解釈も出て来るのだらう。「由緒」の執筆者に対しては失礼かとも思ったが、関連の論考を見ていただければ、真意は理解いただけるものと思ふ。また旧の月田村には膳城があったことにも注目したい。

掲示板から
 61. 大胡城の近戸大明神の「と」 神奈備 2002/08/26 (月) 16:17
ちかたの神の改訂追加版拝見いたしました。
管理人さんの読解の AND の方がよさそうですね。
その前の文中の「=」次の「と」と、片仮名と平仮名の混在も原文はともかく、『祀りデータ』へのインプット時の仕業かどうかですが、案外、当城之鎮守ニ近戸大明神 の = はイコールの意味で神社が記し直したのかも。

赤城大明神を勧請する手紙に「既に祭られている神社名」を書くのは少しは不思議ですが、礼儀として記したのかも。並祀して具合の悪い神−天照大神と大和国魂−もありますから・・。

  ロ、川本町の知形神社と熊谷市の千形神社 

 前稿で述べたやうに、群馬県や埼玉県北部の、ちかと、ちかた神社は、武家の城や館を守護する神として広く祀られたものである可能性は高い。

 熊谷市本町の千形神社の主祭神は 天津彦火瓊瓊杵命、合殿に 天児屋根命 天太玉命 とあり、深谷の智形神社と類似する。この千形神社について大里郡神社誌に「社地境域は古来広汎なりしと言ひ伝へ」とあり、その広大な社地の中には、今の社地のすぐ西にある熊谷次郎直実の館跡とされる熊谷寺の地も含まれてゐたらう。熊谷直実の館の鎮護の神として祀られた可能性があるのである。

 川本町田中の知形神社は、吉田東伍によれば延喜式内社・田中神社ではないかともいふ。主祭神は「瓊瓊杵命」で、深谷や熊谷と共通するが、配祀や合殿の神は公表の資料にはない。また新編武蔵風土記稿では「思金命を祀るといふ。此命は秩父国造知々夫彦命の十世の祖なれば由ある社にや」とある。風土記稿は、信頼度の極めて高い書である。現在公表の一柱の祭神が何故に熊谷や深谷と同じになったのかは不明であるが、同名神社であるために、明治の初めに、郡内二大都市部の深谷や熊谷に従ったのかもしれない。
 田中の知形神社は、荒川の北岸の台地の上に南面して鎮まってゐる。荒川の対岸は、畠山重忠公の館跡がある旧畠山村、今の川本町畠山である。秩父の出身である畠山重忠が、秩父の椋神社(むく-じんしゃ)の神を勧請したのが、荒川南岸の井椋神社(ゐむれ-じんしゃ)であるとされる。畠山氏は畠山村周辺に、八幡社、稲荷社、浅間社、諏訪社、日吉社、荒神社など多くの社を祀ったとされるが、しかし秩父地方のもう一つの有力神、秩父国造の祖を祀る秩父神社の神を、畠山氏が勧請したといふ記録は、詳細を極める大里郡神社誌、その他を探しても、南岸にはないのである。畠山氏は、井椋神社を南岸に祀り、思金命を北岸に祀った(または式内社田中神社に合せ祀った)のかもしれない。二社を荒川岸に祀ることにより、領地と河川交通の玄関先の鎮護の神としたと想像もできる。思金命を北側に祀ったのは、当時既に秩父神は妙見信仰との習合が始まってゐたためであらうか。

 むかし畠山重忠が、榛沢郡榛沢(現岡部町)から急いで畠山村の館に帰らうと馬を走らせて荒川の岸まで来ると、川は折りからの雨で水が氾濫し、どこが浅瀬かわからず立ち往生した。すると、どこからか鴬の声が聞こえ、鴬は川面低くをすうっと飛んで南へ渡って行った。重忠は、これはまさに神の助けと、一首を詠んだ。
 ○時しらぬ岸の小笹の鴬は、浅瀬たづねて鳴き渡るらむ   畠山重忠
 鴬の渡った跡を追って、重忠は無事に川を渡ることができたといふ。これを「鴬の瀬」といひ、畠山村の井椋(ゐむれ)神社の裏手の渡し口になってゐる。(大里郡神社誌より)
 同類の話は浅草の鳥越神社その他、社名に「鳥」のある神社の由緒にはよく語られる話である。この場合、渡り終はった場所ではなく、渡る前に渡る場所を決めた側での話になってゐるのが普通である。ところが「鴬の瀬」がさうなってゐないのは、北岸の田中村には畠山重忠に関する事蹟そのものがほとんど伝へられず、南岸の畠山村にだけ伝はる伝承になってゐるためであらう。

 前述の知形神社と畠山重忠の関係については、単なる可能性にすぎない話である。知形神社は井椋神社より1キロ近くも川下であるし、館址からは更に離れてゐる。
 とはいへ、田中村は、熊谷秩父街道と今の県道深谷嵐山線の交じはる地であり、田中の台地までは荒川は流域を変へたことはないといひ、東の低地には格好の船着き場である沼(菅沼)があったと思はれ、交通の要所であったことは間違ひない。(やや下流に白鳥飛来地がある。知形神社には藤原秀郷関連の伝承はないとは神職及び氏子諸氏の証言である。)

追記 
 深谷市大字伊勢方はもと田中村といった。もとの集落は今の小字田中にあり、正徳〜享保年間に集落が南へ移住したといふ(大里郡神社誌・深谷市大塚島・鹿島神社の項)。元の地は、今も「元屋敷」と呼ばれるらしい。この元屋敷の地は、康応のころ上杉氏が深谷城(館)を築城中のとき、仮の館を立てて住んだ地との伝承がある。伊勢方の旧家の香川家は、上杉氏の家臣の末裔といひ、香川家の氏神の傍らには今も小さな千形神社が祀られてゐて、上杉氏在住のころからあったものを香川家が引き継いだものらしいといふ。「田中村」の名が気になるところではあるが、館の鎮護の神だったのだらう。

追記2
 埼玉県久喜市本町は、古河公方足利政氏が、後継問題の内紛に敗れて、永正15年(1518)に館を構へて隠棲した地である。この館から真正面(南)約200メートルのところに、千勝神社(祭神 手力男命)があり、足利政氏が祀ったものとされる。政氏は、館の裏鬼門の守護には八幡社を祀ったともいふが、この千勝社も館の第一の鎮護のためのものだったやうだ。しかしこの位置としては「遠戸神」でもあるのだが。