彼岸の走り

「彼岸の走り」とは、彼岸明けないし彼岸の最終日のことで、彼岸の墓参りをする日である。「はしりくち」という地方もあるらしい。

しかしネットを調べても、そのような「彼岸の走り」について書いてあるページは、あまりに少ない。春分の日が休日なので、春分の日に墓参りをするのが主流になっているのだろう。

季節の初物などを「はしり」ということはあるが、最後の日をなぜ「走り」というのだろう。広辞苑には、直接の説明はないが、こんなことが書かれてある。

 はしり【走】(3)台所のながし。
 はしり-で【走出】 門口。

「出口」の意味のように思える。
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忠臣蔵と瑶泉院

テレビ東京の正月番組『忠臣蔵・瑶泉院の陰謀』というドラマを、面白く見た。原作は湯川裕光氏の小説で『瑶泉院〜忠臣蔵の首謀者・浅野阿久利』(新潮文庫)とのこと。
浅野内匠頭は辞世を詠む暇がなく、ある僧に作ってもらって瑶泉院に届けられたなど、現代人が納得しやすいリアリティのある筋立ても多く、またユーモアも多く退屈させない。浅野内匠頭はかんしゃく持ちだったとの有力な説を採用しながら、品位を落とすところもない。

浅野内匠頭はその特異な人間性からも御霊となって、浪士の討入りはその鎮魂儀礼であったとか、「忠臣蔵」の上演は、太陽の王の復活のカーニバルとして庶民に受け入れられた、とかいうようなことが丸谷才一『忠臣蔵とは何か』に書かれている。同書では「御霊神のもとの形は若い男神と若い女神とが一対であった」とも書かれ、また太陽神は女神であるという庶民の信仰からすれば、瑶泉院が主役とされたこともうなづける。

大石内蔵助が江戸へ来てからの遊興の相手に、一学と名のる比丘尼(この時代は遊女のこと)がいたことは、考証家の解説本にも載っているが、ドラマでは一学は瑶泉院の妹ということになっていて、容姿はうり二つである。
これも大石内蔵助が垣見五郎兵衛に扮し、堀部安兵衛が剣術指南の長江長左衛門、神崎与五郎は小豆屋善兵衛、などなど、四十七士の全てが町人などに扮して別名を名のることと同様に、不自然とはいえないわけである。
丸谷氏の同書に「大星由良之助の向うには大石内蔵助が透けて見え、顔世御前の面輪はまるで瑶泉院の色っぽい妹のやうだといふ、事実と虚構の二重構造」(講談社文芸文庫版112ページ)という表現が見える。歌舞伎の仮名手本忠臣蔵では、大星由良之助は大石内蔵助になぞらえ、顔世御前は瑶泉院になぞらえた登場人物であるということだが、「まるで瑶泉院の色っぽい妹のやうだ」と丸谷氏が表現した理由は、知識不足のせいか、よくわからない。高師直(吉良上野之介になぞらえる)の顔世御前への横恋慕というのが歌舞伎の虚構なので、史実の瑶泉院との「二重構造」という意味をそのように表現したのだろうか。

人気歌舞伎の要素のようなものを、丸谷氏は忠臣蔵を例に7つ指摘している。
1、社会を縦断する書き方。殿様から足軽や町人まで、奥方様から遊女までが登場
2、二つの時代の重ね合せ。南北朝時代を描きながら上演された江戸時代を描く
3、「実は……」という作劇術。上に述べた垣見五郎兵衛じつは大石など、貴種流離譚
4、儀式性。 勅使饗応に始り切腹、開城などの武家儀式への庶民の関心
5、地理、国ぼめ。 関東と関西、京の遊郭や東海道などが広範囲に描かれる
6、歳時記性。 桜の下の切腹から雪の夜の討入りまで
7、呪術性、御霊信仰 
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新年を迎える和歌

新年を迎える有名な和歌といえば、三つほどが思い浮かぶ。

一つは、元旦の初雪を吉兆としてほめたたえた大伴家持の歌で、万葉集の最後に載っている歌で、因幡の国で詠まれたという。
http://nire.main.jp/rouman/fudoki/41toto02.htm

 新しき年の初めの初春の、今日降る雪のいや頻(し)け。吉言(よごと)  大伴家持

もう一つは、古今集の最初に載る在原元方の歌で、立春が年末に来てしまったというちょっと風変わりな印象の歌。
http://nire.main.jp/sb/log/eid107.html

 年の内に春は来にけり 一とせを 去年(こぞ)とやいはん 今年とやいはん 在原元方

三つ目は、万葉集巻十の詠み人知らずの歌で、新年を迎えて何もかも新たなものとなったのは良いことだが、しかし人間は古い人間のほうが良いものだと詠まれる。

 物皆はあらたまりたり。よしゑ、ただ、人は、古りにし宜しかるべし  万葉集
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忠臣蔵雑談

 忠臣蔵についてのおしゃべりは、話し手も何故か熱がこもり、面白いものがある。
 ところで歴史学者や考証家の話では、江戸時代には、賄賂や悪代官はあまりなかったらしい。田沼意次の事件でさへ微々たるものであったといふ。しかし吉良家が石高は低くも位が高いといふのは、教授料などの収入があったのだらうし、茶道を始め専門知識を尊重して対価を支払ふ文化的な慣習は賄賂ではないのだらう。
 考証家の稲垣史生氏によると、浅野家は勅使饗応役は二度目であり、物価の高騰にもかかはらず前回並みの予算額で行はうとしたといふ。また、松の廊下の事件のあった年の元旦、各藩の江戸登城中に皆既日食があり、大混乱となったが、浅野家だけは科学的に解釈して平然と登城した。浅野家のこのような合理的な解釈は、山鹿素行の学問の影響によるものらしい。
 勅使の接待で重要なのは、贅沢といふのでなく、歌や学問なども重要と思ふが、当時の思想的な対立について調べるのも面白いかもしれない。新しい檀家制度普及初期の宗教的混乱の時代で、殉死の風も色濃かった時代など
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あやめもわかぬ五月雨

「いづれが菖蒲(あやめ)か杜若」とは、すぐれたものどうしが優劣をつけがたいことをいう。

「あやめもわかぬ」も、区別のつけがたいことをいうのだが、この「あやめ」は花のことではなく、筵(むしろ)などの編み目や布の模様のこと(綾目、文目)で、「あやめもわかぬ」は、優劣ということではなく、単にものごとがはっきり見えないこと、分別がつかないことをいう。暗闇でものがよく見えないことにもいう。

 葛城やあやめもわかぬ五月雨  松瀬青々

梅雨の時期の雨で景色も薄暗くてはっきり見えない情景である。しかしやはり花のアヤメにも掛けている句なのだろう。
旧暦5月28日は、曽我兄弟の仇討があった日である。富士の裾野での巻狩を終え、夕べの宴も終るころのことを、文部省唱歌では次のように歌っている。

 「富士の裾野の夜は更けて、宴のどよみ静まりぬ。
  屋形屋形の灯は消えて、あやめもわかぬ五月闇」

こちらは真っ暗で何も見えないような状態だったようだ。

本間祐編『超短編アンソロジー』(ちくま文庫)に、小泉八雲の『狂歌百物語』からの歌が載っていた。

 これやそれとあやめもわかぬ離魂病 いづれをつまと引くぞわづらふ

離魂病とは今でいう夢遊病のことだろうか。妻の顔もわからぬとは記憶喪失でもあるのだろう。

誰だか彼だか顔がわからない夕闇のことを「誰そ彼」の意味で「たそかれ」という。

 五月雨のたそかれ時の月影のおぼろげにやはわれ人を待つ  凡河内躬恒(玉葉集)
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世之介歳時記

好色一代男井原西鶴の『好色一代男』などには、ときどき折々の年中行事や民俗、地方の神々のことも書かれていて、興味深い。江戸時代初期のものだが、そういった庶民の信仰は戦後まもなくのころまでほとんど変わらず続いて来たことのように思える。
それらを本から拾い出して主人公の名をとって『世之介歳時記』としてまとめると面白いと思うが、少しだけ試みてみる。

最初は別の本で『本朝桜陰比事』から。
「昔、京都の町に高家の御吉例を勤める年男があった。毎年12月21日にきまって丹波境の村里から山奥のほうへ分け入って、正月の門松を伐る習わしになっていた。……ここは昔から飾山といって門松を伐るところに決まっていた……」(麻生磯次訳以下同じ)
年末に年男が山から松の木を伐って来て、正月の門松とし、他にも正月の準備をするわけである。

「さすがに元旦の陽ざしは静かにゆったりとして、世に時めく人たちの門には、松の緑も濃く、「物申、物申」という年始客の声が絶えない。手毯もつけば羽根もつく、その羽子板の絵に、夫婦子供の絵のかいてあるのも羨しく、懸想文を買って読む女には男が珍しく思われ、暦の読み初めに「姫始め」とあるのもおもしろい。人の心も浮き立って、昨日の大晦日の苦しかったことも忘れて、今日の一日も暮れてしまう。」

元旦は年始まわりである(初詣は明治以降の習俗)。懸想文とは今でいうと恋占いのおみくじのようなもので、現代もあまり変わっていない。「男が珍しく思われ」とは、まだそんな年頃でもないのにといった意味だろうと思う。

「二日は年越だというので、人に誘われて鞍馬山に出かけた。市原野を行くと、厄払いの声がし、夢違いの獏の札や宝舟などを売る声が聞え、家々では鰯・柊を軒にさし、鬼やらいの豆撒きをして、門口は宵のうちから固くとざしていた。懸金という坂を上って、鞍馬寺の鰐口の紐にすがって鳴らそうとする拍子に、柔かな女の手に触れると、早くも恋の種が芽生え出した。むかし、扇の女房絵を見て恋い慕い、この寺に参籠した男のことや、
 物思へば沢の螢もわが身よりあくがれ出づる玉かとぞ見る
と詠んだ女のことまでも思い出されて、そぞろに心も浮き立った折から、鶏の鳴き声をまねる者があったので、目を覚まして人々はみな帰ることになった。」

旧暦なので新年と節分がほぼ同時に来るわけである。現代では新年の行事と節分の行事ははっきり区別できるが、これを読むと両方がごっちゃになってわかりにくいところもある。初夢の宝船売りは、この時代は節分の行事だったらしい。

「物思へば沢の螢も」の歌は、和泉式部が鞍馬寺の先の貴船神社に参詣したとき詠まれたもので、夫婦の復縁を祈った歌という。

「その年十四の春も過ぎて、衣替えする四月ついたちから、振袖の脇を塞いで詰袖を着ることになったが、もうしばらく振袖姿にしておきたいと、世間の人々から惜しまれたのも、後姿がいかにもよかったからである。
 ……村の子供たちは、麦藁でねじ籠や雨蛙の家などを作って遊んでいる」

「詰め袖」は元服後の成人の服装のことだが、世之介は美少年だったので、少年時代の振袖姿が惜しまれたようだ。
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端午の節句

菖蒲鯉のぼりを上げる風習は、古い記録では江戸時代のものがあるらしい。
中国の伝説で、小さな鯉が竜門というところの滝をのぼると竜になるという、立身出世の物語が、武家に好まれ始め、鯉のぼりとなったともいう。文学や芸能などの新人賞のことを登竜門というが、新人が大きく飛躍する場所のことでもある。

民間では竹竿の先にひれや旗のようなものを付けて軒先に高く掲げるというのがあって、それはかなり古くからのものらしい。田植の前に早乙女たちが忌み篭りをしたしるしなのだもという。また田植えの神を招く依り代だともいう。
いろいろ調べてゆくと面白いもので、5月5日のころは女性に縁の深い行事が多かったようだ。(3月3日の節句のころは子供全般の行事が主である)。

先だって千葉県野田市の古い醤油問屋の屋敷が資料館になっているところを見学してきたが、端午の節句の日に軒下に菖蒲を挿していた写真があった。その土地の年中行事の写真パネルを並べたものの一つなのだが、首都に近い場所で古いものをよく伝えていると思った。土地の主産業(醤油業)が何百年も変わらず続いているということも、伝統保存の好条件なのかもしれない。
軒下の菖蒲については、茎の臭気で邪気をはらうという解説もあったが、菖蒲でお篭りの仮屋を葺いたというのもあった。

 あやめ葺く軒端すずしき夕風に山ほととぎす近く鳴くなり 二条院讃岐
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桜が散る

桜北国をのぞけば日本の桜の時期ももう終りである。
桜は日本人に最も好まれてきた花であるともいえる。「散り際がよい」などという言い方をされることもあったが、そういったことよりも、春の到来を告げる花であり、その一年を占う花、また農耕儀礼などにも深く関わってきた花である。
近世までは、ヤマザクラという品種がもっとも親しまれていたといい、山間部に咲く白っぽい花だったらしい。開化時期には山の色が変化していって花の色で埋まる。そのふもとでの人々の生活があったのだろう。

桜の散る歌ですぐ思い出すのは、百人一首の有名な歌。

 ひさかたの光のどけき春の日に、しづ心なく花の散るらむ  紀友則

しづごころ(静心)とは「しずかな心。おちついた心」(広辞苑)とある。のどかな春の日だというのに、しづ心もなく花は散るのだろうという。
乱れる恋心を詠んだようにもとれるし、自分のところに落ち着かずに離れていってしまう相手のことを詠んだようにもとれる。
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3月18日の命日

旧暦3月18日は、柿本人麻呂、和泉式部、小野小町の3人の命日であるといわれる。和歌に秀で、庶民にも人気のある3人が同じ命日の伝説をもっている。中西進氏によれば、桜の散るころの意味だろうという。桜の散るころが季節の重要な節目であって、季節がよみがえり、そのことに歌が深く関わってくるものなのだろうと想像できる。
旧暦の3月は早ければ彼岸の中日の翌日から始まるので、18日ごろが桜の散るころになることもあるのだろう。

西行法師の命日は2月16日といわれるが、有名な歌がある。

 願はくは花のもとにて春死なむ その如月の望月のころ  西行

如月の望月・つまり旧2月15日ごろに桜が見られ、そのころが自分の死ぬときだという。15日は釈迦の命日で、西行は1日遅れ。伝説も釈迦に遠慮したのだろう。旧暦2月15日は、遅ければ新暦4月上旬ごろにずれこむこともあるので、桜が咲くころである。

2月15日ごろに桜が咲き、3月18日ごろ桜が散る、というのはもちろん同じ年の出来事について言っているわけではない。何か釈然としない部分もあるが、要するに、日本人は、人の死と桜について深い連想を抱き続けてきたのだろう。
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如月(きさらぎ)

春は名のみの風の寒さや、という唱歌の通りの昨日今日の気候である。

二月を、きさらぎといい、寒いので着物を着た上に更に着るから「衣更着(きさらぎ)」というのだなどという語源説もあるくらいだが、旧暦の二月は春分の前後をいうので、二月が寒いというのでは明治以後の語源説なのだろう。ほかの語源説では、芽の伸び始めで「生更ぎ(きさらぎ)」の意味というほうが、より説得力はある。広辞苑でも

  「生更ぎ」の意。草木の更生することをいう。着物をさらに重ね着る意とするのは誤

とある。大野晋氏の執筆と思われる。
「如月」と書くが、「如」の意味を小型の漢和辞典で調べたが、なぜそう書くのかはわからなかった。
「更」は改めるという意味であって、「着た上に更に」ということではないのだろう。

「如月の仏の縁」「更衣(きさらぎ)の別れ」という言葉もあり、如月は仏様に縁があるようである。
「鞍馬天狗」を書いた大仏次郎(おさらぎじろう)という作家は、天文学者の野尻泡影と兄弟だが、仏のことを「さらぎ」ともいったようなのだが、二月には涅槃会などの仏の重要な行事があったためなのかどうか。あるいは一説に「さらぎ」は仏に供物を供える容器の意味の古語でそれが転じて仏の意味になったともいうが、どうなのだろう。

次の歌二首は、春の陽気の二月と、まだ寒い二月を歌っている。

 ながめやる よもの山辺も 咲く花の にほひにかすむ 二月の空  近衛基平
 二月や なほ風さむき 袖のうへに 雪ませにちる 梅の初花    後宇多院
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