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木の神と矢の神 その1


  はじめに

 〜木の神・五十猛命(いたけるのみこと)

 ○山々の木々の栄えを、木の国の栄えと守る伊太祁曽(いたきそ)の神  本居大平

 この歌は、「木の国」とも書かれた紀伊国の木の神、伊太祁曽神社(和歌山市)の神を歌ったもので、その祭神名の五十猛命は、まさに日本の木の神を代表する神であるといへる。
 五十猛命は、日本書紀によると、素戔嗚尊(すさのをのみこと)の子で、父神と妹(妃)二柱(大屋津姫命。爪津姫命)とともに、大八洲の国に天降って島々に樹の種を播き、国々を奥深い森となして、紀伊国に遷り鎮まった神とされる。伊太祁曽はイタキソと読む。日本書紀に「五十猛命を(なづ)けて、有功(いさをし)の神とす」ともあり、「イタケルのイサヲ」が縮まって「イタキソ」となったといふ。

 (1) 杉山神社と天日鷲命

(あめのひわしのみこと)

 さて関東の話である。神奈川県の横浜市と川崎市、東京都町田市などに、「杉山神社」といふ名の神社が44社ある。名前の通り「杉の木の山」の神であるやうで、全体の半数近い20社に木の神・五十猛命の祭神名が見える。
 横浜市港北区茅ヶ崎町の杉山神社でも、社記によると、「(主神)五十猛命、(配祀神)天照大神、倉稲魂神、素戔嗚尊」とある。ところが江戸時代の文化文政のころの官撰書『新編武蔵風土記稿』では、この神社の祭神名は、「高御産巣日大神(たかみむすひのおほかみ)天火和志命(あめのひわしのみこと)由布津主命(ゆふつぬしのみこと)」の三柱となってゐる。

 高御産巣日大神 この神は別名が「高木神」ともいひ、木の神の性格はある。
 天火和志命   天日鷲命とも書かれ、高御産巣日大神の子だが、古代の安房国を拓いた忌部氏の祖神でもあるといふ。
 由布津主命   神籬などに掛ける木綿紙垂の意味だらうが、不明。

 古代の氏族の系図をよく知る人は、この神社が忌部氏に関係ありかと思ふらしい。しかしそれは少し待ったほうが良い。五十猛命は、関東ではいくつかの「熊野神社」に配祀神として祀られることもあるが、こんな例もあるのである。

 ○熊野神社 群馬県前橋市千代田町 (主神)櫛御気野命 (配祀)大屋津姫命 五十猛命 大鳥神

 「大屋津姫命 五十猛命」といった木の神とともに「大鳥神」の名が見える。「大鳥」とは、鷲のことである。東京台東区千束に酉の市で知られる鷲神社があり、「おほとりじんじゃ」と読む。杉山神社の「天日鷲命」も「鷲の神」の意味なのではないだらうか。また、そもそも「鷲の神」とは、どんな神なのだらう。そしてなぜ木の神とともに祀られるのだらうか。

 (2) 大杉神社の「そば」の神



 「杉の神」といふべき有名な神社が、関東にはもう一つある。茨城県稲敷郡桜川村の大杉神社である。江戸時代に「あんば大杉大明神」の名で、船運や疫病除けの神として江戸や関東周辺で大流行したこともある神である。「あんば」は古い地名に由来するといふ。しかし神社の創祀は決してそのやうな新しいものではなく、古代の杉に由来する神らしい。この大杉神社のそばといふか、すぐ北方の桜川村飯出に、脇鷹(そばたか)神社といふ神社がある。
 ○脇鷹(そばたか)神社 茨城県稲敷郡桜川村飯出 (祭神)天日鷲翔矢命

 この脇鷹神社については資料不足でよくわからないのだが、漢字表記の異なる「そばたか神社」は茨城県南部(3社)、千葉県北部(13社)、埼玉県東部(2社)に、計18社ある。習志野のてつ氏紹介の史料によると、千葉県佐原市大倉の鎮守の側高神社は、祭神は「側高神」で謎とされるが、同市に鎮座する古代の大社「香取神宮第一の摂社」であるといひ、古代の奥羽平定に功績のあった神で馬に関する武勇の伝承を伝へ、また「ひげなで祭」といふ風変りな行事もあるといふ。
 桜川村の脇鷹神社の祭神名の「天日鷲翔矢命」は「天日鷲命」の別名とされるやうである。しかしどうも天日鷲翔矢命とは、矢の神のやうにも見えるのである。鷲、また神社名にもある鷹は、古来からその羽が矢につけられた鳥である。矢の威力は、鷲や鷹の神の威力を借りたものだともいへ、鷲や鷹は矢の神の名としても、ふさはしいものである。

 千葉県の例はともかく、茨城県の大杉神社と脇鷹神社(天日鷲翔矢命)、神奈川県の杉山神社と天日鷲命、群馬県での五十猛命と大鳥神の併祀、などの例からして、木の神と矢(または鷲・鷹)の神とは、何か深い関係にあるもののやうである。
 なほ、「そばたか」の「そば」は、何かの「そば」の意味といふより、高く聳り立つもの(大樹)の意味だらうと思ふ。

 (3) 矢立杉

(やたてすぎ)

 ここで思ひ出されるのは、矢立杉の話である。この話は、江戸時代の諸国の地誌などに記載され、峠などにあった老杉を伐採したときに幹の中から(やじり)が出たといふ話である。老木のウロの中から出たものもあり、さらにその下の土の中から出たものもあるといふ。尋常の大きさの鏃でないことから、巨人伝説のつきまとふ源為朝や坂上田村麿などが木に向かって矢を射て前途を祝したものといはれることもある。ただし鏃が大きいといふのは、大男が普段使用した矢だからなのではなく、戦場用の矢ではない祭祀用の矢だったからだらう。
 柳田国男翁は『山島民譚集』で次のやうに言ふ。
 「武家が祈願のために上指(うはざし)の矢を神に奉ることは、『太平記』などにも見えてあの時代一般の風習であったが、それ以前にはやはり箱根の矢立杉などのごとくその矢を樹木に射立てるのをもって神に対する作法としたらしい。これは樹木が神体でなかった証拠である。」
 「上指の矢」とは、矢を収納する「やなぐひ」に矢を盛って(矢を収めることを盛るといふ)、その上に別種の矢を1〜2本挿し添へたもののことで、特別な矢を添へることによって神への捧げ物と成り得たもののことである。この特別な矢がやや大きなものだったと思はれ、「その矢を樹木に射立て」たのが、矢立杉なのだといふ。武士にとっては戦捷を予祝するものであったのだらう。
 「樹木が神体でなかった証拠である」とは、意外な言葉に思ふ人もあるかもしれない。しかし古代には巨樹はそれこそ山ほどあり、その中から選ばれて矢を射立てた木だけが御神木となったといふ意味である(※)。盲人や子供などが木に向かって白羽の矢を射てその年の豊作を占ふといふ神事もあり、慣用句にも「白羽の矢が立つ」といふ。曽我物語で仇討に出向く曽我五郎・十郎の兄弟が、箱根で祈りを込めて杉の大樹に矢を射たといふ話が伝へられるのが、「箱根の矢立杉」である。
 ※ これらの話は大樹ばかりの中で人が暮らしてゐた大昔のものであり、現代においては、巨樹は非常に貴重な存在であり、神の霊の憑依する御神木であることには変りはない。市町村などでも文化財と指定するやうな巨樹に矢を射ることは、現代ではあり得ないことだらう。

 また徳島市の勝占神社(かつらじんじゃ)は、もと「杉尾大明神」と呼ばれた杉の神であるが、むかし平家追討に向かはんとする源義経が弓矢を献じたといふ伝へがある。「杉尾神社」は徳島県では17社あり、徳島市国府町矢野の天石門別八倉比売神社も、もとは杉尾神社の名のやうだ(地名辞書)。 ※ 式内・天石門別八倉比売神社は、一宮神社(徳島市一の宮町)も論社である。

 ここまで見てくれば、杉山神社や大杉神社にも「上指の矢」などが献上されたであらうことは、容易に想像されるはずである。そして矢についてのさらに古い信仰も見え隠れするが、ともかくその矢を司る神が、『武蔵風土記稿』に書かれた杉山神社の天日鷲命だったと思はれるのである。

 (4) 弓矢を作り始めし神・天日鷲命



 明治神社誌料編纂所の『大日本神名辞書』で、「天日鷲命」の項を見たら、次のやうにあった。
 「天日鷲命 …… 此鳥の羽は古来矢を作るに用ゐらる 此神思ふに弓矢を作り始めやし給ひけん …… 粟国忌部、多米連、天語連、弓削連等の祖也」
 「思ふに」とは編纂者の個人的な考へなのだらうが、「弓矢を作り始めやし給ひけん」との見方が昔から広くあったと見て良いだらう。「弓削連(ゆげのむらじ))」の名もあり、天日鷲命の子孫は忌部氏だけではないこともわかる。弓削氏は古代に弓矢の製造に関った氏族といはれる。忌部氏は中臣氏と並ぶ古代の祭祀氏族であったことから最近の研究者にしばしば取り上げられるのであるが、他の子孫のことを見落としてもいけない。
 この辞典では「天日鷲翔矢命」を別項に掲げ、「天日鷲翔矢命 高魂命の御孫なり 其の後胤に弓削宿禰あり 天日鷲命の別名(姓氏録)とす」ともある。ここからすると神名に「翔矢」の二文字を加へるのは弓削氏だけだったやうだが、現在は徳島県の山崎忌部神社でも「天日鷲翔矢命」の名が見え、混用されてゐるやうで、「翔矢」とあるから弓削氏と見るのも早計である。
 山崎忌部神社の祭神には「由布洲主命」の名もあり、杉山神社の「由布津主命」と似た名ではあるが、杉山神社の場合もただちに忌部氏と見るわけにもいかない。神籬や御神木に添へる由布紙垂を司る神といった一般的な意味なのだらうと思ふ。
 「翔矢」は現在「カケヤ」と慣用的に読まれることもあるやうだが、「翔り」は四段動詞なので『神明辞書』のやうに「カケルヤ」と読むのが本来なのだらう。

 横浜市などにある「杉山神社」の44社のうち、二番めに多い祭神名は、日本武尊で、18社で祀られる。その意味はおそらく、矢を武神にむすびつけた信仰で、かつ武家政権時代よりももっと古い時代からの神といふ意味で、日本武尊の名があるのだらうと思ふ。茅ヶ崎の杉山神社には、源氏や鎌倉幕府からの手厚い崇敬があったといふ伝へがあり、武家にとっての矢の神への信仰心によるものと思ふ。
 ただし矢の信仰が武の信仰となるのは、後代のことで、矢は樹木に対して何かの霊を込めるものだったのだらうと思ふ。

 (5) 高木神

(たかぎのかみ) 〜木と矢と鷹

 茅ヶ崎の杉山神社の祭神には、『新編武蔵風土記稿』では「高御産巣日大神」が最初に記されてゐた。この神は、古事記などでは「高木神」とも書かれる。高木神には、古事記や日本書紀では、高天原から天降って行った神々に天上から指示を与へる物語も多く、戦前の教育などでは「皇祖」として畏敬された神ではある。しかしこの神を祀った神社を全国各地にたどって行くと、やはり素朴な「高い木の神」であるやうなのである。
 前出の「そばたか神社」でも18社のうち半数の9社に「高皇産霊尊」または「高木神」の名が見える。この神社も木と矢の信仰に根差した神であるやうだ。松戸市二ツ木の蘇羽鷹神社では、祭神名に「国常立尊」とあり、「国常立」とは大地に矢を立てた様をイメージした神名のやうにも見える(記紀ではそのやうな意味の神ではないが)。
 青森県鯵ヶ沢町周辺に多い「高倉神社」は、岩木山の麓の神であるが、9社で五十猛命と高皇産霊尊が祀り分けられてゐる。
 新潟県北魚沼郡の守門岳(すもんだけ)の南西の麓(守門村周辺)に多い「守門神社」も同様で、高皇産霊尊とともにこちらでは五十猛命は別名の高倉下命(たかくらじのみこと)の名で祀られる。

 守門岳の神は、北の麓の栃尾市などでは「巣守神社」の名となり、北と南で30社近くの似た名の神社がある。「巣守(すもり)」とは「鷹の古言」であると『地名辞書』(吉田東伍)にある。この鷹も矢の神を意味するのだらうか。あるいは特別な鷹(白い鷹)などが高い木の上に巣を作ったことから御神木と定められたのかもしれない。古事記の「高御産巣日大神」といふ表記には「巣」の文字もあり、そのやうな信仰をうかがはせるものがある。愛媛県の「拝高神社」(祭神・高皇産霊尊)もそれを思はせる神社名である。「はいたか神社」は高知県に多く(13社)、鷹狩で使用された(はいたか)からの命名と思はれる。福岡県にも数社あり(祭神・高皇産霊尊)、隼鷹、速鷹、早高などと書かれる。

 高木神は矢に深い関りのある神であることは、古事記の物語にもある。
 高天原から出雲の国へ降ったまま八年も音信不通の天若日子は、ある日庭先の雉子がうるさいので矢で射ると、その矢は雉のからだを貫いて天上へ飛んで行き、高木神のもとに落ちた。高木神は「天若日子が悪神と勇敢に戦ったときの矢なら、天若日子に当たるな。」などと言ってすぐにその矢を突き返すと、その矢は、天若日子の胸に当たって死んでしまった。これが「還し矢」の本だといふ。(古事記抄訳)

 新潟県の長野県境に近い中魚沼郡(津南村など)には、「矢放神社(やはなちじんじゃ))」といふ神社が15社あり、15社とも高皇産霊尊を祀ってゐる。『山島民譚集』に「越前吉田郡河合村大字河合鷲塚」の「矢放明神」の話があり、大己貴命を祀るといふ。「大昔に丘の上の槻の木に鷲が棲んで敦賀から能登へ行く旅人を害したのをこの神が矢を射て退治せられたとあって境内に鷲塚がある」とある。柳田翁によれば、この話は説明が変化したもので、人が海上から矢を放って神を祭り境界を定めたものだらうといふ。「矢指、矢越」の地名の由来についての部分での話なのだが、槻の木でなければ「矢立杉」の話に持って行っても良いのではと思ふ。
 越前鷲塚の矢放明神とは、今の福井市鷲塚町の鷲塚神社のことだらう。現代の「鷲塚」の名から矢の神を連想するのは間違ひではないのである。富山県小杉町にも鷲塚の地名があり、町の名は「杉」である。「矢放明神」は北陸地方に広がってゐた信仰なのかもしれない。

 高皇産霊尊を祭る神社ではないが、関東と福島県に多い「鷲神社」の中には、鷲の飛来による創祀を伝へるところがある。
 福島市の鷲神社(わしじんじゃ)(祭神・天日鷲命)は、「文永年間(約700年前)の頃、一羽の大鷲が(旧地の)堂石山より飛び立ち、麓の田圃にある桜の木に一旦とまり、周囲をみわたし方向を定め、再び飛び立ち、現在の神社境内の森にとどまった」とある。
 茨城県那珂郡那珂町鴻巣の鷲神社(おほとりじんじゃ)(祭神・天日鷲命)でも、「往昔此の地に一大巨松あり、長さ九十丈毎年一大キョ鳥あり、その上に来り巣う。出入り坤方(西南)より口に一幣帛を含む、土人これを異とす、時に神あり、人に憑いて曰く、武州日鷲神なりと、即ち三度トしてこれを祭祀す、時に大同二年(807)四月十八日と言う。」とある。鷲が御神体となるべき幣帛をくはへて来たといふ。「武州日鷲神」とは、埼玉県鷲宮町の鷲宮神社(祭神・天穂日命ほか)のことだらうか。鷲宮神社を始め埼玉県近辺では、ワシは土師(はにし)の転であるといひ、土師氏の伝承を伝へてゐる。
 鷲によって神木を選んで樹木を祭った社も多かったやうで、鷲が、矢ではなく幣帛をくはへて来たところが解りやすい。鳥が重要なものを運ぶのは、樹木の種を運ぶときもさうであった。社地や神木が定められて後は、農耕などを守護する村の鎮守として祭られるわけである。

 以上を振り返って考へるに、高木神の「高」から鷹の話が付会されたのではないだらうし、古事記に矢の話があるから高木神を矢の神としたといふ単純なものでもないだらう。それらは木の神を中心に矢と鷲・鷹に関連したさまざまの信仰が非常に重層的にからみあったものであるやうである。

 高木神の性格は、矢や鷹に関するものだけではないのだが、それについては後で述べることとする。
 次には、木と矢の信仰について、その古代における姿を少し見て行きたい。(14/12/18)


 続稿  その2 木の下の神話

 ※ 各神社の祭神名は『平成祭データ』(神社本庁)による。これには稀に収録作業上のミスがあるやうで、横浜市港北区茅ヶ崎町の杉山神社については、瀬藤禎祥氏紹介の同神社社記による。
 この「木の神シリーズ」は、瀬藤氏主宰の「神奈備にようこそ」の掲示板への書込がもとになってゐます。貴重な助言をいただいた各位(シリーズの本文中に記載)には感謝申し上げます。