蝉折の笛

珠洲市 須須神社

 桓武平氏のうち高望(たかもち)王系の平清盛は、平氏としては傍流であったので、嫡流の高棟王系の時子を妻にして支配基盤を広げた。時子の弟の平時忠は、壇ノ浦の戦の後は、能登の大谷(珠洲市大谷町)への流罪となった。

 ○白浪の打ち驚かす岩の上に寝いらで松の幾夜経ぬらむ       平時忠

 ここへ都落ちの源義経が、安宅(あたか)の関を越えて船で着いた。義経は時忠の家に一泊し、船出のときには時忠の娘の蕨姫も同船した。船が須須の浦にさしかかると、海が大荒れとなった。義経は須須(すす)の神に祈って難をのがれることができたので、須須の神に蝉折(せみをれ)の笛を奉納した。

 ○うきめをば藻塩とともにかきながし悦びとなるすすの岬は     源義経

 この笛は鳥羽天皇が唐の国王から贈られたもので、源頼政や高倉天皇を経て義経の手に入り、須須神社に今も伝はる。平時忠の子孫が、能登の豪商時国(ときくに)家だといふ。時国家は、鎌倉から江戸時代にかけて多数の北前船を所有して貿易をなし、諸産業を多角経営して繁栄を極めた。