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都都古別神社と近津三社


3、奥州の都都古別神社と近津三社(覚書)


 奥州一宮ともいはれる都都古別神社(つつこわけ-じんしゃ)は、福島県の南部の東白川郡棚倉町にある。茨城県から久慈川を遡って、福島県へ入って少しのところである。祭神は味耜高彦根命(あぢすきたかひこね-のみこと)。配祀には日本武尊(やまとたける-のみこと)。日本武尊がこの地で蝦夷を平定したとの伝説もある。東山道とは別の道だが、奥州への入口の一つであり、交通の要地の鎮護のために延喜式名神大社といふ高い格式を与へられたとも考へられる。古代の道が川沿ひを通ったとするなら、この地が重視されたこともうなづける。

  1、近津三社(ちかつさんしゃ)
 延喜式にも載る都都古和気神社は、元は一社だったはずだが、現在は棚倉町に同じ名の神社が二社あり、どちらも明治時代に国幣中社となった。近世まではともに近津大明神または近津宮と称し、下流の茨城県大子町の近津神社とともに近津三社と総称されてゐた。三社は上流から上宮、中宮、下宮と呼び分けられてゐた。現在の二つの都都古和気神社は、字の地名を付けて、馬場都都古和気神社(上宮)、八槻都都古和気神社(中宮)と地元では区別されてゐるやうだ。八槻(やつき)は、風土記逸文に、日本武尊が蝦夷を平定したと伝へる地である。福島県東白川郡・西白河郡や茨城県久慈郡の周辺に多い近津神社は、近津三社の分祀といはれるが、少なくとも三社の勢力が強かったことは確かである。
 中宮、下宮は、古代の駅の場所にあり、おそらく「道路守護の神」だらうと吉田東伍はいふ。
 延喜式の白河郡には似た名の神社が三社ある。
  都都古和気神社(つつこわけ-じんじゃ)
  伊波止和気神社(いはとわけ-じんじゃ)
  石都都古和気神社(いはつつこわけ-じんじゃ)
 伊波止和気神社と石都都古和気神社を、上宮と下宮として、三社を近津三社に比定する説もあるといふ。イハツツコワケの名は、イハトワケとツツコワケの二神を祀ったことに由来するのだともいふ。
 吉田東伍は、式内・伊波止和気神社とは白河関の鎮護の神で、今の白河市旗宿の白河関跡の白河神社(旧関山明神)のこととする。
 古事記では天石戸別神(あめのいはとわけ-のかみ)は、別名が櫛磐窓神(くしいはまど-のかみ)または豊磐窓神(とよいはまど-のかみ)で「御門神」であるといふ。古語拾遺には「豊磐間戸命・櫛磐間戸命の二柱の神をして、殿門を守衛らしむ。〔是並太玉命の子也〕」とある。かうしたことからも、前出の神々はいづれも奥州への交通の要地の神だらうといふことがわかる。
 現在の下宮・近津神社(大子町)の祭神は、面足命、惶根命、級長津彦命であるが、このことについては別の稿とする。
(一説に、崇神天皇の御代に肥前国松浦の近津から移された神ともいふ。また、源義家が奥州征伐のときここで千度勝たんと祈ったことから千勝大明神と字を改めたともいふが、日本武命だともいふ。音の類似から諏訪の千鹿頭神の関連も古くから論じられてもゐた)。

  2、社川の上流
 八槻の都都古和気神社の近くに鉄道の近津駅があるが、駅名はもとの近津村の名によるものだらうが、村名としては神社名の元となったとするほど古い地名ではないかもしれない。久慈川の支流の近津川もある。近津の地名が、いつの時代からのものかは不明だが、確認できるのは棚倉城の築城のときまでらしい。棚倉城は近津城ともいひ、江戸初期の寛永元年に、上宮の近津宮の社地の中に築城されたもので、上宮はこのとき少し北へ移設され、城の鎮守ともなったといふ。上宮には、室町時代の足利義満による社殿造営の話も伝へられてはゐる。
 この上宮は、古くはさらに別の地にあったと言伝へられる。
 その地は久慈川をさらに北へ遡り、支流の社川(やしろがは)を西へ昇ったところの、西白河郡表郷町の三森(みもり)の地であるといふ。明治のころは金山村と言ってゐた。三森の少し上流の大字の金山から南へ福島・茨城・栃木県境の八溝山(やみぞやま)へ向かふ一帯には、古代の金の発掘跡が三里に渡って広がってゐたといふ。今の黄金川の名の由来なのだらう。金山は金の山、三森は神森、社川は社のそばを流れる川、の意味だらう。東隣の釜子村の地名も金属の精練に関連する名かもしれない。(しかしカマの地名は馬に由来するものが多いらしい)
 社川は、久慈川の支流であると、地名辞書にある。ところが今の地図を見ると、社川は東から北へと流れ、阿武隈川へ合流してゐる。今の地図では久慈川の支流が棚倉町逆川(さかさがは)といふところで、社川に接してゐるやうな離れてゐるやうな描きかただが、元は社川は逆川から南へ流れてゐたらしい。「逆川」の地名の由来はよくわからないが、ともかくこの付近一帯は、東北地方の阿武隈川と関東地方の久慈川の、二つの大河の水源地であることになる。
 三森にあった近津または都都古別の神は、水源地の神であり、金鉱の神であったことになる。「道路守護の神」とされたのは、上宮の地へ遷された後のことになるのだらうか。水源地の神への信仰は、生活農業用水のほかに、金属精練に関るものがあるのだらう。

  3、武将たちと久慈川
 上宮には、足利義満の造営、天正年間の白河城主・関義親の造営、佐竹氏による修造、などが伝へられる。足利義満のときの上宮は、後の近津城の場所とみてよいかどうかは不明である。中宮(八槻)には、白河を領し下野守護ともなった結城氏、常陸介の佐竹氏などの崇敬があったといふ。佐竹氏以外は、下野国の藤原秀郷の後裔である。
 近津三社は、久慈川の要所の神であることは間違ひなく、棚倉城主の死を悼んだときの歌にも、川の流れが歌はれる。

   白河の関もとどめず行く水に常世の里も名のみなりけり

 この歌の「常世」とは、今の棚倉町の南の塙町を常世郷といったことによるものである。

 現在の社川の流域は、高原の広い田園地帯になってゐる。古い社川はやはり南流してゐたらしく、逆川から東へと潅漑用水が引かれてゐたのだらう。現在は逆に逆川から南へ分水するかたちになってゐる。南部には広い田は少なく、大正時代以降に東部の田園が更に開けていったためなのだらうか。あるいは人口の多い南部への洪水の予防の問題もあらう。

 この稿は、吉田東伍の地名辞書ほかいくつかの文献からまとめたもので、事実や伝承を確認するだけとなったが、いくつかのヒントを確認できたとは思ふ。(14/8〜11)