神話の森Home > 日本の神々

鳥の湖のちかつ


4、鳥の湖のちかつ

corel
  イ、白鳥に乗った猿田彦
 「ちかた、ちかつ」の神とは、社を鎮祭する場所を岸辺から飛び立つ鳥の行方によって卜定したことから来た名前なのではないかと思ふ。と、第1章に書いた。
 茨城県の牛久沼の北、稲敷郡茎崎町の千勝神社の由緒(HP)には、かうある。
 「当神社は、第二五代武烈天皇の壬午の歳(502)に、筑波山の西方、常陸と下総の国境に、大神様を奉斎されたと伝へられてをります。社伝によると、その土地の人々が、度重なる水害に困り果ててゐたところ、大きな白鳥に乗られた大神様が降臨され、治水して下さいましたので、農作物も豊かに実り、平安を取り戻す事が出来た、とございます。その時より奉斎されましたが、国境の改修等により、幾度か鎮座地も移され、応永32年(1426年)に、現在の茨城県下妻市坂井の地に奉斎され……」
 「常陸と下総の国境」とは、霞ヶ浦から続く古代の深い入り江の岸辺を意味する。その地に白鳥の飛来によって神社が祀られたことを伝へる由緒である。この神社の祭神は、猿田彦命。白鳥に乗って現はれた猿田彦とは、いささか不似合ひな気がしないでもない。

 熊谷市下増田の近殿神社(通称:ちかつさま)では、祭神は猿田彦ではないが、やはり治水の話を伝へてゐる。
 「この地、往昔 水災多き荒蕪の地なるより、里人議りて防水の堤を築きけるに、これより以降、稲穀 大に穣るに至りしかば、乃ち浄地を相して社殿を営み、稲田姫命を祀りてその恩頼を敬祭し、以て里邑開祖の鎮守と崇めたる由、古老の口碑に伝はれり。」
 祭神の稲田姫命は、美しい姫だが、白鳥ではない。

 赤城山南麓の群馬県伊勢崎市の倭文神社に、古い田植歌が伝はり、白い鳥であるが歌はれる。
 「前田の鷺が御代田にぎろり ぎろぎろめくのは なんだんぼ 一本植ゑれば 千本になる 唐々芒子の種」
 白い鳥が一本の稲穂をくはへて飛来し、それが千本の穂になったといふ話は、日本各地に広く分布し、稲作の起源を伝へる話といはれる。志摩半島の先の入江に臨む伊勢神宮の別宮、伊雑宮の鎮座の由緒にも語られてゐる。

 『倭姫命世記』によると、むかしある秋に、伊雑の地での鳴き声が聞こえ、その地へ行ってみると、稲の一つの根から千の穂が実ってゐて、これは良い稲だと、伊佐波登美神が抜穂にして神宮に献ったといふ。その場所に祭られた「伊佐波登美之神宮」が、伊雑宮のことである。
 伊佐波登美神とは伊勢都彦命の別名であると、江戸時代に出口延経といふ人が言ったらしい。『倭姫命世記』によると、天照大神の鎮まる場所を求めて旅を続ける倭姫命が、伊勢国の五十鈴川の河口にたどりついた。そこに伊勢都彦命が現はれ、五十鈴川の入江で祭事を行った。そこへ猿田彦神の子孫のの大田命が現はれ、五十鈴川の川上の吉い場所を教へたのである。この大田命こそが、興玉命と呼ばれ、埼玉県のいくつかの千方神社にまつられる神であり、前出の千勝神社にまつられる猿田彦の孫とされる神である。また、倭姫命を五十鈴川の川上に御案内して、皇大神宮の鎮座の地を定めた神でもある。
 伊勢都彦命は、諏訪の建御名方命と同神であるとか、いろいろ言はれるが、むしろ「日の神の使ひ」といふ意味では、伊勢国一宮の椿大神社にも祀られる猿田彦命に近いのではないかと思ふ。古事記では猿田彦命の最も縁の深い地は伊勢でもある。
 かうして見ると、猿田彦と白い鳥(鶴)とは、深い関係にあることがわかる。また道案内の神といふだけでなく、稲作にも関ってくる神でもある。
 白鳥に乗って猿田彦が関東に現はれたのは、今の茨城県下妻市付近らしい(他の地にも同様の伝承はあったらうが)。ここから西は、旧の下総国だが、このあたりは古代には霞ヶ浦から続く入江で、中世までは大湿原であったやうである。

  ロ、藤原秀郷と鳥
 下妻市の北西が結城市で、昔は下総国といふが、中世は実質下野国である。その西が栃木県小山市。どちらも藤原秀郷の末裔だとする結城氏、小山氏の本拠地である。小山市にも、智方神社、血方神社があるが、ここから古代の湿原を越えて古利根川を渡ると埼玉県の羽生市(旧堤村)がある。羽生市・加須市など古利根川と元荒川に挟まれた地域が、昔の埼玉郡だが、新編武蔵風土記稿に載る埼玉郡の千方社、千勝社のある地名は、羽生領、礼羽村(らいへむら)、吉羽村(久喜市)など、「羽」の字がつくものが多い。
 羽生市(旧堤村)には、新編武蔵風土記稿に、藤原秀郷の息子の名を注釈した千方神社がある。同書では、入間郡越生町の梅園神社に合祀された近戸権現社(堂山村)について、藤原秀郷本人を祀るとの「俗説」を紹介してゐる。藤原秀郷には、何らかのかたちで「ちかた、ちかつ」に関るものがあるのだらう。
 藤原秀郷には、近江国での百足退治の伝説がある。近江国の日野郡蒲生庄を本拠地とする蒲生氏も、藤原秀郷の後裔であるといふ。むかし蒲生秀綱が、足利将軍の配下で合戦に出て、敗れて山道に迷ったとき、突然一羽のが現はれ、蒲生氏の旗をくはへて飛び去った。その鶴の後を追って、蒲生氏は難を逃れることがきたといふ。それ以来、蒲生氏は鶴紋を家紋としたのだといふ。
 東京の烏森稲荷神社の創建の由緒によると、藤原秀郷は、稲荷神から授かった白羽の矢で平将門を倒すことができたので、その報賽に稲荷神を良い場所に勧請しようとしたところ、「夢に白狐あらはれて、神烏の群がるところが霊地だと告げた。そこで桜田村の森まできたところ、夢想のごとく烏が森に群がってゐたので、そこに社頭を造営した。それが烏森稲荷の起こりである。」といふ。
 藤原秀郷に関連して鳥の話が多いのは、祖母と曾祖母が、下野の鳥取氏であることと関連するやうだ(母は鹿島氏)。系図によると、藤原秀郷の子に、千時、千国、千種、千常などの名があるが、「千…」といふ名も、鳥を暗示するやうな気もする。もっとも藤原秀郷の系図は下野鳥取氏の勢力の下で成立したといふ見方もあるやうだ。秀郷本人は、東国武士の間にはその子孫と称する氏族が多いだけに、伝説の多い謎だらけの人であり、平将門以上に得体の知れない人物である。その子の名についても、同様であらうと思ふ。
 ところで、藤原秀郷の子とほぼ同世代で、伝説も多くしかも下野国ゆかりの同姓の歌人に、藤原実方といふ人がある。栃木市国府町の大神神社の池にあった「室の八島」は、実方の歌によって歌枕として知られるやうになった。
  いかでかは思ひあるとも知らすべし、室の八島のけむりならでは  藤原実方
 藤原実方は、死後にその霊がとなったといはれ、雀が作物の害にならぬやうに東日本の鳥追行事では実方の霊も供養されるといふ。実方の評伝などには蔵人頭(くらうどがしら)になれなかったとの注釈があることがある。面白いのは、クラとは、沖縄方言では雀の意味になり、古い言ひ方のツバクラ、ツバクラメのクラも小鳥を意味するらしいことである。地名の倉沢、倉渕、雛倉のクラは、雀などの小鳥の意味に解したほうが解りやすい。生前に蔵人頭になれなかったので死後に雀(くら)になったとは、落語のやうな話ではあるが。

  ハ、鳥の海の地名
 さて、「ちかつ、ちかと」は今のアイヌ語で解釈すると「鳥湖、鳥沼」の意味となるらしい。「ちか」は、おそらく日本語とアイヌ語の共通の古語で、鳥、特に水辺に現はれる鳥を意味するものであらうことは、いくつかの地名からもうかがへる。
 岩手県宮古市の近内、山形県余目町の千河原、秩父市の近戸町、青梅市の千ヶ瀬町、神奈川県の茅ヶ崎、佐賀県玄海町の値賀川内、長崎県の値賀島。
 その他「ちか」の地名は川や海岸に隣接するところが実に多い。
 記紀万葉の時代では、古事記に「近つ淡海」といふ地名がある。古事記では、近江国を、近つ淡海国といひ、遠つ淡海国が遠江国であるが、この「ちかつ」は、枕詞のやうな固定した使はれ方で、非常に古い語のやうでもある。東国の遠江が知られる以前からの地名とするなら、やはり元の意味は「鳥の湖」なのかもしれない。(「遠つ飛鳥」については、詳しい検討はまだできない。)。
 万葉集には「近つ」といふ語はない。「遠つ」といふ語は、主に先祖や過去の人のことをいひ、「遠つ国黄泉の境に」「大伴の遠つ神祖」「遠つ神わご大君」「遠つ人松浦佐用姫」などと使はれた。皆、遠い昔のことを詠んでゐる。これらの歌の多くに「鳥」が出てくるのだが、それは鳥が先祖や亡くなった人の霊を運ぶものと信じられたためであらう。
 万葉時代には「遠つ」は時代の遠さのことであるから、反対語は「現つ」(あきつ)だらう。遠方を意味する言葉は「をち、彼方(をちかた)」などである。しかし「遠つ」に、やがて距離の遠さの意味が加はったころに、「ちかつ」も「近つ」の意味と意識され、近つ淡海、遠つ淡海と対比されるやうになったのだらう。

  ニ、千羽鶴
 栃木県河内郡南河内町の薬師寺八幡宮の境内にも千勝神社があり、祭神は八心思兼命、その他由緒は不詳であるといふ。現在は選挙やギャンブルの願掛け、千羽鶴を納めての病気平癒の祈願が多いらしい。源義家などが「千度勝つ」と祈願したとの伝説もあり、おそらく戦争中の戦捷祈願・無事を祈って女性たちが千羽鶴を納めたのだらう。それは千人針……布に千人の女性が赤糸を一針づつ縫った千人針……に代はるものだったやうだ。この信仰が、戦後、ギャンブルと病気平癒の二つに分かれていったものと思ふ。
 千羽鶴の風習は、近代のものとは思ふが、初めてこれを納めた人は、千勝社が白い鳥の飛来によって祭られたことや、遠い昔の伊勢の伊雑宮の由来を、知ってゐたのだらうか。(14/8〜11)