辞世の歌(戯作者などの)

月おくれのお盆ですが、辞世の歌や句、なかでも戯作者のものや、頓知のきいた歌などを拾いだしてみました。

南無さらば妙法蓮華経かぎり  中村歌右衛門(初代)
  江戸の歌舞伎役者。経と今日をかけて今日かぎりというわけです。

死にたうて死ぬにはあらねどおとしには御不足なしと人やいふらん 朋誠堂喜三二
狂歌よむうちは手柄の岡持ちよ、よまぬだんでは日柄のぼた餅   朋誠堂喜三二
  江戸時代の戯作者で、手柄岡持(てがらのおかもち)の名で狂歌を詠んだ人。
  岡持は料理を入れる浅い桶のことで柄を手で持って運ぶもの。
  日柄は命日の意味。

この世をばどりゃおいとまにせん香とともにつひには灰左様なら  十返舎一九
  線香、灰をかけていますが、掛詞でかけるだけでなく、
  灰は実際にかける物、というところが上手いものです。

人ごみをのがれて見ればはなし塚   三笑亭可楽
今日の旅 花か紅葉か知らないけれど風に吹かれて行くわいな  都々一坊扇歌
  江戸時代の落語家と都々逸の元祖の人。自然体の歌です。

打出しの太鼓聞えぬ真打は、まだ二、三席やりたけれども    正岡容
  作家、演芸研究家。昭和前期に活躍の人。

  江戸時代と室町後期の僧の歌二首。
良寛に辞世あるかと人問はば 南無阿弥陀仏といふと答へよ   良寛
宗鑑はどこへと人の問ふならば ちと用ありてあの世へと言へ  宗鑑
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瓦職人と稲荷の神

瓦職人がまつった神は稲荷様ではないかと、ある理由で予想を立て、ネット検索を試みたら、あっさり京都の伏見稲荷にまつわる解説ページに行き当たりました。
伏見稲荷というより、伏見人形についてのページです。

各地の郷土玩具として有名な焼物の土人形は、どれも瓦職人が作ったもので、それらの元となったのが伏見人形だということです。

豊臣秀吉が伏見城を築城するにあたって、瓦職人を伏見稲荷のある深草の地に集めて瓦を焼き、そのときの瓦職人が手遊びで作ったものともいいます。
あるいは古くから伏見稲荷の土を持って帰って田畑にまけば稔りが良くなるという土への素朴な信仰があって、土のかたまりが売られるようになり、だんだん土人形になっていったともいいます。狐をはじめいろんな動物の人形も売られました。

 西行も牛もおやまも何もかも 土に化けたる伏見街道  一休禅師

雄略天皇のころ、食器に使う焼き物を諸国に住む土師部から献上させ、伏見に住んでいた土師部も献上したと日本書紀にあります。土師部は古代の埴輪や土器を作った部民で、伏見にも住んでいたわけです。秦氏が伏見に稲荷社を祀る以前のずっと昔の話です。
深草には、瓦町、砥粉山町、開土町などの地名があります。

伏見人形の歴史 伏見稲荷訪問記 伏見人形のお店
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鍛冶屋の神

鉄製品の生産は、近代の工業化以前は、おもに鍛冶屋職人たちの仕事でした。
大きな都市には今でも鍛冶屋町、鍛冶町という地名が残っていますが、どこも鍛冶屋職人たちの多かった町です。江戸では神田周辺に鍛冶町、神田鍋町があり、近くの岩本町に金山神社があるようです。鍛冶職・金工職人・金物商などが祭った神であり、埼玉県川口市の鋳物業者たちも金山神をまつると聞きます。

しかし長沢利明氏の『金山神社のふいご祭り』によると、岩本町の金山神社は戦後にできたものであって、江戸の鍛冶職人たちはもっぱら稲荷神をまつったといいます。
旧暦11月8日の「ふいご祭り」は「いなりふいご祭り」と呼ばれていました。
ふいご祭は、ミカンを投げて子供たちが拾うことで知られますが、「ほたけ、ほたけ」というかけ声で囃すといいます。

「みちのくの鉄」というサイトによると、近畿中国地方でも鍛冶の神は稲荷神だったようです。
また、火の神である三方荒神を祀る職人たちもあり、金屋子神のばあいもあります。柳田国男以来「金屋子神は古い八幡神と共通するので、もともとは八幡信仰であった」という見方になっているようです。

金山神を描いた掛け軸の画像が次のところで見られます。
http://www.city.mishima.shizuoka.jp/kyoudo/kyoudo/kobako/050_99/kobako60_.htm
「憤怒の形相の3つの頭、6本の手には刀剣を2本、斧、弓矢、宝珠を持ち、雲に乗って睨みをきかす明王形の像」と表現されています。
江戸時代末には沼津地方の鍛冶職は金山神を祀っていたようで、金山神は東海道を経由して東京に入ったのかもしれません。川崎市の若宮八幡宮の末社・金山神社の「かなまら祭」は、神社公式HPには遊女の病気平癒祈願から始まったと書かれますが、当時の鍛冶職のことは不明です。

以上、鍛冶職たちがまつった神の名前をピックアップしてみました。
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油と八幡宮

京都府乙訓郡大山崎町にある離宮八幡宮は、通称「山崎八幡宮」ともいい、平安時代末以降、京都へ油を流通させる拠点の「油座」という組織があったそうです。石清水八幡宮の配下の人たちらしいですが、独占的な権利を得て、諸国の油業者たちから税をとりたて、油の製造と流通を支配したそうです。(山崎の油

  宵ごとに都に出づる油売り、ふけてのみ見る山崎の月       職人尽歌合

油屋の人たちは八幡様をまつっていたということなのでしょう。

さて、そこで、全国に「油」の文字がつく地名に鎮座する八幡社を調べると25社あります。油の地名で八幡社でないものを含めた全体が118社ですから21%です。これは全国の神社に占める八幡社の割合が11%であることと比較して、やはり多いといえます。

広島県神石郡油木町には、9社のうち、「亀鶴山八幡神社」「鶴山八幡神社」「大仙山八幡神社」、単に「八幡神社」と称する3社、以上6社の八幡様があります。
山口県大津郡油谷町には、12社のうち、「河原八幡宮」「久冨八幡宮」「八幡人丸神社」「蔵小田八幡宮」「伊上八幡宮」「向津具八幡宮」の6社があります。
その他にも多いのですが、やはりこれは偶然というべきものではないのでしょう。

さらに、全国の「山崎」という地名のところにも、「八幡神社」が多いように思ったのですが、それほど多い比率ではありませんでした。
しかし香川県高松市西山崎町の八幡神社の由緒には「昔城州山崎より勸請せしものと傅へられ、依って地名をも山崎と云ふ。」とありますので、もっと探してみても良いかもしれません。
このテーマは、もっと詳しく調べてみても良いテーマです。興味のある人はやってみてください。
日本植物油協会、油にまつわる神仏
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敬語の力と歌の力

 浅田久子著『敬語で解く日本の平等・不平等』(講談社現代新書、平成13年)という本は出版されてすぐの頃に読んだ記憶がある。そのときのノートから拾い出してみると、
 「敬語は上位者と下位者をつなぐかけはしだった」と著者はいう。著者の論点を整理してみると、次のようになると思う。
 敬語などというと、身分社会の遺物のように思う人も一部あるかもしれないが、ヨーロッパや中国では、昔は身分が違えば言葉も違い、言葉はまったく通じなかったという。ところが日本では通じた。それは敬語があったためで、同じ日本語を共有し、その共通の日本語の上に敬語を発展させて来たからであるという。日本語に複雑な体系の敬語があるのは、身分社会が長く続いたためではなく、身分の違いを越えて古代から同じ日本語で上下の交流があったことの証拠なのだと著者はいう。

 古代から日本人はお互いどうしあまり血を流すことを好まなかった。しかし例外もあって、それは蝦夷や熊襲と呼ばれた人たちに対してである。彼らには当時の中央の「日本語」が通じなかった。だから異民族とみなされ、残酷な仕打ちも受けた。日本人の内と外の観念によると、内に対しては甘え、ひがみ、外に対しては遠ざけ、排除するというところがある。この外に対する排除というのは、あまり語られない、それ自体が避けられてきたテーマであるが、古代史の上では隠すことはできないで文献に残っているといわざるを得ない。

 再び著者の論にもどると、歌は訴えであるとは、よく言われることである。はるか古代に、日本人は神に訴えるときに、通常とは異なる発声で声を上げた。今でも和歌を詠むときには特別な調子がある。この古代の発声が、歌の起源であるという。歌がやがて文学として発展してゆくと、神に訴えるときには、別の方法が必要になる。発声を特別なものにするのではなく、語彙を変へてゆく方法がとられた。それが敬語の発生であると著者はいう。

著者のこの論は、面白い見方だとと思う。
ところで歌は、異民族だった蝦夷との間にも通じたという話が、前九年の役での源義家と安部貞任とのやりとりにある。

戦いに追い詰められた安部貞任が、衣川の館を捨てて逃げようとしたとき、源義家が馬上から連歌を詠み掛けた。
  衣のたてはほころびにけり(衣の経糸と衣川の館をかける)
貞任はこの歌に応じて付けた。
  年を経し糸の乱れの苦しさに(へし、繰る は糸の縁語)
義家はこの歌に感心して、そのまま見逃してやったという話である。

歌にも身分やときには人種を越えて解りあえる力があるという話である。

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概要 本日で10回目の投稿です。今日はこれから実家に帰省します。 本日紹介するブログは、神話の森のブログ様のサイトの紹介です。神話の森神話浪漫館 の神話の森の番人様が運営されているようです。。 歴史とは連綿と続いていくものであるならば、そこには過去があり現在..
日付 2005/08/13
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須佐之男の詩

須佐之男命2筆者がだいぶ昔に書いた、須佐之男命についての4行の詩のようなものです。

剣太刀 身に添ひかねて
常世へ 乳母(おも)今失せぬ
童(わらし)ゆゑ 紅浴むや
葬(はふ)りけめ 吠えろ須佐之男

文語と口語が混じって妙な表現が目立つのは、「いろは」の47文字を一つづつだけ使って綴ったいろはうたとしたために、無理が出てしまった部分です。
剣太刀は枕詞。乳母とは母の伊邪那美命のことで実際は常世ではなく黄泉国(よみのくに)へ去りました。
ひらがなだけで書くと次のようになります。

つるぎたち みにそひかねて
とこよへ おもいまうせぬ 
わらしゆゑ くれなゐあむや
はふりけめ ほえろすさのを

画像は大蘇芳年の「大日本名将鑑表」の一枚。
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日本の神ランキング

ランキングというと語弊があるかもしれませんが、日本の神社の御祭神のうち、多くの数がまつられている上位の25柱の神を「平成祭データ」で調べてみました。

{1}誉田別尊(ほんだわけのみこと) 十五代応神天皇。全国に一番多い八幡神社の神。
{2}須佐之男命(すさのをのみこと) 熊野神社、八坂神社、氷川神社、津島神社。
{3}天照大神(あまてらすおほみかみ) 神明社など、伊勢神宮の神さま。
{4}倉稲魂神(うかのみたまのかみ) 稲荷神社の神。神社名では稲荷神社は2位。
{5}大国主神(おほくにぬしのかみ) 出雲大社。資料では大物主命と同一なので金刀比羅神社。

{6}菅原道真(すがはらのみちざね) 天神社、天満宮。学問の神、雷神。
{7}大山祇神(おほやまつみのかみ) 三島神社、山神社。
{8}伊邪那美命(いざなみのみこと)  熊野那智神社。熊野神社、白山神社
{9}迦具土神(かぐつちのかみ)火産霊命(ほむすびのみこと) 愛宕神社、秋葉神社、荒神社
{10}建御名方命(たけみなかたのみこと) 諏訪神社

{11}伊弉諾命(いざなきのみこと) 多賀神社、白山神社、熊野神社
{12}神功皇后(じんくうこうごう) 宇佐神宮、八幡神社、住吉神社
{13}市杵島姫(いちきしまひめ) 弁天さま。厳島神社、宗像神社
{14}事代主神(ことしろぬしのかみ) 三島神社、美保神社、恵比須神社、蛭子神社
{15}少彦名命(すくなひこなのみこと) 少彦名神社、温泉神社、薬師神社、淡島神社

{16}猿田彦神(さるたひこのかみ) 猿田彦神社、白髭神社
{17}豊受姫命(とようけひめのみこと) 豊受大神宮(伊勢)、神明社、稲荷神社
{18}天児屋根命(あめのこやねのみこと) 春日神社
{19}保食神(うけもちのかみ) 駒形神社、稲荷神社、
{20}大山咋神(おほやまくひのかみ) 日枝神社、日吉神社、山王神社

{21}白山姫・菊理姫(しらやまひめ、きくりひめ) 白山比売神社、白山神社
{22}武甕槌命(たけみかづちのみこと) 鹿島神宮、鹿島神社、春日神社
{23}罔象女神(みつはのめのかみ) 水神社 貴船神社
{24}木花開耶姫(このはなのさくやひめ) 浅間神社
{25}経津主神(ふつぬしのかみ) 香取神宮。春日神社

そのほか28位に日本武尊(やまとたけるのみこと)が入ります。
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天神さま、菅原道真

11歳の菅原道真各地の天神社や天満宮で、学問の神として祭られる菅原道真も、現代日本を代表する神の一柱です。
平安時代の中ごろ、学者の家柄としては異例の出世をとげて右大臣にまでのぼったのですが、延喜元年(901)、讒言によって九州太宰府へ左遷されたことで知られます。
九州への旅が決まって自宅で梅の花を詠んだ歌も有名です。
  東風(こち)吹かば匂ひおこせよ。梅の花。あるじなしとて春な忘れそ

京都から船で宇治川を下って瀬戸内海を通って行ったのでしょうが、途中で各地に伝説を残し、各地に祭られる天神社の由来となっています。片道の旅にしては考えられないほど広範囲に伝説が語り伝えられますが、後の天神信仰の隆盛をものがたっているということなのでしょう。

道真は2年後に九州で没しました。その後、道真の霊は雷神となって都周辺に祟りをおこしたといわれ、数十年後には政治的にも復権され、北野天神にもまつられました。
学問・詩文の神とされ、室町時代の禅僧によっては、彼は天満天神となって渡唐し、径山(きんざん)の無準(ぶしゆん)禅師のもとで修行したことにもなりました。

江戸時代には、寺子屋でも天神さまは祭られ、村々の新年の寄り合いなどでも天神さまの掛け軸の前で「歌いぞめ」が行われました。日本では読み書きの両方ができないという人は少ないくらいでした。
けれど、それだけで全国に数千の天神社・天満宮が祭られたというわけでもなく、もともとは雷神としてまつられた「天神社」も多かったらしいということです。そういう天神社では後に菅原道真も合わせまつられるようになったようです。

雷が落ちそうなときは、「クワバラクワバラ」と言うのは、雷除けのおまじないの呪文で、近江国のクワバラという所に菅原道真の領地があったことに由来する、という説明もあります。
画像は11歳で漢詩を詠んだという少年時代の道真を描いたもの
★トラックバック先 http://blog.zaq.ne.jp/randokku/article/282/(座乱読後乱駄夢人名事典・菅原道真)
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ななばんげ

盆迎えのころの子供たちの行事には、青森県の「草ねぶた」などがあります。
子供たちが木の枝の先に灯籠を下げて七晩家々を廻り、七日目にそれを海に流すという行事だということです。
北海道で村の子供たちが、八月七日(または七月七日)の夕方に集り、竹に短冊と灯籠をさげて持ち、笛太鼓で囃し、歌いながら村の家々を巡ってローソクをもらうというローソクもらいも良く似た行事です。
青森県の「ねぶた」は、どんどん規模が大きくなって大きなお祭になっています。

木曽義仲の故郷の長野県日義村では、「だっぽしょう」といって、お盆迎へのころ、里の子供たちが行列を組んで行進し、山吹山の山頂で花火をあげるそうです。花火が盆の迎え火のようなものなのでしょう。

北関東などでは「七晩げ」という行事があります。検索したら「桐生の方言」というサイトしか出ませんでしたが、その説明によると「しちばんげ バンゲは夕方のこと 夏土用の一週間を言い藁を束ねて家の前で燃やしこれに暖まるとハヤリヤマイにかからない」とあります。
埼玉県北部では、同様のものをナナバンゲと言っているようです。晩は夕方のことですが、ゲの意味は不明としたほうが良いでしょう。これも盆迎えの行事が変化したものらしいのです。
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木花之佐久夜毘売

木花開耶姫コノハナノサクヤビメ
日向の高千穂の峰に天降った瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は、天照大神(あまてらすおほみかみ)の孫にあたる。
瓊瓊杵尊が、后として迎えたのは、山の神・大山祇神(おほやまつみのかみ)の二人娘のうち、容姿の醜い姉の磐長姫(いはながひめ)ではなく、美しい妹の木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)だった。天皇の生命が木の花のようにはかなく短いのはこのためだという。

姫は一夜で懐妊し、お産のために産屋に入った。
瓊瓊杵尊が生まれる子がわが子であることを疑ったので、姫は産屋に火をつけて占った。
火照命(ほでりのみこと)(海幸彦)、火須勢理命(ほすせりのみこと)、火遠理命(ほをりのみこと)(山幸彦)の三人が無事に生まれた。
海幸彦と山幸彦は童話でも知られる神で、海幸彦は隼人(はやと)阿多君(あたのきみ)の祖とされる。木花之佐久夜毘売の別名がアタツヒメというのも、薩摩国の阿多郡に由来するのだろう。
山幸彦の孫が神武天皇である。

以上は古事記の話だが、日本書紀の一書によると、瓊瓊杵尊が笠狭(かささ)の岬に到ると、「秀(ほ)立つる浪穂の上に、八尋殿(やひろどの)を建てて、手玉(ただま)ももゆらに、機(はた)を織る」少女があり、それが木花開耶姫(このはなのさくやびめ)である。棚機伝説に近いものがあり、一夜での懐妊といい、「聖婚」を物語る説話であることにちがいはない。

木花之佐久夜毘売は、のちに、安産の神とされ、美しい火の山・富士山の神として浅間神社にまつられる。近世には江戸を中心に富士講が栄え、養蚕守護の神ともされ、男女平等的な思潮を含むものでもあった。
「花」とは桜の花のことで、姫が富士山の頂上から種をまいたので日本中が桜で賑わうという話もある。
富士山の説話では、かぐや姫に類似した話も伝わっている。
画像は深谷市の浅間神社の木花開耶姫命の"お姿"。
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