音楽脳

秋の夜に聴く虫の声は、日本人にとっては耳に心地良いものだが、西洋人にとっては雑音にしか聞えないという話は、一般にも知られていると思う。
角田忠信氏によると、人の左脳と右脳の使い方が、日本人と西欧人で異なることが原因で、そうなるらしい。
人間の脳は、左脳と右脳で役割が異なり、左脳は、おもに言語や計算を担当し、言語脳ともいう、右脳は言語以外の音楽や自然音、雑音などを担当するので非言語脳または音楽脳ということがある。
では、言葉と音楽と、両方が混ざった音は、どうなるかというと、言語が優位になるので、言語脳(左脳)だけで処理されるという。このとき言語脳は雑音を選り分けしながら処理するので、疲労感が残るのだとか。、

鳥の声や虫の声は、どちらの脳が受け持つかというと、西欧人にとっては自然音なので右脳。日本人は言語と同じように左脳になる、という大きな違いがあるそうだ。日本人が鳥や虫の声に情緒を感じるのは、言語と同じ左脳処理が原因ではないかというのである。(右脳・芸術脳でなく)
室内でオーケストラの器楽曲の音楽を聞きながら、窓の外から鳥の声が聞えたりすると、聴衆はなぜか音楽に集中できなくなっていた、という音楽評論家の吉田秀和の著書からの紹介がある。これも、日本人は鳥の声も人間の声も同じように聞くためだという。

以上は、角田忠信著『日本人の脳』という本からのごく一部が『エッセイおとなの時間・遊びなのか学問か』(新潮社)に掲載され、それを読んで感心したわけである。これらは、10歳くらいまでに日本語を母国語として習得した人に当てはまるという。
そこで同書を取り寄せて他の部分も読んでみた。

 中国人や朝鮮人は、西洋人と同様であり、日本人やポリネシア人など世界でもごく一部だけでだけがそのような耳ををもつらしい。

日本人は、鳥や動物の声の他に、川のせせらぎの音、風の音も、左脳で聞くというから、情緒を込めて聞いているわけである。

さらに日本の笛や三味線などの和楽器の音も、左脳が優位になるという。洋楽器は右脳。
西洋人は、人の声のハミング、母音を伸ばした声なども、右脳が優位だが、日本人は左脳だという。
匂いについても、西洋人なら右脳優位だが、日本人なら左脳になるものに、花、果物、化粧品の匂い。タバコや焼け焦げの匂い、体臭などの悪臭、などがある。

著者は、日本人は左脳を使いすぎるので、もっと右脳を使うべきで、クラシック音楽の器楽曲などが良いなどの提案している。
ただし匂いのある「タバコは想像活動を阻害する」というのだが、左脳優位がいけないというのなら、花の香も、水のせせらぎも、鳥の声も、日本的な花鳥風月に関する全て排除せよということになり、このタバコ排除の提案は間違いだろう。

ところで、日本人全てがこの傾向にあるのではなく、7%は左右が逆であり、22%は左脳右脳どちらかの優位をはっきり示さないという。残りの70%ちょっとについてだけ該当するのがこの話らしい。これでは、自分はそのうちのどれに該当するのだろうかという話になってくる。右脳の活用も良いが、70%に入らない小数派の日本人を尊重すべきだという考えもありうると思う。

とはいえ、日本語や音楽の研究にとっては、これらは重要な発見であろう。
西洋人が、言葉の子音と短母音だけを左脳優位で認識するのは、強弱アクセントと関係があるのではないだろうか。強弱アクセントは間違えば意味が通じないので注意して聞くと思うが、長母音はいくら長く伸ばしても意味は変らないので右脳でよいということかもしれない。

日本語では音の強弱には意味はない。音の高低についても、たとえば「ムギ、ハタケ」と言う音の高低は「ムギバタケ」と続けて言うときに変わってしまう。日本語では音の高低を間違ってもかなり通じるだろう。かなで書くと同じになる箸と橋の間違いは通じにくいだろうが、文脈からの類推で通じることもある。それは言葉の全てを注意をはらいながら左脳で聞いているからということになる。

日本の歌謡曲では、長母音の途中で強弱等をつけるコブシという唱法があるが、日本語の強弱には言語的な意味はないために歌い手の気分で自由にできるのだろう。長音の途中でビブラートを強める日本人歌手も少なくない。しかし音の途中で強弱が入ると別の音の始りかと感じてしまうせいか、非常に聞きづらく思う今日このごろである。
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右脳と左脳と電話の受話器

 雑談のような話、
 角田忠信という人の本を読んでいたら、座談会が掲載され、右脳と左脳の役割の違いについて、湯川秀樹博士の面白い発言があった。左脳は言語を処理するわけだから、電話の受話器を右で持つのもうなづける、といった内容の発言。……受話器は右手で持つのが世の中の常識だと思っていらっしゃるようで、不思議な感覚をおぼえた。天才的な頭脳というのは、生活じみた話については鷹揚なのであろうか。それともユーモアであろうか。

 左脳は、言語機能を処理するとされ、からだの右半身をコントロールするのも左脳だとされる。右半身にある右耳は、左脳と直結していることになる。

 ところで、普通は、電話の受話器は、左手で持つ人が多いと思うのである。(右利きなら)右手でダイヤルやプッシュボタンを操作し、右手でメモをとる。したがって受話器は、左手で取り上げやすいように、コードなども左側に作られているのだと思う。
 まれに、右の肩とあごの間に受話器を挟んで右手でメモをとる人もいるらしい。何でも右というのは、極端な右利きなのだろう。中には、水道の蛇口も、コップも、歯ブラシもすべて右手で操作する人もいるのかもしれない。

 受話器を左手で取り、右手でダイヤルを操作する。ここまでは普通ではなかろうか。その後に受話器を右手に持ち替えて会話し、そのまま右手で受話器を戻すと、受話器のコードは一回転する。それを繰り返していると、コードがよじれて、こんがらがってくる。公衆電話の利用が多かった時代には、よくコードのこんがらがっているものを見かけたものだった。我が家の電話も、ときどきコードがこんがらがった状態のときがあったので、よく巻き戻しておいたのは自分だった。

 さて冒頭の話。言語は左脳で処理されるので、右耳で聞くほうが良いのだろうか。
 文字についていえば、右目で視認したほうが良いというふうにはならないのではないか。両目で見た2つの映像は、脳で合成されて1つの映像として知覚され、その後に文字として認識されるのではないかと思う。
 耳については、目よりは右左が離れているが、左右の耳の聴覚の連係については、わからない。
しかし、それほど人生にとって重要な問題でもないと思うので、文献を調べてみようとは、今のところは考えていない。
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蝦夷とは

平凡社の『日本残酷物語』にある話で、豊臣秀吉の朝鮮出兵のときに、出陣した南九州の武将が、郷里の幼い娘とやりとりした手紙が残っているそうで、お土産として若い女の捕虜を連れて帰るから、楽しみにしていなさいだとか、子供の遊び相手になるので、子供が寂しがることもなくなるだろうとか、そんな話のことが書かれてあったのが、ずっと気になっている。
勝ったときの捕虜は、戦利品に当たるのだろうか。それとも和平協定となったときの人質のようなものか、あるいは戦争でなくても友好のしるしに奴婢などを交換するような文化交流ないし儀礼なのだろうか。

『蝦夷』(高橋崇著、中公新書)によると、大和政権側の記録では、東北地方の蝦夷を「征討」したときに、かなりの人数を関東以西の地域に集団移動させたという。そういう蝦夷のことを俘囚とか夷俘とか呼んだ。郡郷制で俘囚郷という郷のある郡も少なくない。そういう地域には税の免除や経済助成などの待遇の記録があるという。俘囚という漢字表記ではあるが、普通の文化交流という可能性もある。
渡来人の子孫たちを集団移動させたというのは、蝦夷の集団移動とどう違うのかという問題もある。

万葉時代には東国から防人が徴集されたが、防人の歌をみれば、強制連行といったものでないことはわかる。
西方の防衛を東国が担当したというのは、連合国家を形成する小国がそれを分担したということではなかろうか。
連合国家というのは、邪馬台国がそうであったような、邪馬台国のような連合かその名残りを色濃く残した連合ということになる。それ自体は東国の一方的な服従というわけでもあるまい。服従した者たちに軍事を任せても安心だったのだろうから。
軍事を担当する東国には、半島からの俘囚を連れて帰ることも多かったろう。逆にこちらから渡ったものたちもあったろう。

前掲の『蝦夷』によると、中国では、徳の高い皇帝は、周辺の無知で野蛮な民族ですら皇帝を仰ぎ見て朝貢するのだという思想があり、皇帝や大王の徳が高いことを証明するためには周辺の蛮族の存在が不可欠になる、という論理らしい。日本の蝦夷や隼人も、そのためだけに存在したらしいが、狭い日本では、異民族でもない者が帰属してしまったらすぐに同化してしまうので、何代かは蝦夷などの呼称は外されなかったということらしい。何代経ても渡来人と呼んだ例も、その影響であろうか。

同書で気になっているのは、服従した蝦夷たちの名前に、氏と名が記録されていることで、上代なので姓と呼ぶものではないと思うが、要するに苗字である。蝦夷たちは本当に苗字を名のったのか、苗字があったのだろうかという問題なのだが、なかった可能性が大きいのではなかろうか。政権側の文書の書式のために、その場で地名などから作ったのかもしれないのだが、そのときの苗字で今も残っているものがあるのかどうかは、調べればすぐわかるのだろうけれど。
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「ちかと」の神、「ちかつ」の神

「ちかと」の神、「ちかつ」の神

東日本の、福島県から長野・静岡県までに多い「ちかと」「ちかつ」「ちかた」という名の神について、長くはないがまとめの一文を昨秋に書いた。
表記は、ちかとは、近戸・千鹿頭など、ちかつは近津・千勝など、ちかたは知形・千方などがある。

「ちかと」の意味は、「ちか」は白鳥などの大型の渡り鳥、「と」は所であり、白鳥の飛来地」などの意味だったが、そこが河川交通の要所となり、湊や津となって神が祀られたのが最初であろう。近都牧などでは武士団も常駐した。ちか(近)が鳥の意味であることは、今は北海道の地名解説などによく出てくる。

一文を書いたときに、新たに気づいたことは、「ちかと、ちかつ」の、トとツの発音の違いについてである。ト(O音)とツ(U音)では、ツのほうが口を開かずすぼめて発音する。口をあまり開かない発音は東北地方などに多いわけだが、福島県や栃木県や茨城県、旧常陸国の範囲では、チカツであり、他はほとんど確認されてないと思う。チカトとチカツの違いは、方言の違いであると断定できる。

問題はチカタであり、これは埼玉県北部、本庄市から羽生市にかけて確認されるが、県西部、秩父郡に近戸の地名があり比企郡西部に近戸明神があり、チカタはごく限られた地域だけに見られるようである。理由は不明だが、一つ考えられるのは、○○明神から○○大明神と呼ばれるようになると、後に続く母音に連られ、ト(O)〜ミョ(O)からタ(A)〜ダィ(Ai)となることがあり、国語学でいう母音調和のようなものである。昔の呼び方の例が多く収集されれば裏づけになるかもしれない。

以下に一文を載せる。

川辺の神、近戸の神



 段丘地形のことではなかった話。
 秩父市の中心部あたりから西の荒川べりに、近戸(ちかと)町というところがあり、桜橋のかかっている所である。
 地名に近(ちか)をふくむ場所は、ある程度の規模の川の端ばかり目立ったので、最初は河川段丘に由来するかと思ったのだが、調べていくと、そうではないようだ。
 チカは北海道に多くて、岩手県には近内(ちかない)というところがある。東北の地名の内(ない)とは、アイヌ語系で沢とか小さめの川のことで、それは地名に少し詳しい人なら知っている。ではチカは何かというと、アイヌ語辞典にある白鳥などの大型の白っぽい渡り鳥のことらしいということになった。当時は北海道の地名解説は読んでいなかったが、だいぶあとで読むとやはりそうなっていた。
 最初はいちおう仮説として、チカトは「白鳥の飛来地」の意味であるとしてみた。

 チカの地名は全国的に広範囲にあり、近松の近が鶴の意味だとしたら、近松は鶴と松、花札の絵柄のようで出来すぎの感があるが、茨城県の千勝(ちかつ)神社には鶴に乗って猿田彦が空から降りて来たという神社もある。群馬県の近戸神社、東関東と福島県の近津(ちかつ)神社や千勝神社も同じだろうということになった。トとツの違いは、ツのほうが口をすぼめて発音するからで、東北や茨城・栃木訛りの発音である。東関東のなかで千葉県にはこういう名の神社が見つからないと書いて公表したら、どこそこにあるという情報が来て、手賀沼の北岸にあり、すぐ近くになんと山階鳥類研究所がある所だった。チカの意味はこれで間違いないということになった。
 白鳥の飛来地に神を祀ったのが最初だろう。ペリカン便ではないが、河川交通の要所といった感もある。ある人の指摘に、中世に大阪京都の淀川の要所に近都牧というのが多数あり、船を引く馬を確保しておくための牧であり、船の中継基地でもあったという。「近都」の読み方は不明で歴史学者は仮にキントと読んでいるとのこと、チカツ、チカトとも読めるわけである。そして馬泥棒から守るために武士団が常駐するようになったという。
 柳田国男は、近戸とは、城に近い所、城の搦(から)め手のことで、近戸の神とは城の搦め手の神のことだと書いていることがわかった。搦め手は、堀を通って船が城に横づけされる場所であり、河川交通の起点と終点であるが、柳田の説明は、深谷城の知形(ちかた)明神にぴったり当てはまる。チカタがチカトの転とすれば、タはトよりも口を大きくあける違いである。埼玉県では北葛飾方面にチカツという神がいくつかあるが、他はチカタ(千形、千方)である。長野県では千鹿頭(ちかと)神という。群馬県の大胡(おおご)城の裏の大胡神社は、近戸明神とも呼ばれて、深谷城と同様に城の守護神である。近戸の神と武士団との縁は、すでに近都牧のころからあってのことなのだろう。
 しかしチカトやチカタは、特定の祭神の別名ではなく、場所の呼び名、または地名である。あるいは「近戸の神」と言うときは「城や館の守護神」という意味の普通名詞のように使われることもあったようだ。大胡神社には、ある時期に城主が崇敬する赤城の神を近戸明神と併せ祀るようになったとする文書があるが、となると近戸の神は格上の赤城の神を護衛する性格も付与される。関東周辺のチカト、チカツ、チカタの神の祭神名は一様ではないが、全体を俯瞰して見ると、赤城神クラスの地方の有力神か、護衛神的な神ないし道案内の神(猿田彦など)であるか、またはその両方であることがほとんどである。護衛神のなかには天孫降臨のときの天孫に伴随した神も含まれ、天孫をも併せ祀ったと見られる例もある。
 そして戦国の世を経て武士がいなくなった地域では、付近の住民が鎮守として祀るようにもなるのだろう。
(右のチカツ、チカト、チカタの説は最初に2002年に公表したものだが、今回千鹿頭の文字を確認するためWikipediaの「千鹿頭神」の項を見たら、一部を取り入れてもらっている。口をすぼめて発音云々については今回気づいて初めて書いた。)

 白い鳥の飛来地を意味する地名は、他にもいくつかある。
 万葉集に「子負(こふ)の原」のことがあり、第六章に書いておいた。鴻の鳥のほか白鳥や鷺などもコフといった。
 久々宇(くぐう)は本庄市の利根川べりの地名だが、クグヒ(くぐい)(鵠)の意味だろうとは、岩波新書の『日本の地名』(谷川健一)にもある。鵠(くぐひ)も白鳥などの同類の白い鳥のことである。
 久下(くげ)もクグイの転であろう。神奈川県には鵠沼(くげぬま)海岸があり、文字も鵠になっている。熊谷市、飯能市、加須市の久下、川越市の久下戸も川べり(旧川べり)にあるが同様だらう。本庄市教育委員会の『本庄市の地名』という冊子は、執筆者の自説は載せない方針のようだが、本庄市南部の久下塚、久下前、久下東などの小名の久下をクグヒの意味としている。バス停の名で一つは見たことがあり、近くに川がないように思えてただ頭の中に入れておいたが、その一帯の大字名は「北堀」であると気づいたのは最近である。
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書籍化をするとすれば

ブログ記事の「まとめ」のため、全記事リストを時系列で作ってみた。分類リストもある。
歳時記や季節の行事についての書籍化を予定。

リストを見ると、2005年から3年間は、書いた量も多い。頻繁に推敲した記憶があるので、読んでもわかりやすく、よく書けている。

2007年秋から、古文書整理に時間を割いたこともあり、記事の量は減り、文章の手直しなどもあまりしなくなった。
2015年は、記事はゼロだが、近世研究に関して書きためていたと思う。

2016年8月、先の天皇陛下の譲位(退位)のお言葉をきっかけに、所謂「終活」への着手の重要性を痛感。新ブログ「倚松帖」を立ち上げる。7月から「古文書倶楽部」を再開しているのは、お言葉よりも早い。

「倚松帖」は、1年弱でこちらへ吸収されたが、この「神話の森のブログ」という個性的でないタイトルの変更について思案していた時期が長かった。今回、2005〜2006年の記事を再読してみたら、雪月花さんという人からのコメントが多いことに気づいたが、雪月花というお名前の無個性さも、当ブログとよく似ていると思えた。まだ個人ブログの数も少なく、そのような名前でも他と全く競合せず、類似の前例もなく、率直で個性的に見えた、そういう時代だった。あまり考えずに安直に付けたタイトルだと思っていたが、むしろブログの先駆者であることを示すようなタイトルなのであり、そういう題名のものが現在まで継続している例が多いのではなかろうか。(ちなみに学研ブログランキングというムック本で評論部門第1位にもなったブログであり、検索エンジンのランクも低くはないようである。)

2018年7月からの「楡影譚」は、1冊の本にすべきものの内容の輪郭が、その2、3年前から明瞭に見えてきたので、その執筆への取りかかりであった。

実は、ブログ更新が少なくなってからの時期には、書きかけで中断した原稿が、山ほど残っているので、それらを完成させながらの「まとめ」になることだろう。
今月になって、そのような原稿をアップロードしているので、今日で今月9回目の記事になる。月9回以上というのは、ブログ開始年の2005年以来。
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民俗地名語彙事典

民俗地名語彙事典 民俗地名語彙事典 松本美吉、ちくま文庫
三一書房の大型本上下2冊を少々省いて文庫化したもの。大きな2冊の本は家にあるのだが、重くて手にとらぬまま、文庫判を注文。780ページの厚さだが、手軽に扱える本である。

「原」の項目を見る。
九州などでは、何々原の原は、何々村の村と意味が近いのだということだけが、長々と書いてある。
しかし、だとするなら、同じ九州に多いフレ(何々触)にも似ていることになる。このフレは行政用語なのであって、隣国に似た言葉があっても行政用語として採用されただけなので、それをもって人の移住があったとすることはできないとは、都丸十九一氏が書いていた。都丸氏のほうが国語学的なのである。
「崩壊地名」の小川豊氏は、複数の古語辞典などからの引用も多くて、国語学的であり、説得力がある。

「山」のところを見る。
平地の山林のことを山という例の説明が長くある。
それだけでなく、猟師の猟場のことをヤマというとか、ヤマは仕事場の意味に広がって、畑のことをヤマという例もあるとか。海の漁師は良い漁場のことをヤマというなど。こういった説明は、「民俗地名語彙」の名にふさわしく、多くはこのパターンで書かれているので、評価も高い本なのであろう。先程の「原」のような説明は例外的ということ。しかし国語学的な説明はもう一つ足りない気がする。

やはり、地名研究者には国語学的でない人が多いのかもしれない。柳田国男が地名研究から撤退したときも、国語学の不得手を理由にしたという話を思い出した。
だが、ここで、柳田国男の撤退については、本当の理由というのが、わかったように思った。それはすなわち、地方の地名研究者たちの多くは民間語源説から抜け出ていないところへ、柳田翁が介入して国語学などを材料にして審判を下すわけにはいかなかったのだろうということ。論争する地方人たちの一方を否定して一方を肯定するのでは、地方に痼が残り、他の分野の研究を進めるにあたって好ましいことではない。柳田本人は国語学が苦手だということもあるまい。いわば大人の判断で介入を避けたということではなかろうか。
その結果、国語学から遠い地名研究者は減らなかったのかもしれない。
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読みやすい印刷用書体とは

地方のある研究者の本の印刷文字が、丸ゴシックのようなメイリオのような書体だったので、奇妙に思った。おそらく世間で「読みやすい」といわれる書体だから、そうしたのではなかろうか。
だが最近の「読みやすい」というのは意味が違うのであって、メイリオなどはスマホで読みやすいとされる書体であろう。昔のワープロなどは印刷は明朝体でも画面表示は16pxのゴシック体が標準だった。ゴシックよりも横長で中央を魚眼レンズのように拡大した新聞活字に近いデザインの書体が、小さい文字でも「読みやすい」とされている。
また、新聞活字では、「目」と「日」を誤認しないように正方形のマスいっぱいに大きくデザインする傾向がある。「江」なら「工」の部分を縦いっぱいに大きくし、「戸」ならまん中の「口」を大きく強調する。画像の例では「平成明朝」にもこの傾向があることがわかる。游明朝にもその傾向がある。極小の字なら、読みやすいかもしれないが、普通サイズの字については疑問である。
fontW5 Demibold は太字のこと。

読みやすい書体の条件とは何か。いろいろな見方があるだろうが、速読での読みやすさというのは重要であろう。
速読では漢字の一画一画を確認するのではなく、また異体字の区別も重要ではない。文字全体の輪郭が重要で、四角いマス内の周辺部分の余白の形や配置なども重要である。昔の活字や写植文字は、そのようにデザインされてきた。それを最も継承しているのが、PC環境では、MS明朝であろう。

また、画像の「江」のように、MS明朝のやや縦が短く横に長いデザインが見やすい。漢字は「健」や「康」などのように、縦線より横線が多い字が多いのだから、縦長に書いたほうが他の字と区別しやすいのでは?、と思いがちだが、そうではない。
おそらく、漢字は偏と旁の左右の要素に分けられるものが多いので、全体をやや横長にすると、左右の各要素の変形の度合いが少なくなり、たとえば「工」と「江の中の工の部分」とは、相似形に近くなる。とくに旁の部分が縦に細長く変形しては認識しづらい。つまり、前述したように、輪郭認識なのである。
一画一画を認識しながら最終的に一字の認識に到達するというのは、漢字をおぼえたての小学生なら、そういうのもありうるが、普通は、漢字というのは一瞬で認識できなければ、文章はすらすら読めるものではない。

次に、文書の見出しなどで使う強調文字について
明朝体の太字は、MS明朝をワープロソフトの編集時に太字(Bold)に設定したのでは、くっきりした印刷文字にならない。太字用の書体、いわゆるフトミンの書体がを選べば、かなり違ってくる。本文のMS明朝とは多少デザインが異なる見出し文字になるのもやむをえないだろう。
ゴシック体については、印刷ではMSゴシックが良いわけだが、ディスプレイ表示では何故か太い字で表示されない。編集画面では、どの文字がゴシックなのかわかりづらい。ここは游ゴシックを使うしかないようだ。上の画像の例では、表示ではかなり太さが違うが、印刷ではMSゴシックも太く印刷される。

蛇足になるが、手紙や葉書の宛て名で、毛筆体というのも、変な字が多い。楷書体が、良いと思う。楷書体は、名刺や冠婚葬祭の案内状・礼状などで長い歴史があり、洗練されたデザインで見やすい字である。
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わが歴史的仮名遣ひ

詩人の入沢康夫は、、
高校3年から大学時代に、歴史的仮名遣ひで詩を書いて投稿などもしたが、1955年に処女歌集を出版したときは現代仮名遣ひになってゐることに、だいぶ年月が過ぎてから気づいた。そこで、その経緯をふりかへってみるために書かれたエッセイがある。
歴史的仮名遣ひにしなかった理由は、どうやら小規模だった出版社の意見に配慮したためらしい。印刷は町の小さな印刷屋さんに頼むこともあり、誤植が多くなることへの危惧があった。その後は、宮沢賢治全集の編纂や校訂に関はったことがきっかけで、歴史的仮名遣ひに戻したとのこと。

それで思ひ出したのは、自分のことなのだが、2002年ごろにホームページを始めたときは、歴史的仮名遣ひだったのだが、2005年に始めたブログは、現代仮名遣ひにしてしまった。その理由を思ひ出してみた。
あれは確か、グーグル等からの検索のときに、歴史的仮名遣ひは不利なのではないかと思ったからだった。たとへばキーワード「思ひ出」では検索されず、「思い出」としたほうが良いのではないか。当時はさう思った。
その後はたまに歴史的仮名遣ひでも書くけれど、両方切り替へ方式では、かなを間違ふことも多くならざるをえない。

言葉は思考の道具であるといふが、思考するときに自分の頭の中に飛び交ふ言葉は、どんな仮名遣ひなのであらうか。
頭の中で、認識や判断をした瞬間があったことはわかるものだが、語形をもったものが飛び交ふのではない気がする。飛び交ふのは言葉ではなく概念といったものである。文字で表出してから、読み返したときに初めて仮名遣ひを意識するのではないかと思ふ。

思ひ出したことはもう一つあって、昔ある町の印刷屋さんが、小さな出版も兼ねてゐて、ある人の句集を作るといふときに、歴史的仮名遣ひのチェックをしてくれ、謝礼は著者が払ふ、といふ話があった。100パーセント完璧といふわけには行きません、と言ったら、それで構はないといふので、引き受たことがある。といふことは、その当時、私が歴史的仮名遣ひで書いてゐたことを、印刷屋さんは知ってゐたといふことになる。あれはいつごろだったかといふと、1980年代だらう。
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『日本人の芸能』

日本人の芸能『日本人の生活全集7 〜日本人の芸能』(池田弥三郎著、岩崎書店 1957)なる本を入手。
最初に開いた「屋内の芸能」という見出しのところ(78p)に、興味深いことが書いてあった。「屋内」はルビはないが、ヤナイと読むべきだろ。

「屋内とはかならずしも建物の内部ということではない。かこみ内ということになろう。これも、今日のような建物の構図では、中門というべきものがないので、かこみ内でも、大道とひと続きであって、芸能固有の舞台にも混乱を生じている。
屋内の芸能が内部に進入していくとき、そういう芸能は、門口でひとつの芸能を行うのが常道で、そういう芸能の種目には、門口の芸能種目がある。」

屋敷の門の中へ入る前に、ごあいさつのような、門の手前で行うことになっている種目があるということだろう。村々では、その家の敷地ののことを「屋敷」といったので、表の道から門までの間は、屋敷内である。

(わが家でも、20メートル程度の入り口の道(カイドウといった)の中ほどに門があったが、市街化区域に指定されたため、門の脇の広場のような場所を税の安い畑に作り替え、門は母屋の前の庭への入り口まで動かしたことがあった。広場は近隣の子供たちの遊び場になっていたが、江戸時代には高札場でもあった。戦前までは鎮守の祭礼のときには、この道の入口に、神社とは別に、村の若い衆たちが大きな2本の幟旗を立てたという。)

歌舞伎という言葉の語源についての部分。

「かぶきという語の語源について、だいたんな想像をすれば、門口における祝福、つまり門祝ぎという語が、かぶくという語をうんだのではないか、という想像だ。」

歌舞伎という言葉は、門祝ぎからきている、ということらしい。
言祝ぎが寿(ことぶき)となったように、ホギがブキになる例はある。


この本には珍しい写真がたくさん載っている。祭礼などの写真では、不特定多数の人たちが写っているのもあり、もし自分が写っている写真を見つけたら、出版社に連絡すると、記念品が贈呈されるとのこと。肖像権等の対策を兼ねてのものかもしれない。
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花札の絵柄と和歌

花札には、1月から12月までの12種類の花と動物の組合せの絵が描かれている。動物は鳥が多い。

新潟県方面で流布されている「越後花」と呼ばれる花札のセットには、札の表に、花にちなむ和歌が添え書きされていて、興味深いものを感じた。ただし、歌は、必ずしも花と動物の両方を詠んだものは少なく、また、12種全部に和歌が書かれているわけでもない。
そこで、「国歌大観CD-ROM版」を利用して、月ごとにふさわしい歌を探して選んでみた。

花札春
1月 松に鶴
 住吉の松よりすだつ鶴の子の 千とせは今日やはじめなるらん  新葉和歌集
  ※ 松と鶴の歌は多いが、正月なので祝賀の歌が良いだろう。

2月 梅に鴬
 折りつれば袖こそにほへ 梅の花 有りとやここにうぐひすのなく  古今和歌集巻一
  ※ 古今集巻一の最初のほうに載る歌。

3月 桜に馬
 あるかぎり心をとめて過ぐるかな 花もみしらぬ駒にまかせて  和泉式部集
  ※ たんに花といえば、桜のこと。神の前の道を、通常の道のようにそのまま通過すると落馬したり事故に遭遇するという伝説が、各地にある。

花札夏
4月 藤に時鳥
 藤波の咲き行く見れば、ほととぎす、鳴くべき時に近づきにけり  万葉集巻18 田辺福麿
  ※ これは「越後花」にもある。

5月 杜若と燕
 つばくらめ つちくひはこぶ古沼の花もゆかりの姿にぞさく
 かり初めに 八橋わたす しづがやの 庭ゐにさける かきつばたかな  調鶴集122-123
  ※ 二首並びで、つばくらめと、かきつばたが詠まれる。一首で二つを詠んだ歌は見つからなかった。
杜若(かきつばた)は、花の形が燕に似ていることから、燕子花という別名があるらしい。「ゆかりの姿」に咲くとはそのことかも。

6月 牡丹に蝶
 ももとせは花にやどりて過ぐしてき この世は蝶(てふ)の夢にやあるらむ  大江匡房 和歌童蒙抄
  ※ 百年あるいは生涯をさまざまな花に宿り暮してきたが、胡蝶の夢のように人生ははかないという。牡丹の花に限定した歌ではないが、この歌が良いだろう。「蝶の魂」参照

花札秋
7月 萩に猪
 てる月に萩のもとあらもしたがれて けぎよくみゆるまだら猪のふし  夫木集
  ※ 「もとあら」は萩の根元がまばらなこと。「下枯れて」。
「けぎよく」は気清く。「ふし」は「伏し」ということなのだろう。
まばらに生えた萩の根元から枝が枯れてきて、伏している猪の姿が見えるのを、縁起の良いものとしたのだろうか。


8月 芒に雁 月
 雁鳴きて秋風さびし。尾花散るしづくの田井の夕暮の空   続草庵集(頓阿)
  ※ 尾花はススキの別名。「空」で月を連想させる。

9月 菊と盃
 行末の秋をかさねて ここのへに千代までめぐれ 菊のさかづき  新院別当典侍 続千載和歌集
  ※ 重陽の節句で菊酒をすすめて寿ぐ歌。

花札冬
10月 紅葉(楓)に鹿
 奥山に紅葉ふみわけ、なく鹿の声きく時ぞ、秋は悲しき  猿丸大夫
  ※ 百人一首の歌。

11月 雨柳と燕 そして蛙
 河風に柳みだれて一葉ちる おも影うつすつばくらめかな  松下集(正広)
 柳ちる六田のよどの岸陰に秋を時とて鳴くかはづかな   藤簍冊子(上田秋成)
  ※ 燕と蛙の歌一首づつ。11月は冬だが二首は秋の歌。六田(ろくだ)は吉野の渡し場。

12月 桐と鳳凰
 かげたかき桐の木末にすむ鳥の 声待ちいでん御代のかしこさ  新続古今和歌集
  ※ 梧桐の木に鳳凰が棲むという中国の伝説にもとづくもの。

(馬、燕、雁は、別の絵札に描かれている)
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