神話の森のブログ

日本の神話や民俗、また近世農村研究

新年を迎える和歌


新年を迎える有名な和歌といえば、三つほどが思い浮かぶ。

一つは、元旦の初雪を吉兆としてほめたたえた大伴家持の歌で、万葉集の最後に載っている歌で、因幡の国で詠まれたという。
http://nire.main.jp/rouman/fudoki/41toto02.htm

 新しき年の初めの初春の、今日降る雪のいや頻(し)け。吉言(よごと)  大伴家持

もう一つは、古今集の最初に載る在原元方の歌で、立春が年末に来てしまったというちょっと風変わりな印象の歌。
http://nire.main.jp/sb/log/eid107.html

 年の内に春は来にけり 一とせを 去年(こぞ)とやいはん 今年とやいはん 在原元方

三つ目は、万葉集巻十の詠み人知らずの歌で、新年を迎えて何もかも新たなものとなったのは良いことだが、しかし人間は古い人間のほうが良いものだと詠まれる。

 物皆はあらたまりたり。よしゑ、ただ、人は、古りにし宜しかるべし  万葉集

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縄文土器の魂


縄文時代の土器は、発掘された破片を組み合わせて復元を試みようとしても、必ずどこか欠落部分が生じるものだという。欠落部分は石膏などで補われて博物館などでよく見かける。

欠損部分のない縄文土器はほとんど見かけないことから、その土器が廃棄されたときに人の手で一部分がもぎ取られるように抜き取られたのではないかと、『古代甲斐国の謎』(新人物往来社、小野正文氏執筆部分)に述べられていた。
道具にも魂が存在し、魂を抜き取ってからでなければ廃棄はできない。その抜き取られた魂は、粉末にされて再び次の代の土器を作る粘土に混ぜられ、土器の魂も伝えられていったのではないかという。

青森県などで出土される縄文時代の土偶も、必ずどこか欠けた部分があるそうなので、これもまた魂を抜き取ることが行われたのではないかと思える。猟師が捕獲した動物の耳を切り取って山の神に捧げるというのも、山の神の霊を動物のからだから抜き取るためであるといわれる。
人が使う道具にも魂が宿っているという考えかたは、戦後の経済成長の中でほとんど失われてしまったかのように見えるが、それでも母屋普請のときには、古い柱の一部を、新築の屋根の梁や屋根裏などに使うということは今でも行われていると思う。家の建物の魂も、そうして代々伝えて行くことができるわけである。

同書によれば、古い石臼もよく砕かれて発見されるそうで、箒を燃やしてはいけないとか、民具の扱いの中にも、道具の魂を意識してきた生活がうかがえる。
ものを大事にするということは、「環境にやさしい」ということだけでなく、昔の心を大切にし受け継いで行こうということなのだとわかる。
国民慶祝のこのたびの新宮様御誕生の折りにも、皇室では幼児用玩具そのほか多くのものが代々修理して使われる習わしであることが報道されている。

さて今身のまわりのものを眺めてみると、パソコンがある。今年から使用しているA社のベアボーンなのだが、フロッピーディスクの部分はもう7、8年も使用している。DVDドライブも5、6年前からのもので、こういう使い方もまた良いのではないかと思った次第。

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鶺鴒鳴く


9月13日ごろが、七十二候の一つの鶺鴒鳴(せきれいなく)であった。

セキレイは渓流や川辺などでよく見かけるらしいが、この時分によく鳴き始めるのだという話である。
(画像のあるサイト http://okasoft.ddo.jp/bird/segurosekirei/index.html
小さな鳥のわりに尾が長く、古い和語で鶺鴒のことを「庭たたき」ともいい、いつもせわしなく尾をたたくように上下に振っていることから、
  世の中は鶺鴒の尾のひまもなし  凡兆
などという句にもよまれる。

日本書紀では、伊弉諾(いざなき)、伊弉冉(いざなみ)の二柱の神が結婚したとき、鶺鴒の交尾の姿を見て結ばれ、大八洲(日本)の国を産むことができた。
こうした故実により、明治記念館の結婚披露宴会場の壁にも鶺鴒が描かれたり、皇室でも同様の飾り物があるらしい。「恋教鳥」という異名もある。

  行く水の目にとどまらぬ青水沫(あをみなわ) 鶺鴒の尾は触れにたりけり 白秋

この北原白秋の歌は情景が綺麗である。ある種の性的な連想が働いたとしても品を落とすことはない。
からだの一部を振るということは、たとえば手を振るという行為、これは魂を招くための古代の呪的行為なのだといわれる。別れて行く人を遠くに見て手を振るというのは、相手の魂を寄せて再会を期待してのものということになる。また遠くから近づいて来る人に手を振るのは、まちがいなく相手の魂を招き寄せるためである。万葉集で「袖を振る」というのも同様である。

  少女(をとめ)らが袖布留山の瑞垣の、久しき時ゆ思ひき。われは 柿本人麻呂

鳥が尾を振るのも、何かの魂を招き寄せる行為と見たほうが良いかもしれない。鶺鴒の場合は、新しく生まれるものの魂ということになると思う。

9月18日は七十二候の「玄鳥去(つばめさる)」で、燕はもう南へ帰るらしい。 (9/22)

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トンボの国、秋津洲・日本


ふと、トンボを見かけるようになり、秋を感じる季節になった。

高知県では、初秋(旧暦)のお盆のころに現れるトンボは、先祖の霊であると信じられ、この季節に現れて子孫を守り、秋の稔りを約束して、山に帰って行くのだという。

というようなことが書かれた本があったのだが、トンボを先祖の霊と考えたのは、日本の各地でも同様だったらしい。
東北地方では、トンボを方言でダンブリといい、だんぶり長者の昔話が東北各地に伝わる。この話も、祖霊の恵みによって長者となったということなのだろう。

日本書紀によると、神武天皇が大和国の腋上(わきがみ)の地を訪れて国見(くにみ)をなさったとき、国を愛でて、「この国は、蜻蛉(あきつ)がつがったような形をしている」といわれたことから、日本を「秋津洲(あきつしま)」というようになったという。アキツとはトンボの古語とされる。季節ごとには祖霊が訪れ、恵み豊かな国という意味なのだろう。
古事記では本州の島のことを「大倭豊秋津島」と名づけている。

女性、とくに舞を舞う女性の、透き通ったような美しい衣装は、万葉時代には、トンボの羽にたとえられて「あきつは」と形容された。

 あきつ羽の袖振る妹を、玉くしげ奥に思ふを見たまへ、わが君  万葉集

一般に虫についての信仰や伝説には、吉凶両面のあるものが多いのだが、トンボについても同様で、万葉集には詠まれたのだが、平安時代以後(近世まで)は、歌の世界に現れることはなかったらしい。このへんのいきさつは、時間があったら調べてみたいところである。

西洋では、トンボは不吉な面ばかりが伝わる。あちらでは虫の声も雑音としか聴こえないという話もあり、迷惑な存在と見てしまうのだろうか。西洋の俗信では、子どもがうそをつくとトンボの尾の針で唇を縫われてしまうというのがあり、トンボに唇から美酒をそそいでもらった「だんぶり長者」の話とは好対照なのかもしれない。ドイツ語ではトンボの異名を「Wasserjungfer」といい「水辺の乙女」の意味であるというので、何か古い伝説はあるのだろう。

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左と右


食卓の上には、左に御飯があり、右に汁物を置く。主食が左であることは、日本では左を優位なものと考えてきた歴史があるらしいからである(例外もあるが)。
一匹の魚は、頭を左にして置かれる。幼児に魚の絵を描かせると決まって頭を左、腹部を下に描くそうだ。人の肖像画も魚と同じ向きであることが多く、左頬を正面に向けて斜めに描かれることが多い。二人並んだ人物の絵では、二人がやや内側を向いて、魚と同じ向き----向って右に描かれた人のほうが、身分などの差がある場合は上であることが多い。日本史の教科書でよくみる源頼朝像は反対の向きだが、あの絵は二枚セットのもので源頼朝ではないという説が最近聞かれる。

「向って右」には、ひなまつりの雛壇では、左近の桜や左大臣が位置する。右近の橘や右大臣は「向って左」である。御内裏様から見て左なので左近の桜といい、左を優位なものと見るのためだが、昔の京都御所での配置も同様でそれにならったわけである。京都で左京区とは御所から見て左側方面のこと。神社の配置も同様で、一対の狛犬の口を開いているほうが社殿から見て左、閉じているのが右である。芸能の舞台でも、舞台から見て左を上手というが、しかしこれは「向って右」のことである。
ややこしくならないためには、地図や建物の配置図を思い描けばよいだろう。真ん中に縦の線を思い描き、右側を上位とみるわけである。神社の参道を歩くときは控えめにして下位の左側を歩く。結婚式では向って右が新郎側である。これは古代の婿入り婚で男性はお客様待遇だったことから来ているのかもしれない。

その新郎の左の傍らには新婦なのだが、雛壇の上の内裏様はどうだろうか。全体の配置から向って右を上位として内裏様、向って左にお姫様という考えも古くから根強い。一説によると昭和天皇の即位礼のときに天皇様の向って右に皇后様がお立ちになられたのが写真映像で庶民の目にするところとなり、それ以来それに習って関東などでは御内裏様を向って左に置くようになったというのがある。実は天皇陛下は向って左ではなく中央に立たれ、そこから見て左側に皇后様が立たれたのである。一番優位なのは左よりも中央である。しかし内裏様については、江戸時代の絵で内裏様を向って左に描いたのを見たことがあるのでなんともいえない。

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あやめもわかぬ五月雨


「いづれが菖蒲(あやめ)か杜若」とは、すぐれたものどうしが優劣をつけがたいことをいう。

「あやめもわかぬ」も、区別のつけがたいことをいうのだが、この「あやめ」は花のことではなく、筵(むしろ)などの編み目や布の模様のこと(綾目、文目)で、「あやめもわかぬ」は、優劣ということではなく、単にものごとがはっきり見えないこと、分別がつかないことをいう。暗闇でものがよく見えないことにもいう。

 葛城やあやめもわかぬ五月雨  松瀬青々

梅雨の時期の雨で景色も薄暗くてはっきり見えない情景である。しかしやはり花のアヤメにも掛けている句なのだろう。
旧暦5月28日は、曽我兄弟の仇討があった日である。富士の裾野での巻狩を終え、夕べの宴も終るころのことを、文部省唱歌では次のように歌っている。

 「富士の裾野の夜は更けて、宴のどよみ静まりぬ。
  屋形屋形の灯は消えて、あやめもわかぬ五月闇」

こちらは真っ暗で何も見えないような状態だったようだ。

本間祐編『超短編アンソロジー』(ちくま文庫)に、小泉八雲の『狂歌百物語』からの歌が載っていた。

 これやそれとあやめもわかぬ離魂病 いづれをつまと引くぞわづらふ

離魂病とは今でいう夢遊病のことだろうか。妻の顔もわからぬとは記憶喪失でもあるのだろう。

誰だか彼だか顔がわからない夕闇のことを「誰そ彼」の意味で「たそかれ」という。

 五月雨のたそかれ時の月影のおぼろげにやはわれ人を待つ  凡河内躬恒(玉葉集)

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「群馬の習俗」


28日の午前中に受信圏内にある群馬テレビで、予定されていたスポーツ番組が雨で中止になったので『群馬の習俗』という2時間の記録映画を放送していた。
昭和30年代後半ごろの映像と思われるが、活字でしか知らなかったちょっと前までの日本のどこにでもあった年中行事などが実写の映像でたっぷり紹介されていた。最初の20分くらいを除いて録画し、あとでゆっくり見ることができた。

録画できなかった部分のうち、録画スイッチを押す直前の数分のあいだに見ることができた映像に、3月3日の子供たちの行事があった。村の数人の子供たちが集まって、春の陽射しの中で自分たちで煮炊きをして、ちゃぶ台をかこんで食事をする風景である。秋田のかまくらに似ているが、子供たちの周囲には、60センチほどの高さに平たい石を積み上げて、石垣の囲いを作っていた。
春先の3月ごろに村の子供たちが集まって、春の野菜などを煮炊きする行事は各地にあったというが、戦後はお菓子をいただいて食べるだけになったところもあったらしい。新年の鳥追いや、春の若菜摘みなどと共通するものなのだろう。
祝日の「子供の日」は3月3日にしたほうが良かったような事例はたくさんあったらしく、5月5日はいわば「成人の日」のような行事が多かったらしい。

旧暦10月の「とおかんや」は、埼玉県秩父地方のとおかんやと、唱え言葉も含めてほぼ同じようなやりかたである。藁鉄砲といって、わらを棒状に作り、それを振り回すように地面をたたくことについて、地中のモグラを追い出して来春の麦の豊作を祈るのだというナレーションがあったが、内容が具体的すぎるので近世の解釈なのではないかと思うが、調べてもよくわからない。収穫を終えて田の神の神送りの行事に関連するものだろうとは言われている。

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世之介歳時記


好色一代男井原西鶴の『好色一代男』などには、ときどき折々の年中行事や民俗、地方の神々のことも書かれていて、興味深い。江戸時代初期のものだが、そういった庶民の信仰は戦後まもなくのころまでほとんど変わらず続いて来たことのように思える。
それらを本から拾い出して主人公の名をとって『世之介歳時記』としてまとめると面白いと思うが、少しだけ試みてみる。

最初は別の本で『本朝桜陰比事』から。
「昔、京都の町に高家の御吉例を勤める年男があった。毎年12月21日にきまって丹波境の村里から山奥のほうへ分け入って、正月の門松を伐る習わしになっていた。……ここは昔から飾山といって門松を伐るところに決まっていた……」(麻生磯次訳以下同じ)
年末に年男が山から松の木を伐って来て、正月の門松とし、他にも正月の準備をするわけである。

「さすがに元旦の陽ざしは静かにゆったりとして、世に時めく人たちの門には、松の緑も濃く、「物申、物申」という年始客の声が絶えない。手毯もつけば羽根もつく、その羽子板の絵に、夫婦子供の絵のかいてあるのも羨しく、懸想文を買って読む女には男が珍しく思われ、暦の読み初めに「姫始め」とあるのもおもしろい。人の心も浮き立って、昨日の大晦日の苦しかったことも忘れて、今日の一日も暮れてしまう。」

元旦は年始まわりである(初詣は明治以降の習俗)。懸想文とは今でいうと恋占いのおみくじのようなもので、現代もあまり変わっていない。「男が珍しく思われ」とは、まだそんな年頃でもないのにといった意味だろうと思う。

「二日は年越だというので、人に誘われて鞍馬山に出かけた。市原野を行くと、厄払いの声がし、夢違いの獏の札や宝舟などを売る声が聞え、家々では鰯・柊を軒にさし、鬼やらいの豆撒きをして、門口は宵のうちから固くとざしていた。懸金という坂を上って、鞍馬寺の鰐口の紐にすがって鳴らそうとする拍子に、柔かな女の手に触れると、早くも恋の種が芽生え出した。むかし、扇の女房絵を見て恋い慕い、この寺に参籠した男のことや、
 物思へば沢の螢もわが身よりあくがれ出づる玉かとぞ見る
と詠んだ女のことまでも思い出されて、そぞろに心も浮き立った折から、鶏の鳴き声をまねる者があったので、目を覚まして人々はみな帰ることになった。」

旧暦なので新年と節分がほぼ同時に来るわけである。現代では新年の行事と節分の行事ははっきり区別できるが、これを読むと両方がごっちゃになってわかりにくいところもある。初夢の宝船売りは、この時代は節分の行事だったらしい。

「物思へば沢の螢も」の歌は、和泉式部が鞍馬寺の先の貴船神社に参詣したとき詠まれたもので、夫婦の復縁を祈った歌という。

「その年十四の春も過ぎて、衣替えする四月ついたちから、振袖の脇を塞いで詰袖を着ることになったが、もうしばらく振袖姿にしておきたいと、世間の人々から惜しまれたのも、後姿がいかにもよかったからである。
 ……村の子供たちは、麦藁でねじ籠や雨蛙の家などを作って遊んでいる」

「詰め袖」は元服後の成人の服装のことだが、世之介は美少年だったので、少年時代の振袖姿が惜しまれたようだ。

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端午の節句


菖蒲鯉のぼりを上げる風習は、古い記録では江戸時代のものがあるらしい。
中国の伝説で、小さな鯉が竜門というところの滝をのぼると竜になるという、立身出世の物語が、武家に好まれ始め、鯉のぼりとなったともいう。文学や芸能などの新人賞のことを登竜門というが、新人が大きく飛躍する場所のことでもある。

民間では竹竿の先にひれや旗のようなものを付けて軒先に高く掲げるというのがあって、それはかなり古くからのものらしい。田植の前に早乙女たちが忌み篭りをしたしるしなのだもという。また田植えの神を招く依り代だともいう。
いろいろ調べてゆくと面白いもので、5月5日のころは女性に縁の深い行事が多かったようだ。(3月3日の節句のころは子供全般の行事が主である)。

先だって千葉県野田市の古い醤油問屋の屋敷が資料館になっているところを見学してきたが、端午の節句の日に軒下に菖蒲を挿していた写真があった。その土地の年中行事の写真パネルを並べたものの一つなのだが、首都に近い場所で古いものをよく伝えていると思った。土地の主産業(醤油業)が何百年も変わらず続いているということも、伝統保存の好条件なのかもしれない。
軒下の菖蒲については、茎の臭気で邪気をはらうという解説もあったが、菖蒲でお篭りの仮屋を葺いたというのもあった。

 あやめ葺く軒端すずしき夕風に山ほととぎす近く鳴くなり 二条院讃岐

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桜が散る


桜北国をのぞけば日本の桜の時期ももう終りである。
桜は日本人に最も好まれてきた花であるともいえる。「散り際がよい」などという言い方をされることもあったが、そういったことよりも、春の到来を告げる花であり、その一年を占う花、また農耕儀礼などにも深く関わってきた花である。
近世までは、ヤマザクラという品種がもっとも親しまれていたといい、山間部に咲く白っぽい花だったらしい。開化時期には山の色が変化していって花の色で埋まる。そのふもとでの人々の生活があったのだろう。

桜の散る歌ですぐ思い出すのは、百人一首の有名な歌。

 ひさかたの光のどけき春の日に、しづ心なく花の散るらむ  紀友則

しづごころ(静心)とは「しずかな心。おちついた心」(広辞苑)とある。のどかな春の日だというのに、しづ心もなく花は散るのだろうという。
乱れる恋心を詠んだようにもとれるし、自分のところに落ち着かずに離れていってしまう相手のことを詠んだようにもとれる。

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