誰袖草

誰袖草
久しぶりに小説を読んだ。中里恒子の『誰袖草(たがそでそう)』。
「読んでみたいと思っていた小説の条件」を、いくつか満たしていた。

条件の1つは、古典の本歌取りのようなところ。
誰袖草とは、古今集の「色よりも香こそあはれとおもほゆれ誰が袖触れし宿の梅ぞも」という歌にちなむ名前の植物らしい。匂い袋のことを誰袖ともいうとのこと。
そして、中将姫伝説を追いかけるような物語になっていて、折口信夫の『死者の書』の話も出てくる。

2つめには、明治大正時代の人たちの生活慣習の一部にリアリティがあったこと。大店の女性たちの生活の一部に限ってのことではあるが。

3つめには、夫が愛人を妊娠させ、生れてくる子を妻の実子として全てをとりつくろうというトリッキーな計画があり、どのように運ぶのだろうと詳細を注目して読んだ。しかし流産やら関東大震災の直撃やらで、偽装する必要はなくなるのであるが。

突然の大震災の話には、読んでいて困惑。人物たちは日を追って立ち直ってゆくのだが、読み手にはまだ30分程度しか経過せず、読むのを中断して、続きは明日読もうということになった。

同じ本に、『置き文』という中編も収録。
こちらは舞台は隠岐で、隠岐へ流された後鳥羽上皇の話や、御製歌などが多く出てくる。
隠岐へ嫁いで、娘を設けた女性が、20年後に娘へ宛てた置き文を残して家出をする。
母の名はアキ(飽き?)で、娘の名はユキ。
島を訪れた植物学者の男に、娘は初恋ともいえない憧れを抱いていたが、母は年下のその男と逃げたのである。
男はキノコなどを研究する学者。20年に一度だけこの世のどこかに発生するキノコがあるという。それは毒キノコなのかどうかはわからないが、20年後の母の恋にもかさなる。
本の一作目が誰袖草という植物の名前なので、この小説の題名もキノコの名前にしたらどうだろうと思ったが、毒々しくてもいけないのかもしれない。
母が島を脱出するときは、周囲に気づかれないトリッキーな方法で行なっている。この方法なら自然に成功するのだろうと思えたが、前作のような自分が生んでいない子を生んだことにするようなこと……というのは江戸時代なら周囲が事情を察してその件は口を閉ざせばよいだけの話かもしれないが、明治大正期では、「誰袖草」で途中まで試みられたようなこともあったのであろう。
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六輝(あるいは六曜)

六輝(あるいは六曜)とは、今は普通のカレンダーにも印刷されてあるような
  先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口
の6種類の暦注のことである。
カレンダーを見ると、6つが順番にめぐってゆき、ある日突然何日分か跳ぶことがある。そのへんのところが、今の人には神秘にみえて、昔の人の智恵のようなものを感じて、ありがたがられることもあるようだ。
「それ(何日分か跳ぶこと)は、旧暦の月替りだからなんですよ」と説明しただけでは、通じない。

六輝は、旧暦の月ごとに、次のように決まっている。
  一月一日は先勝、二月一日は友引、三月一日は先負、
  四月一日は仏滅、五月一日は大安、六月一日は赤口、
  七月は一月と同じで、以後一年の後半は前半と同じ。
  閏月は前月と同じ。
6つが順番にめぐるので、一月七日と七月七日も先勝になる。三月三日と九月九日は大安である。五月五日は先負ではあるが、おおむね五節供には「良い日柄」が配置されているように見える。
八幡様の祭礼の日である旧暦八月十五日は、十五夜の日でもあるが、毎年必ず仏滅であると決まっている。そのほか全ての日が毎年同じで決まっているので、旧暦時代には面白みもなく流行らなかったようである。

旧暦八月の十五夜の日を、なぜ仏滅にしたのだろうか。
ちょうど半年前の二月十五日も仏滅である。西行法師の有名な歌がある。

  願はくは花の下にて春死なん その如月の望月のころ

望月は満月のことなので「如月の望月」とは、二月十五日のことである。
旧暦の二月と八月は、二十四節気の中気である春分と秋分(彼岸の中日)がふくまれる月である。彼岸の中日は、旧暦では毎年の日付が大きく動くのだが、平均すると月のまんなか、二月十五日と八月十五日になる。
彼岸でもあるし、二月は西行法師の歌もある、というのが、仏滅が配置されたことと無関係ではないようにもみえるのである。
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明治3年のこよみ

旧暦時代の、明治三年のこよみを見たら、七月のところに、こうある。
  立秋 十二日
  処暑 二十七日
十二日の立秋は、「くさかりよし」とも書かれる(理由は未調査)。
十四日は戊(つちのえ)の日なので、「たねまきよし」と書かれる。どちらも「下段」のうちでも生活実感のある暦注であり、詳細に調べてみると面白いかもしれない。

二十四節気には中気と呼ばれるものが12あり、そのうちの7番めの「処暑」がふくまれる月が旧暦七月になる。
処暑が三十日のときは十五日が立秋となり、その月の一日(立秋の14日前)から七月なので、俳句では秋の句を詠まなければならないのかもしれない。今年(2021年)なら立秋の14日前は新暦7月24日にあたる。
七夕などの夜の行事では涼しさを感じられる季節である。処暑とは暑さが止むという意味らしいが、旧暦七月の半分は残暑の季節なのだろう。

十月を見ると、
  立冬 十四日
  小雪 二十九日
立冬の前後には「むぎまきよし」という日が3日ある。
この年の十月は、二十九日までの、「小の月」である。
翌月は「閏十月」、
  大雪 十五日
二十四節気のうちの「中気」がない(小雪も冬至もない)ので、閏月となる。前月と同じ「小の月」がつづくが、閏月は小の月が多いと思う。
暦注は、八日の戊(つちのえ)の日が「たねまきよし」。
二十七日の辛(かのと)の日が、「か(う?)まぬりつめとりよし)。「かま」か「うま」か判読できなかったが、カマなら辛(かのと)と関係あるかもしれない。「つめとり」は翌月の小寒の前後にも2日ほどあって干支は異なる。農耕馬の蹄の手入れのことだと思う。

十一月は、「大の月」で、
  冬至 一日
  小寒 十六日
  大寒 三十日
中気である冬至と大寒が、同じ月にある
次の十二月を見ると、「小の月」で、またも中気がない。
  立春 十五日
普通は大寒がふくまれる月が旧暦十二月なのだが、先に冬至がふくまれるので十一月なのだろう。大寒は翌月分とみなされたようなかたち。
翌月は立春だけで雨水がない。雨水があれば正月だが、中気がない。

ややこしい話になるが、
冬至を中気のない前月分と見なして前月は閏十月でなく十一月とし、大寒の月はそのまま十二月とし、立春だけの月を閏十二月とするという方法を、なぜとらなかったのだろう、という疑問がわく。
前述のように、中気のない月がひと月置いてまた現れるときは、先に現れたほうを閏月とする方式かもしれない。あるいは、間にはさまれた中気が2回の月の、2つの中期の時刻を詳細に計算して(現代なら何分何秒まで計算して)、前月または翌月に遠いほうの中気をその月の中気として優先するという方式かもしれない。

(画像の最後に「明治二年」とあるのは発行年)

旧暦十二月十五日が立春だというので、古今集の最初の歌、
「年のうちに春は来にけり」を思い出した。

参考(国会図書館) 明治三年の三島暦
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