ものぐさ太郎
○まれまれはここに集ひていにしへのあたらし人のごとくはらばへ 釈迢空
むかし梓川のほとりの新村(松本市新村)に、太郎といふ男があり、ものぐさで働くこともせず、ただ道端に寝ころんで人に食べ物を乞うて暮らし、ものぐさ太郎と呼ばれてゐた。
あるとき村に、都から賦役の命令が来た。割当の人数だけ出せばよいので、村の役に立ってゐない太郎が行くことになった。太郎が都できちんと働いたかどうかわからないが、期間が終ったので、信州へ帰ることになった。太郎は賦役の仲間におだてられ、都の女を妻にして帰らうと思った。清水寺の前で、やはり乞食同然の姿でごろごろして道行く人を眺めることにした。そこへ、とある貴族の女房が通りかかった。太郎は突然立ち上がって女房に近寄って手をつかみ、求婚してみた。驚いた女房は、しかし平静を装って歌を詠んだ。
○から竹を杖につきたるものなれば、ふし添ひがたき人を見るかな 女房
太郎はすぐに歌を返した。
○万代の竹のよごとに添ふふしの、などから竹にふしなかるべき 太郎
身なりのわりに、みごとな歌の返しなので意外に思はれたが、女房はとにかく手を離してもらひたいと詠んだ。
○離せかし。あみの糸目の繁ければ、この手を離せ。物語りせむ 女房
この場だけは立ち去りたかったので、女房は住ひを教へた。
○思ふなら訪ひても来ませ。わが宿は、からたちばなの紫の門 女房
そこで太郎が手を離すと、女房は大急ぎで走って逃げた。
その日の夕、太郎は、歌で教へられた紫の門のある家を捜して忍び込んだ。庭にゐる太郎に気づいた女房は、柿など果物を与へれば帰るだらうと山盛りにして差し出すと、太郎は歌を詠んだ。
○津の国の浪花の浦のかきなれば、うらわたらねど、しほはつきけり 太郎
上等の紙の束を与へると、紙に歌を書いてよこした。
○ちはやぶる神を使ひにたび(賜)たるは、吾を社と思ふかや。君 太郎
根負けした女房は、歌の才のある男でもあるし、とうとう部屋に入れてしまった。
風呂に入れてみると、なかなかの美男子であった。何日か作法も学んで、都へ出仕して、帝の前で歌を披露したりもした。
○鴬の濡れたる声の聞こゆるは、梅の花笠もるや春雨 太郎
その後、太郎は、むかし信濃に流された二位の中将の子であることがわかった。歌の才と学問が認められ、信濃の中将に任命された。かの女房を妻として故郷へ帰り、死後は穂高大明神としてまつられた。妻はあさひ大権現としてまつられ、縁結びの神とされた。