伊邪那美命(いざなみのみこと)

伊邪那美命伊邪那美命(いざなみのみこと)は、夫の神の伊邪那岐命(いざなきのみこと)とともに、国土やさまざまの自然の神々を産み、万物を産んだ神である。
最後に産んだのが、それら万物を焼き尽くすかのような火の神・迦具土神(かぐつちのかみ)であるが、そのために身を焼かれて死者の国である黄泉国(よみのくに)へ去り、以後は黄泉大神(よもつおほかみ)とも呼ばれた。日本の神話抄1
万物を産み、また死と再生をもつかさどる神だといえる。

延喜式鎮火祭祝詞によると、地上に残してきた火の神の災いを防ぐための方法を教えた神でもある。火の神との関係のエピソードが多く、火の神の母神である。
夫の伊邪那岐命は黄泉国を訪れたが、じゅうぶんな再会をはたすことかできず、死の国の穢れを清めるために、禊(みそぎ)をすることになる。

原初の生産をなした母神として、多くの神社で祭られている。生産と豊穣をもたらす神であるといえる。とりわけ熊野神社などでは再生のイメージが強いかもしれない。火の神の母神という点ではアイヌのハルニレヒメと似ていなくもない。

以下は、いろは47文字を使用した歌のようなもの。須佐之男命の詩のページにもいろはうたを載せた。
 ちはやぶる 黄泉ついざなみ 
 遅悪子(おそわろこ) 在らせ終へ得
 めのほとに 受けし傷ゆゑ 
 隠れ居て 眠りたまひぬ
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木地師の祖神、惟喬親王

平安時代の初め、文徳天皇の第一皇子の惟喬親王(これたかしんのう)は、母は紀氏でしたが、即位することはありませんでした。清和天皇が九歳で即位され、外祖父の藤原良房が人臣初の摂政となった時代です。
親王は太宰帥などの地方官を歴任し、貞観十四年(782)、二十八歳で出家して、比叡山の麓の小野の里に住んだといいます。

  桜花、散らば散らなむ。散らずとて、ふる里びとの来ても見なくに  惟喬親王

伝説では、親王は近江国の君ケ畑などに住み、老木からお椀などを作ることを考案され、轆轤挽(ろくろびき)の方法を考案しました。その技法は木地師に受け継がれ、そこから木地師は全国にちらばって木地製品を広めたのだといいます。親王は木地師たちに祖神として崇められ、掛け物にも描かれます。

お椀のほか、こま、盆、こけしなども、木地師が木を回転させながら削って作ったものです。
木地玩具
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瓦職人と稲荷の神

瓦職人がまつった神は稲荷様ではないかと、ある理由で予想を立て、ネット検索を試みたら、あっさり京都の伏見稲荷にまつわる解説ページに行き当たりました。
伏見稲荷というより、伏見人形についてのページです。

各地の郷土玩具として有名な焼物の土人形は、どれも瓦職人が作ったもので、それらの元となったのが伏見人形だということです。

豊臣秀吉が伏見城を築城するにあたって、瓦職人を伏見稲荷のある深草の地に集めて瓦を焼き、そのときの瓦職人が手遊びで作ったものともいいます。
あるいは古くから伏見稲荷の土を持って帰って田畑にまけば稔りが良くなるという土への素朴な信仰があって、土のかたまりが売られるようになり、だんだん土人形になっていったともいいます。狐をはじめいろんな動物の人形も売られました。

 西行も牛もおやまも何もかも 土に化けたる伏見街道  一休禅師

雄略天皇のころ、食器に使う焼き物を諸国に住む土師部から献上させ、伏見に住んでいた土師部も献上したと日本書紀にあります。土師部は古代の埴輪や土器を作った部民で、伏見にも住んでいたわけです。秦氏が伏見に稲荷社を祀る以前のずっと昔の話です。
深草には、瓦町、砥粉山町、開土町などの地名があります。

伏見人形の歴史 伏見稲荷訪問記 伏見人形のお店
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鍛冶屋の神

鉄製品の生産は、近代の工業化以前は、おもに鍛冶屋職人たちの仕事でした。
大きな都市には今でも鍛冶屋町、鍛冶町という地名が残っていますが、どこも鍛冶屋職人たちの多かった町です。江戸では神田周辺に鍛冶町、神田鍋町があり、近くの岩本町に金山神社があるようです。鍛冶職・金工職人・金物商などが祭った神であり、埼玉県川口市の鋳物業者たちも金山神をまつると聞きます。

しかし長沢利明氏の『金山神社のふいご祭り』によると、岩本町の金山神社は戦後にできたものであって、江戸の鍛冶職人たちはもっぱら稲荷神をまつったといいます。
旧暦11月8日の「ふいご祭り」は「いなりふいご祭り」と呼ばれていました。
ふいご祭は、ミカンを投げて子供たちが拾うことで知られますが、「ほたけ、ほたけ」というかけ声で囃すといいます。

「みちのくの鉄」というサイトによると、近畿中国地方でも鍛冶の神は稲荷神だったようです。
また、火の神である三方荒神を祀る職人たちもあり、金屋子神のばあいもあります。柳田国男以来「金屋子神は古い八幡神と共通するので、もともとは八幡信仰であった」という見方になっているようです。

金山神を描いた掛け軸の画像が次のところで見られます。
http://www.city.mishima.shizuoka.jp/kyoudo/kyoudo/kobako/050_99/kobako60_.htm
「憤怒の形相の3つの頭、6本の手には刀剣を2本、斧、弓矢、宝珠を持ち、雲に乗って睨みをきかす明王形の像」と表現されています。
江戸時代末には沼津地方の鍛冶職は金山神を祀っていたようで、金山神は東海道を経由して東京に入ったのかもしれません。川崎市の若宮八幡宮の末社・金山神社の「かなまら祭」は、神社公式HPには遊女の病気平癒祈願から始まったと書かれますが、当時の鍛冶職のことは不明です。

以上、鍛冶職たちがまつった神の名前をピックアップしてみました。
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油と八幡宮

京都府乙訓郡大山崎町にある離宮八幡宮は、通称「山崎八幡宮」ともいい、平安時代末以降、京都へ油を流通させる拠点の「油座」という組織があったそうです。石清水八幡宮の配下の人たちらしいですが、独占的な権利を得て、諸国の油業者たちから税をとりたて、油の製造と流通を支配したそうです。(山崎の油

  宵ごとに都に出づる油売り、ふけてのみ見る山崎の月       職人尽歌合

油屋の人たちは八幡様をまつっていたということなのでしょう。

さて、そこで、全国に「油」の文字がつく地名に鎮座する八幡社を調べると25社あります。油の地名で八幡社でないものを含めた全体が118社ですから21%です。これは全国の神社に占める八幡社の割合が11%であることと比較して、やはり多いといえます。

広島県神石郡油木町には、9社のうち、「亀鶴山八幡神社」「鶴山八幡神社」「大仙山八幡神社」、単に「八幡神社」と称する3社、以上6社の八幡様があります。
山口県大津郡油谷町には、12社のうち、「河原八幡宮」「久冨八幡宮」「八幡人丸神社」「蔵小田八幡宮」「伊上八幡宮」「向津具八幡宮」の6社があります。
その他にも多いのですが、やはりこれは偶然というべきものではないのでしょう。

さらに、全国の「山崎」という地名のところにも、「八幡神社」が多いように思ったのですが、それほど多い比率ではありませんでした。
しかし香川県高松市西山崎町の八幡神社の由緒には「昔城州山崎より勸請せしものと傅へられ、依って地名をも山崎と云ふ。」とありますので、もっと探してみても良いかもしれません。
このテーマは、もっと詳しく調べてみても良いテーマです。興味のある人はやってみてください。
日本植物油協会、油にまつわる神仏
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須佐之男の詩

須佐之男命2筆者がだいぶ昔に書いた、須佐之男命についての4行の詩のようなものです。

剣太刀 身に添ひかねて
常世へ 乳母(おも)今失せぬ
童(わらし)ゆゑ 紅浴むや
葬(はふ)りけめ 吠えろ須佐之男

文語と口語が混じって妙な表現が目立つのは、「いろは」の47文字を一つづつだけ使って綴ったいろはうたとしたために、無理が出てしまった部分です。
剣太刀は枕詞。乳母とは母の伊邪那美命のことで実際は常世ではなく黄泉国(よみのくに)へ去りました。
ひらがなだけで書くと次のようになります。

つるぎたち みにそひかねて
とこよへ おもいまうせぬ 
わらしゆゑ くれなゐあむや
はふりけめ ほえろすさのを

画像は大蘇芳年の「大日本名将鑑表」の一枚。
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日本の神ランキング

ランキングというと語弊があるかもしれませんが、日本の神社の御祭神のうち、多くの数がまつられている上位の25柱の神を「平成祭データ」で調べてみました。

{1}誉田別尊(ほんだわけのみこと) 十五代応神天皇。全国に一番多い八幡神社の神。
{2}須佐之男命(すさのをのみこと) 熊野神社、八坂神社、氷川神社、津島神社。
{3}天照大神(あまてらすおほみかみ) 神明社など、伊勢神宮の神さま。
{4}倉稲魂神(うかのみたまのかみ) 稲荷神社の神。神社名では稲荷神社は2位。
{5}大国主神(おほくにぬしのかみ) 出雲大社。資料では大物主命と同一なので金刀比羅神社。

{6}菅原道真(すがはらのみちざね) 天神社、天満宮。学問の神、雷神。
{7}大山祇神(おほやまつみのかみ) 三島神社、山神社。
{8}伊邪那美命(いざなみのみこと)  熊野那智神社。熊野神社、白山神社
{9}迦具土神(かぐつちのかみ)火産霊命(ほむすびのみこと) 愛宕神社、秋葉神社、荒神社
{10}建御名方命(たけみなかたのみこと) 諏訪神社

{11}伊弉諾命(いざなきのみこと) 多賀神社、白山神社、熊野神社
{12}神功皇后(じんくうこうごう) 宇佐神宮、八幡神社、住吉神社
{13}市杵島姫(いちきしまひめ) 弁天さま。厳島神社、宗像神社
{14}事代主神(ことしろぬしのかみ) 三島神社、美保神社、恵比須神社、蛭子神社
{15}少彦名命(すくなひこなのみこと) 少彦名神社、温泉神社、薬師神社、淡島神社

{16}猿田彦神(さるたひこのかみ) 猿田彦神社、白髭神社
{17}豊受姫命(とようけひめのみこと) 豊受大神宮(伊勢)、神明社、稲荷神社
{18}天児屋根命(あめのこやねのみこと) 春日神社
{19}保食神(うけもちのかみ) 駒形神社、稲荷神社、
{20}大山咋神(おほやまくひのかみ) 日枝神社、日吉神社、山王神社

{21}白山姫・菊理姫(しらやまひめ、きくりひめ) 白山比売神社、白山神社
{22}武甕槌命(たけみかづちのみこと) 鹿島神宮、鹿島神社、春日神社
{23}罔象女神(みつはのめのかみ) 水神社 貴船神社
{24}木花開耶姫(このはなのさくやひめ) 浅間神社
{25}経津主神(ふつぬしのかみ) 香取神宮。春日神社

そのほか28位に日本武尊(やまとたけるのみこと)が入ります。
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天神さま、菅原道真

11歳の菅原道真各地の天神社や天満宮で、学問の神として祭られる菅原道真も、現代日本を代表する神の一柱です。
平安時代の中ごろ、学者の家柄としては異例の出世をとげて右大臣にまでのぼったのですが、延喜元年(901)、讒言によって九州太宰府へ左遷されたことで知られます。
九州への旅が決まって自宅で梅の花を詠んだ歌も有名です。
  東風(こち)吹かば匂ひおこせよ。梅の花。あるじなしとて春な忘れそ

京都から船で宇治川を下って瀬戸内海を通って行ったのでしょうが、途中で各地に伝説を残し、各地に祭られる天神社の由来となっています。片道の旅にしては考えられないほど広範囲に伝説が語り伝えられますが、後の天神信仰の隆盛をものがたっているということなのでしょう。

道真は2年後に九州で没しました。その後、道真の霊は雷神となって都周辺に祟りをおこしたといわれ、数十年後には政治的にも復権され、北野天神にもまつられました。
学問・詩文の神とされ、室町時代の禅僧によっては、彼は天満天神となって渡唐し、径山(きんざん)の無準(ぶしゆん)禅師のもとで修行したことにもなりました。

江戸時代には、寺子屋でも天神さまは祭られ、村々の新年の寄り合いなどでも天神さまの掛け軸の前で「歌いぞめ」が行われました。日本では読み書きの両方ができないという人は少ないくらいでした。
けれど、それだけで全国に数千の天神社・天満宮が祭られたというわけでもなく、もともとは雷神としてまつられた「天神社」も多かったらしいということです。そういう天神社では後に菅原道真も合わせまつられるようになったようです。

雷が落ちそうなときは、「クワバラクワバラ」と言うのは、雷除けのおまじないの呪文で、近江国のクワバラという所に菅原道真の領地があったことに由来する、という説明もあります。
画像は11歳で漢詩を詠んだという少年時代の道真を描いたもの
★トラックバック先 http://blog.zaq.ne.jp/randokku/article/282/(座乱読後乱駄夢人名事典・菅原道真)
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木花之佐久夜毘売

木花開耶姫コノハナノサクヤビメ
日向の高千穂の峰に天降った瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は、天照大神(あまてらすおほみかみ)の孫にあたる。
瓊瓊杵尊が、后として迎えたのは、山の神・大山祇神(おほやまつみのかみ)の二人娘のうち、容姿の醜い姉の磐長姫(いはながひめ)ではなく、美しい妹の木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)だった。天皇の生命が木の花のようにはかなく短いのはこのためだという。

姫は一夜で懐妊し、お産のために産屋に入った。
瓊瓊杵尊が生まれる子がわが子であることを疑ったので、姫は産屋に火をつけて占った。
火照命(ほでりのみこと)(海幸彦)、火須勢理命(ほすせりのみこと)、火遠理命(ほをりのみこと)(山幸彦)の三人が無事に生まれた。
海幸彦と山幸彦は童話でも知られる神で、海幸彦は隼人(はやと)阿多君(あたのきみ)の祖とされる。木花之佐久夜毘売の別名がアタツヒメというのも、薩摩国の阿多郡に由来するのだろう。
山幸彦の孫が神武天皇である。

以上は古事記の話だが、日本書紀の一書によると、瓊瓊杵尊が笠狭(かささ)の岬に到ると、「秀(ほ)立つる浪穂の上に、八尋殿(やひろどの)を建てて、手玉(ただま)ももゆらに、機(はた)を織る」少女があり、それが木花開耶姫(このはなのさくやびめ)である。棚機伝説に近いものがあり、一夜での懐妊といい、「聖婚」を物語る説話であることにちがいはない。

木花之佐久夜毘売は、のちに、安産の神とされ、美しい火の山・富士山の神として浅間神社にまつられる。近世には江戸を中心に富士講が栄え、養蚕守護の神ともされ、男女平等的な思潮を含むものでもあった。
「花」とは桜の花のことで、姫が富士山の頂上から種をまいたので日本中が桜で賑わうという話もある。
富士山の説話では、かぐや姫に類似した話も伝わっている。
画像は深谷市の浅間神社の木花開耶姫命の"お姿"。
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須佐之男命

須佐之男命
須佐之男命(スサノヲノミコト、スサノオ)という神は、稲荷神社や八幡神社の神とならんで、もっとも日本を代表する神の一つである。
ただし須佐之男命を祭る神社の名前は、種類が多く、全国的に多いのは熊野神社や八坂神社である。関東の氷川神社や東海地方の津島神社でも祭られる。そのほか須賀神社、須佐之男神社、八雲神社などがある。それらを合計すれば、稲荷様や八幡様の数に匹敵するほど、日本の代表的な神である。

中国地方や兵庫県や四国北部では、荒神社(こうじんしゃ)という名の神社でも祭られ、その数は約200社、氷川神社や津島神社の数にも匹敵するほどの数である。
荒神様は、全国的には竃の神として家の中に祭られることが多く、火の神であり家の守り神であり、また作物を守る神とされる。
しかし中国地方では、家の母屋の外の屋敷内に祭られたり、一族に共同で祭られたり、地域の氏神として祭られる。その点では関東などの稲荷様にも似ている。「○○荒神」という名で親しみをこめて祭られることも多く、山口県には三年寝太郎を祭った寝太郎荒神もある。また牛馬の守護神としても祭られる。

荒神社に須佐之男命が祭られるのは、「荒れる神」というよりも、庶民生活の長い歴史の中で最も親しみのある神だからなのだろう。
須佐之男命は、雨の中を蓑笠姿で諸国を歩き、庶民の家を訪れては豊穣を約束してくれる神という伝承がある。備後国風土記逸文によれば、訪れた先で疫病除けの呪法として茅の輪の方法を教えてくれた神でもある。

中国四国地方に200社もある荒神社だが、どれも規模が小さい神社のようで、それぞれの由緒書を入手することができない。里神楽に多い「五郎王子」の話が参考になるというが、まだよく検討していない。
広島の神楽というサイトに五行祭の話がある。

須佐之男命には、古事記などでは、乱暴者で天照大神を困らせた話、八俣の大蛇を退治した話(図版参照、大蘇芳年の絵)があるが、別の機会に述べる。
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