古い地図

昨年末に書店で普及価格の地図帳を購入。市町村合併後の地図だった。
現代の日本地図をあらためて眺めてみると、30〜40年前のころとくらべて地形の変った部分がある。
秋田の八郎潟はほとんど干拓され、千葉県の印幡沼も同様で小さくなっている。東京湾も埋め立てが進んで御台場という島もなくなり、大阪湾も同様である。

古い時代の史料をもとに作られた奈良時代以前の地図を見れば、さらに違いが大きい。

大阪平野は、内陸が深い入江となっていて、北方向に半島が伸びて入口は狭い。半島の先端が、大阪城や仁徳天皇の高津宮があったあたりである。入江は古事記では草香江とも呼び、生駒山のふもと近くまであって、そこへ神武天皇が最初に上陸しようとして失敗している。菅原道真は九州下向のときこの海を船で南に進んで道明寺天満宮(藤井寺市)に立ち寄ったという伝承がある、大和川もこの入江に注いでいた。

関東平野では北浦、霞ヶ浦から、印幡沼も含めて、群馬県東部に至るまで、ヤツデの葉を横に引き延ばしたようなかたちの長大な入江のようなものが続いていたらしい。平将門が新都を築こうとした場所はその「水郷地帯」のほぼ中央にあたる。東京湾も埼玉県の浦和あたりまで「浦」だったらしい。在原業平が隅田川で都鳥の歌を詠んだ場所は埼玉県春日部付近だともいう。

大阪湾には、奥州松島のように島がたくさんあったらしく、そこで天皇の八十島祭が行なわれた。しかし平安時代末期には島が陸続きとなってしまったために祭は中止になったという。平安時代中期に最も海面が下がったということだろうか。関東では平将門のあと、熊谷市北部の利根川べりの妻沼の歓喜院という寺の開基は源平時代の斎藤実盛だといい、その時代は川の水量もかなり減って利根川岸にも人が住めるようになったのかもしれない。

名古屋の西の熱田のさらに西にも内湾があったらしく、東海道で桑名までは江戸時代になっても陸路はなく、船で渡った。七里の渡しといったらしい。近世以後も海岸線は後退しつづけているということだろう。
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Comments

S.Takahashi | 2010/07/02 18:48
大阪湾の古地図
曽根崎の東に大和川があったとき

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