神話の森Home > 日本の神々

木の下の神話 木の神その2


  (1)大国主神を助けた大屋毘古神  〜木の国での死と再生と矢

 前章で「木と矢」についての信仰の深い関係について見てきたが、さて、日本最古の神話物語である『古事記』を見ると、やはりそこで初めて登場する矢は、木の神との深いつながりの中で語られてゐた。
 その矢は、大樹に打ち立てられた矢であった。
 大国主神(大穴牟遅神)が、八十神(やそがみ)たちとの争ひに勝って、因幡の八上姫(やがみひめ)を得たときの話である。
 古事記の話では、大穴牟遅神(おほなむちのかみ)は、八十神たちのたびたびの迫害に遭ってゐた。ある日、八十神たちは、大穴牟遅神をだまして山に連れて入ると、大樹を切り伏せ、茹矢(ひめや) − 氷目矢とも書く − をその木に打ち立て、その中に大穴牟遅神を入れたといふ。ヒメ矢とは、楔に似た物だと注釈され、大樹に打ちこんで幹を割き、その割れ目の中に大穴牟遅神を入れたのである。そして「そのヒメ矢を打ち離ちて、拷ち殺したまひき」とあり、ヒメ矢を外したときに割れ目がもとに戻り、中の大穴牟遅神は圧死した。ヒメ矢がどんなものかは、よくわからないが、その割け目に人が入れたほど大きな物であったかもしれない。そこへ御祖(みおや)の命(親?)が現はれて大穴牟遅神を見つけ、木を折って大穴牟遅神を取り出し、生き返らせたといふ。そして大穴牟遅神を木の国(紀伊国)の大屋毘古神(おほやびこのかみ)の所へ逃れさせた。八十神たちが木の国まで追ひかけてきて矢を構へると、大屋毘古神は、「須佐之男命(すさのをのみこと)の坐します根の堅州国(かたすくに)に参向ふべし」と言って、大穴牟遅神を木の俣から逃がしてやったといふ。
 大屋毘古神とは、前章の最初に述べた五十猛命の別名とされ、紀伊国の木の神のことである。
 大穴牟遅神を救ふことになった木の俣とは、大樹にできたウロのことのやうで、そこが根の国への入口でもあったことになる。最初にヒメ矢を打ち立てて作られた木の割け目といふのも、何か人工的な木俣であると見ることができる。したがってその二種類の木俣において、死と再生が繰り返されたことになるのである。木俣とは、生命の復活が可能となる場所なのだらう。

  (2)根の国の世界   父神と子神

 古事記の話では、大穴牟遅神はその後、根の国でも試練を受けることになるのだが、根の国での出来事は、「根の国」の文字の通り、大樹のウロの中での出来事のやうに見えることが多い。根の国は、木の神の(おや)の須佐之男命が住む世界である。そして大穴牟遅神が入った「蛇の室」や「蜈蚣と蜂の室」。野火に遭遇したとき、鼠の不思議な呪文「内はほらほら、外はすぶすぶ」によって、火の沈静を待ちながら隠った洞。須佐之男命の室も同様で、たりき(垂木)が垂れ、大穴牟遅神が出るときは、「五百引(いほびき)の石」をその室の戸に取り塞いだといふ。
 「根の国」は、古事記では死者の国とされる黄泉国とは全く異なるものとして描かれる世界である。そこでは、生と死の区別があいまいで、しかしその先は常に再生へと向かってこの世に口を開いてゐる世界でもある。文字の通りの「根の国」なのだらう。「いほ引の石」は、伊邪那岐神が黄泉国との境にずっしりと据ゑて命からがら逃げてきた千引石(ちびきのいは)とも異なるもので、「ほ」の意味は、穂のやうに生命力をもって突出する標のやうにも見える。
 大穴牟遅神は八上姫と結婚して子も生まれたが、根の国での妻の須勢理姫(すせりびめ)の嫉妬を恐れて、その子は木の俣に刺し挟んで置いて、八上姫は国へ帰ったといふ。その子の名が木俣神であるといふ。
 須勢理姫も出て来るので関係が複雑だが、木俣神は、文字通りの根の国の霊の落し子なのであらう。出入り口に鎮まる「いほびきの石」そのものかもしれない。

 木俣神は、またの名を御井神といふと古事記にあるが、木俣神と御井神がなぜ同じ神なのかは謎とされてきた。
 「但馬国養父郡大屋町の式内社の御井神社は御井神を祀るようですが、古典には大屋比古命、大屋比賣命を祭神とする説もあり(資料名紛失)、大屋毘古神もまた木の俣に座したのかも。」と瀬藤禎祥氏はいふ。
 大屋毘古神も根の国の須佐之男命の子神であって、「小さな神」なのかもしれない。大屋毘古神の別名「五十猛(いたける)」の語義についての柳田説がある。天照大御神が生まれたときに父神から賜った珠の名を「御倉板挙之神」といふ。「みくら」は祭壇の義だが、「板挙」が「イタケの神」のことで、それは父神を祀る姫神を意味し、珠をもって祀ったのだといふ。「八幡に若宮あり、熊野に王子あり」で、五十猛とは父神・須佐之男命の祭祀にあづかる神の名であるといふ。要するに、親神を祭った若く幼い神のことで、この若神を人が祭ることで親神を祭ることにもなるのである。
 イタケは東北地方などの巫女のイタコに通じ、イタは語りの義といふ。また巫女のことをイチともいふ。
  ○いち人や神の姿ににれ山の入らずの守は奥処知らずも  楡山神社神詠
 この歌の「いち人や」は、鎮座地名の小字「八日市」から「市日と八」を掛けたものと思はれるが、巫女の意味でもあるやうである。

 (3)木俣の神と御井の神   〜子安神

 木俣の神が御井神であるのも謎である。但馬国のほかにも、いくつかの「御井神社」または地名に「井」とある神社の祭神名に木俣神の名が見える。
 ○御井神社奥之宮 岐阜県各務原市三井町      木股神
 ○津田神社    三重県多気郡多気町大字井内林 (主)木俣神 (合祀神)多数
 ○五百井神社  滋賀県栗太郡栗東町下戸山     木俣神
 ○美登内神社   兵庫県氷上郡春日町上三井庄  (主)木俣神 (合祀)品陀別命
 ○井ノ大神社   兵庫県加古川市八幡町野村     木俣神 水分神
 ○御井神社    奈良県宇陀郡菟田野町平井 皇大神社境内 木俣神
 ○御井神社    島根県簸川郡斐川町大字直江  (主)木俣大神 (配祀)八上姫命

 五十猛命を祀る和歌山市の伊太祈曽神社の境内社にも「御井社」(祭神・弥都波能売神)があるやうだが、奈良県宇陀郡榛原町桧牧の御井神社に「水分神」の祭神名がある。この地名の桧牧は、桧の大樹が何かを巻き込んでゐること(桧巻)に由来するやうでもある。それはともかく、同県の吉野郡吉野町吉野山の吉野水分神社(主神・天之水分神)が「子守明神」の別名があるといふので、それについて考へ、糸口としてみたい。
 吉野水分神社の「子守明神」の通称の由来を社伝では次のやうに述べてゐる。

「水分神を、幼児の守護神といふこと、如何にも不審らしく思われますが、それは当神社の御祭神は、御主神の外に、尚六柱ありまして御正殿の右方の御殿には天満栲幡千幡姫命、玉依姫命、天津彦火瓊々杵命を奉斎し、左殿には高皇産霊神、少名彦神、御子神を奉斎しあれば、これにてそのいわれは知れます。
 まづ右殿千幡比売命と、瓊々杵命とは親子にて、左殿の三柱も、皆親子神であります。殊に栲幡千幡比売命は、高皇産霊神の御子神でありますが上に天照大神の御子正哉吾勝速日天忍穂耳尊に配し給ひて、瓊々杵命を生みまし、保育そのよろしきを得て、聡明英達、この国土に降臨され、皇祚の基を建て給ひ、又玉依姫命は、御姉豊玉姫命にかわりて鵜草不合葺尊を御保育し、後に不合葺尊に配し給ひて、神武天皇を生み奉り、その保育又よろしきを得て神武天皇が終にこの大和の国に於て日本国の紀元を御創立遊ばされし、いとも尊く、いとも目出度瑞祥の存するを以て、この二姫命を幼児守護の神として子守神社とたたへ庶人の尊崇するに至りし事、極めて道理ある事であります。」(平成祭データ)

 配祀の六柱の祭神についての非常に複雑な親子の関係が語られてゐる。吉野水分神社は、本居宣長の父母が参拝して子の宣長を授かったことでも知られる。狭い知識では「みくまり」が転じて「み子守り」となったのかと思ってしまふかもしれないが、上記の熱心な説明によって、それは否定しなければならない。
 配祀神の親子関係は複雑だが、一言でいへば「子守明神の名は配祀の神に起源あり」といふことだらうと思ふ。右方の御殿は、母神や乳母の神を主に祭り、左殿には子神を主に祭ってゐる。左殿の高皇産霊神を妙に思ふ人もあるかもしれないが、この神は美濃国に多い「子安神社」などでも祀られる神である。
 ○子安神社 岐阜県岐阜市彦坂字穴田     高御産巣日神 神産巣日神
 ○子安神社 岐阜県加茂郡七宗町神淵森上道上 高皇産霊尊

 各地の子安神としては、木花開耶姫、玉依姫、白山姫、神功皇后といった母のイメージの神が祀られることが多く、観音信仰の習合が論ぜられることもある。高御産巣日神については、やはりこの場合でも、高木神の名で理解しなければならないのだらう。高御産巣日神は古事記では特に男神とも女神とも述べられてはゐないが、大樹の懐深いウロには、歴史以前の母のイメージがあるのだらうと思ふ。
 木俣神と御井神については、不明なところが多い。風土記には、肥前国で樫の木の穴から水が出たといふ話があり、播磨国明石の巨木のそばにも御井があったといふ。奈良県宇陀郡榛原町の「桧牧」の御井もある。深谷市手計の鹿島神社に、井戸をウロで包み込む御神木があることを、紹介しておく。http://homepage3.nifty.com/nireyamajinja/ohsato/32kasima.htm

 (4)二俣における生と死    〜子安木、犬卒塔婆、二上山

 子安木と呼ばれる木があり、九州などでは、神功皇后が大樹の枝に取りすがって八幡様をお産みになったとか、木の枝をにして安産されたといふ伝説がある。木の枝は、枝の先へ向かって無数に分かれて行き、その姿が子孫の繁栄を象徴するもののやうにも見える。ただし枝が伸びてゆく最初のしるしは、より根元に近い二俣の部分である。
 二俣の木は、夫婦松、相生の松などとも呼ばれ、めでたいものとされてきた。
 関東周辺では、村の若い嫁たちによる犬供養と呼ばれる行事があった。その行事では、犬卒塔婆と呼ばれる二俣の枝を杖に作り、その杖を村はづれの辻に立てて、安産を祈ったといふ。木の二俣の部分が、樹木の霊が最も籠る場所なのだと見ることができる。

 古代の葬地であった奈良県の二上山は、その名の通り男峰と女峰の二つの頂があり、その中間の窪地に死者を葬ったといふ(石上堅『木の伝説』)。それは木俣が根の国の入口であったやうに、峰の俣の場所が生命の再生が可能となる場所であるとの認識によるものだといへる。そのやうな形状の地に亡骸を葬り、その霊の再生を祈ったのである。

 生と死は、両極にあるものであるかのやうに現代人は考へてゐる。それは、出産がまったく新しい生命の誕生であると思ひ込んでゐるからである。
 しかし、大穴牟遅神が出逢った木俣は、死の場所であるとともに復活の場所でもあった。地方の習俗では、早死した幼児の供養は、葬式の日までしか行はないといふ地方もかつては多かった。供養を行はないのは、不幸な幼児に対して、早く生まれ変はって欲しいとの願ひがあったからなのである。「七歳までは神のうち」といひ、幼児は三十年の供養を待たず、死んですぐに神に成り得たのであり、間違ひがなければすぐにでも生れ変れることもできた。かうして、全ての出生は、生れ変りであると考へることができたのである。
 親や先祖によく似た子は、その生まれ変はりには違ひない。村内婚だけがおもに行なはれてゐた時代には、氏子たちは共通の祖神のみを氏神とし、したがって共通の子孫があり、その中での死と生れ変りを経験して来た。
 「先祖と氏神さまを大切にしなければならない」といふ、われわれの無名の先祖たちの教へは、このやうな数千年来の日本人の生と死の考へ方を根拠とし、現代人へも受け継がれてゐるものなのである。この思想は、現代人が年老いて最後の時を迎へるときにも、最も心の支へとなる思想であるはずである。

 (5)姥神、御霊神社

 さて、山の峠や尾根道などの境界に祭られる神に「姥神社」と呼ばれる神社があることがある。似たやうな場所には姥山、姥ヶ懐などの地名もある。この神は、三途の川の奪衣婆(だつえば)のやうに人を襲ふ山姥のやうでもあり、また金太郎を育てた山姥のやうに山中密かに子育てをする乳母である伝説もある。この姥神もまた、生と死の両方を司る神であるやうである。奪衣婆の居る場所は、三途の川の川岸の木の下といふことになってゐて、禊に奉仕する巫女の変化との説もあるが、大きなウロを持った老樹の神を連想せずにはゐられない。
 姥神と似たやうな場所に祭られることの多い「御霊神社」の中には、高皇産霊尊(高木神)を祭神とするところも多い。これも境の地に立つ高い木を祭り、境を守る神のやうである。埼玉県大里郡大里村の高城神社は、旧称「御霊宮(ごれいのみや)」と言ったやうで、やはり高皇産霊神を祀る。福岡県に多い高木神社については未調査ではある。なほ、御霊神社で祭神を鎌倉権五郎とするところはごく小数にすぎない。

 (6)森の禊 〜ははき木、くくのちの神

 これまで述べてきたやうな木は、いはば「母の木」であるともいへる。「母木木」と書けば「ははきぎ」であるが、「ははき木」の伝説といふのがある。ははき木とは、信濃のどこか国境の山奥の園原といふところにある木で、遠目に見えたと思って近づいて行くと、その木は見えなくなるといふ謎の木である。逢へたと思ったら逢へない恋の歌にも歌はれる。
  ○園原や、伏屋に生ふるははき木の、ありとは見れど逢はぬ君かな  坂上是則
 伏屋とは、何かの神事のために忌籠りをする仮屋のことで、大樹の下での物忌の習俗の伝承を伝へるものと思へる。「ははき木」は「箒木」と書かれることもあり、ハハキは箒の古語であるといふ。
 箒には日常生活のさまざまな俗信があり、酉の市の熊手と同様に、霊魂を掃き集めるものと信じられてゐる。箒を逆さに立ててはいけないのは、家人の魂が肉体から離れて行ってしまふからで、ただし葬送のときに墓地では逆さに立ててこの世の肉体への未練を断つ手助けをすることもある。歓迎しない人が家を訪れたときは、二度と来ぬやうに逆さに立てるが、この場合は家族の魂に影響のないやうに手拭をかぶせることになってゐる。
 木の下での忌籠りは、特別な霊を招き寄せるために行ふことから、箒の霊力になぞらへて、「箒木」としたのかもしれない。
 山奥の大樹の下には、伏屋を建てなくても籠れる場所があり、それはウロの中である。古事記で木俣が魂の再生の場所であったやうに、古代からの籠りの風習があったのだらう。
 ※ 園原は今は長野県伊那郡阿知村智里の台地をいふらしく、現在は中央高速道のインターチェンジの名にもなった。

 大樹のウロに籠るほかにも、根元が二俣になった大樹の間を通り抜けるだけで、ある種の生れ変り、ないし祓へが可能だったやうな信仰もあるやうである。
 石上堅氏は、木の神・久久能智神(くくのちのかみ)について、ククは茎の意味ではあるが、「水をくぐってはたす海の禊ぎに対して、樹木の間をくぐり枝を折り放してはたす山の禊が考への奥にあらう」といふ。「枝を折る」とは「小柴」と呼ぶ木の枝、榊の枝などを折って差し立てて山の神への手向けとすることであり、そのやうな枝の積み重なるそばの樹木は、神木である証拠である。樹木の間を通って行くことは、ある意味では、現代の「森林浴」に通じるものがないでもない。

 (7)高木の神と磐座(いはくら)  〜天孫降臨

 木の神の役割は、大樹の下で霊魂の再生を司るところにあるやうである。
 その木の神・大屋毘古神は、すでに述べたやうに、木俣に坐す石の神でもあるのだらう。大樹の子として、その懐に抱かれる神でもある。

 山中で突然姿を現す磐座と称される石のうちの一部には、人によって大樹のもとに運ばれ、かつてはそのウロを塞ぐやうに寄り添って祀られたものもあったのではないかと考へらる。大樹が朽ちたり伐採されたときに、その石は孤立してしまったのかもしれない。山中の石の中から赤子の泣く声が聞えたといふ「子泣石」や「夜泣石」の伝説があるが、母なる大樹を失って泣いてゐるのではないかとも想像してしまふものがある(事実はわからないが)。
 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の天孫降臨のときにくるまってゐた「真床追衾(まとこおふすま)」は、産着のやうなものであるとされ、瓊瓊杵尊ご自身が嬰児のお姿だったといはれる。それが国をはじめるときのお姿であり、真床追衾は代々の天皇御即位のときの大嘗祭でも使用されるものだといふ。

 「高皇産霊尊、真床追衾を以て、皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊に覆ひて、降りまさしむ。皇孫、乃ち天磐座を離ち……」(日本書紀)
 赤子の姿の瓊瓊杵尊は、高木神のもとにあった天磐座を離れ、または磐座を外し開いて、降臨したのである。


 予定  その3 木と石の不思議な物語

 大樹の懐に抱かれる石について、さまざまな各地の資料を教へてくれる人があり、自分でもいくつか見つけたので、次の章で取り上げることにする。石を歌ふ国歌「君が代」の背後にあるものの意味についても考へたい。