神話の森のブログ

日本の神話や民俗、また近世農村研究

彼岸の走り


「彼岸の走り」とは、彼岸明けないし彼岸の最終日のことで、彼岸の墓参りをする日である。「はしりくち」という地方もあるらしい。

しかしネットを調べても、そのような「彼岸の走り」について書いてあるページは、あまりに少ない。春分の日が休日なので、春分の日に墓参りをするのが主流になっているのだろう。

季節の初物などを「はしり」ということはあるが、最後の日をなぜ「走り」というのだろう。広辞苑には、直接の説明はないが、こんなことが書かれてある。

 はしり【走】(3)台所のながし。
 はしり-で【走出】 門口。

「出口」の意味のように思える。

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千羽鶴


折紙5年ほど前に千羽鶴について調べたことがあるが、良い本がなかった。
平凡社世界百科によると、戦後、病気平癒の祈願を込めて普及したという現状のほかは、戦前の兵隊の無事帰還を祈った千人針との関連を指摘していた。虎は千里行って千里帰るとか、死線を越えるといった縁起が書かれてあった。戦前以前の千羽鶴については不明なのだが、吉川弘文館の日本民俗大辞典によると、折紙自体は平安時代からあったということだった。

最近ネットを調べたら、1797年(寛政9年)に伊勢国桑名の長円寺の僧による『秘伝千羽鶴折形』という本があることがわかった。千羽鶴という言葉は江戸時代からあったことになる。
この本では、1枚の紙から複数の鶴を折る「連鶴」の作り方が書かれ、多数の和歌も添えられている。和歌は艶っぽい恋歌も多いが、少女から老女までの、当時の女性の生活を意識したものになっている。
桑名市の公式HPの桑名の千羽鶴というページでは、折紙は平安時代ごろの熨斗(のし)の包み方などから発達したように書かれ、古く神事用の御幣との関連を想定している。

現代の千羽鶴については、類似の形状から、あるいは柳川や東伊豆そのほか各地の「つるし雛」との関連については興味深い。つるし雛は、繭玉飾りに似たもののように思える。

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忠臣蔵と瑶泉院


テレビ東京の正月番組『忠臣蔵・瑶泉院の陰謀』というドラマを、面白く見た。原作は湯川裕光氏の小説で『瑶泉院〜忠臣蔵の首謀者・浅野阿久利』(新潮文庫)とのこと。
浅野内匠頭は辞世を詠む暇がなく、ある僧に作ってもらって瑶泉院に届けられたなど、現代人が納得しやすいリアリティのある筋立ても多く、またユーモアも多く退屈させない。浅野内匠頭はかんしゃく持ちだったとの有力な説を採用しながら、品位を落とすところもない。

浅野内匠頭はその特異な人間性からも御霊となって、浪士の討入りはその鎮魂儀礼であったとか、「忠臣蔵」の上演は、太陽の王の復活のカーニバルとして庶民に受け入れられた、とかいうようなことが丸谷才一『忠臣蔵とは何か』に書かれている。同書では「御霊神のもとの形は若い男神と若い女神とが一対であった」とも書かれ、また太陽神は女神であるという庶民の信仰からすれば、瑶泉院が主役とされたこともうなづける。

大石内蔵助が江戸へ来てからの遊興の相手に、一学と名のる比丘尼(この時代は遊女のこと)がいたことは、考証家の解説本にも載っているが、ドラマでは一学は瑶泉院の妹ということになっていて、容姿はうり二つである。
これも大石内蔵助が垣見五郎兵衛に扮し、堀部安兵衛が剣術指南の長江長左衛門、神崎与五郎は小豆屋善兵衛、などなど、四十七士の全てが町人などに扮して別名を名のることと同様に、不自然とはいえないわけである。
丸谷氏の同書に「大星由良之助の向うには大石内蔵助が透けて見え、顔世御前の面輪はまるで瑶泉院の色っぽい妹のやうだといふ、事実と虚構の二重構造」(講談社文芸文庫版112ページ)という表現が見える。歌舞伎の仮名手本忠臣蔵では、大星由良之助は大石内蔵助になぞらえ、顔世御前は瑶泉院になぞらえた登場人物であるということだが、「まるで瑶泉院の色っぽい妹のやうだ」と丸谷氏が表現した理由は、知識不足のせいか、よくわからない。高師直(吉良上野之介になぞらえる)の顔世御前への横恋慕というのが歌舞伎の虚構なので、史実の瑶泉院との「二重構造」という意味をそのように表現したのだろうか。

人気歌舞伎の要素のようなものを、丸谷氏は忠臣蔵を例に7つ指摘している。
1、社会を縦断する書き方。殿様から足軽や町人まで、奥方様から遊女までが登場
2、二つの時代の重ね合せ。南北朝時代を描きながら上演された江戸時代を描く
3、「実は……」という作劇術。上に述べた垣見五郎兵衛じつは大石など、貴種流離譚
4、儀式性。 勅使饗応に始り切腹、開城などの武家儀式への庶民の関心
5、地理、国ぼめ。 関東と関西、京の遊郭や東海道などが広範囲に描かれる
6、歳時記性。 桜の下の切腹から雪の夜の討入りまで
7、呪術性、御霊信仰 

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新年を迎える和歌


新年を迎える有名な和歌といえば、三つほどが思い浮かぶ。

一つは、元旦の初雪を吉兆としてほめたたえた大伴家持の歌で、万葉集の最後に載っている歌で、因幡の国で詠まれたという。
http://nire.main.jp/rouman/fudoki/41toto02.htm

 新しき年の初めの初春の、今日降る雪のいや頻(し)け。吉言(よごと)  大伴家持

もう一つは、古今集の最初に載る在原元方の歌で、立春が年末に来てしまったというちょっと風変わりな印象の歌。
http://nire.main.jp/sb/log/eid107.html

 年の内に春は来にけり 一とせを 去年(こぞ)とやいはん 今年とやいはん 在原元方

三つ目は、万葉集巻十の詠み人知らずの歌で、新年を迎えて何もかも新たなものとなったのは良いことだが、しかし人間は古い人間のほうが良いものだと詠まれる。

 物皆はあらたまりたり。よしゑ、ただ、人は、古りにし宜しかるべし  万葉集

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縄文土器の魂


縄文時代の土器は、発掘された破片を組み合わせて復元を試みようとしても、必ずどこか欠落部分が生じるものだという。欠落部分は石膏などで補われて博物館などでよく見かける。

欠損部分のない縄文土器はほとんど見かけないことから、その土器が廃棄されたときに人の手で一部分がもぎ取られるように抜き取られたのではないかと、『古代甲斐国の謎』(新人物往来社、小野正文氏執筆部分)に述べられていた。
道具にも魂が存在し、魂を抜き取ってからでなければ廃棄はできない。その抜き取られた魂は、粉末にされて再び次の代の土器を作る粘土に混ぜられ、土器の魂も伝えられていったのではないかという。

青森県などで出土される縄文時代の土偶も、必ずどこか欠けた部分があるそうなので、これもまた魂を抜き取ることが行われたのではないかと思える。猟師が捕獲した動物の耳を切り取って山の神に捧げるというのも、山の神の霊を動物のからだから抜き取るためであるといわれる。
人が使う道具にも魂が宿っているという考えかたは、戦後の経済成長の中でほとんど失われてしまったかのように見えるが、それでも母屋普請のときには、古い柱の一部を、新築の屋根の梁や屋根裏などに使うということは今でも行われていると思う。家の建物の魂も、そうして代々伝えて行くことができるわけである。

同書によれば、古い石臼もよく砕かれて発見されるそうで、箒を燃やしてはいけないとか、民具の扱いの中にも、道具の魂を意識してきた生活がうかがえる。
ものを大事にするということは、「環境にやさしい」ということだけでなく、昔の心を大切にし受け継いで行こうということなのだとわかる。
国民慶祝のこのたびの新宮様御誕生の折りにも、皇室では幼児用玩具そのほか多くのものが代々修理して使われる習わしであることが報道されている。

さて今身のまわりのものを眺めてみると、パソコンがある。今年から使用しているA社のベアボーンなのだが、フロッピーディスクの部分はもう7、8年も使用している。DVDドライブも5、6年前からのもので、こういう使い方もまた良いのではないかと思った次第。

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鶺鴒鳴く


9月13日ごろが、七十二候の一つの鶺鴒鳴(せきれいなく)であった。

セキレイは渓流や川辺などでよく見かけるらしいが、この時分によく鳴き始めるのだという話である。
(画像のあるサイト http://okasoft.ddo.jp/bird/segurosekirei/index.html
小さな鳥のわりに尾が長く、古い和語で鶺鴒のことを「庭たたき」ともいい、いつもせわしなく尾をたたくように上下に振っていることから、
  世の中は鶺鴒の尾のひまもなし  凡兆
などという句にもよまれる。

日本書紀では、伊弉諾(いざなき)、伊弉冉(いざなみ)の二柱の神が結婚したとき、鶺鴒の交尾の姿を見て結ばれ、大八洲(日本)の国を産むことができた。
こうした故実により、明治記念館の結婚披露宴会場の壁にも鶺鴒が描かれたり、皇室でも同様の飾り物があるらしい。「恋教鳥」という異名もある。

  行く水の目にとどまらぬ青水沫(あをみなわ) 鶺鴒の尾は触れにたりけり 白秋

この北原白秋の歌は情景が綺麗である。ある種の性的な連想が働いたとしても品を落とすことはない。
からだの一部を振るということは、たとえば手を振るという行為、これは魂を招くための古代の呪的行為なのだといわれる。別れて行く人を遠くに見て手を振るというのは、相手の魂を寄せて再会を期待してのものということになる。また遠くから近づいて来る人に手を振るのは、まちがいなく相手の魂を招き寄せるためである。万葉集で「袖を振る」というのも同様である。

  少女(をとめ)らが袖布留山の瑞垣の、久しき時ゆ思ひき。われは 柿本人麻呂

鳥が尾を振るのも、何かの魂を招き寄せる行為と見たほうが良いかもしれない。鶺鴒の場合は、新しく生まれるものの魂ということになると思う。

9月18日は七十二候の「玄鳥去(つばめさる)」で、燕はもう南へ帰るらしい。 (9/22)

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トンボの国、秋津洲・日本


ふと、トンボを見かけるようになり、秋を感じる季節になった。

高知県では、初秋(旧暦)のお盆のころに現れるトンボは、先祖の霊であると信じられ、この季節に現れて子孫を守り、秋の稔りを約束して、山に帰って行くのだという。

というようなことが書かれた本があったのだが、トンボを先祖の霊と考えたのは、日本の各地でも同様だったらしい。
東北地方では、トンボを方言でダンブリといい、だんぶり長者の昔話が東北各地に伝わる。この話も、祖霊の恵みによって長者となったということなのだろう。

日本書紀によると、神武天皇が大和国の腋上(わきがみ)の地を訪れて国見(くにみ)をなさったとき、国を愛でて、「この国は、蜻蛉(あきつ)がつがったような形をしている」といわれたことから、日本を「秋津洲(あきつしま)」というようになったという。アキツとはトンボの古語とされる。季節ごとには祖霊が訪れ、恵み豊かな国という意味なのだろう。
古事記では本州の島のことを「大倭豊秋津島」と名づけている。

女性、とくに舞を舞う女性の、透き通ったような美しい衣装は、万葉時代には、トンボの羽にたとえられて「あきつは」と形容された。

 あきつ羽の袖振る妹を、玉くしげ奥に思ふを見たまへ、わが君  万葉集

一般に虫についての信仰や伝説には、吉凶両面のあるものが多いのだが、トンボについても同様で、万葉集には詠まれたのだが、平安時代以後(近世まで)は、歌の世界に現れることはなかったらしい。このへんのいきさつは、時間があったら調べてみたいところである。

西洋では、トンボは不吉な面ばかりが伝わる。あちらでは虫の声も雑音としか聴こえないという話もあり、迷惑な存在と見てしまうのだろうか。西洋の俗信では、子どもがうそをつくとトンボの尾の針で唇を縫われてしまうというのがあり、トンボに唇から美酒をそそいでもらった「だんぶり長者」の話とは好対照なのかもしれない。ドイツ語ではトンボの異名を「Wasserjungfer」といい「水辺の乙女」の意味であるというので、何か古い伝説はあるのだろう。

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左と右


食卓の上には、左に御飯があり、右に汁物を置く。主食が左であることは、日本では左を優位なものと考えてきた歴史があるらしいからである(例外もあるが)。
一匹の魚は、頭を左にして置かれる。幼児に魚の絵を描かせると決まって頭を左、腹部を下に描くそうだ。人の肖像画も魚と同じ向きであることが多く、左頬を正面に向けて斜めに描かれることが多い。二人並んだ人物の絵では、二人がやや内側を向いて、魚と同じ向き----向って右に描かれた人のほうが、身分などの差がある場合は上であることが多い。日本史の教科書でよくみる源頼朝像は反対の向きだが、あの絵は二枚セットのもので源頼朝ではないという説が最近聞かれる。

「向って右」には、ひなまつりの雛壇では、左近の桜や左大臣が位置する。右近の橘や右大臣は「向って左」である。御内裏様から見て左なので左近の桜といい、左を優位なものと見るのためだが、昔の京都御所での配置も同様でそれにならったわけである。京都で左京区とは御所から見て左側方面のこと。神社の配置も同様で、一対の狛犬の口を開いているほうが社殿から見て左、閉じているのが右である。芸能の舞台でも、舞台から見て左を上手というが、しかしこれは「向って右」のことである。
ややこしくならないためには、地図や建物の配置図を思い描けばよいだろう。真ん中に縦の線を思い描き、右側を上位とみるわけである。神社の参道を歩くときは控えめにして下位の左側を歩く。結婚式では向って右が新郎側である。これは古代の婿入り婚で男性はお客様待遇だったことから来ているのかもしれない。

その新郎の左の傍らには新婦なのだが、雛壇の上の内裏様はどうだろうか。全体の配置から向って右を上位として内裏様、向って左にお姫様という考えも古くから根強い。一説によると昭和天皇の即位礼のときに天皇様の向って右に皇后様がお立ちになられたのが写真映像で庶民の目にするところとなり、それ以来それに習って関東などでは御内裏様を向って左に置くようになったというのがある。実は天皇陛下は向って左ではなく中央に立たれ、そこから見て左側に皇后様が立たれたのである。一番優位なのは左よりも中央である。しかし内裏様については、江戸時代の絵で内裏様を向って左に描いたのを見たことがあるのでなんともいえない。

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あやめもわかぬ五月雨


「いづれが菖蒲(あやめ)か杜若」とは、すぐれたものどうしが優劣をつけがたいことをいう。

「あやめもわかぬ」も、区別のつけがたいことをいうのだが、この「あやめ」は花のことではなく、筵(むしろ)などの編み目や布の模様のこと(綾目、文目)で、「あやめもわかぬ」は、優劣ということではなく、単にものごとがはっきり見えないこと、分別がつかないことをいう。暗闇でものがよく見えないことにもいう。

 葛城やあやめもわかぬ五月雨  松瀬青々

梅雨の時期の雨で景色も薄暗くてはっきり見えない情景である。しかしやはり花のアヤメにも掛けている句なのだろう。
旧暦5月28日は、曽我兄弟の仇討があった日である。富士の裾野での巻狩を終え、夕べの宴も終るころのことを、文部省唱歌では次のように歌っている。

 「富士の裾野の夜は更けて、宴のどよみ静まりぬ。
  屋形屋形の灯は消えて、あやめもわかぬ五月闇」

こちらは真っ暗で何も見えないような状態だったようだ。

本間祐編『超短編アンソロジー』(ちくま文庫)に、小泉八雲の『狂歌百物語』からの歌が載っていた。

 これやそれとあやめもわかぬ離魂病 いづれをつまと引くぞわづらふ

離魂病とは今でいう夢遊病のことだろうか。妻の顔もわからぬとは記憶喪失でもあるのだろう。

誰だか彼だか顔がわからない夕闇のことを「誰そ彼」の意味で「たそかれ」という。

 五月雨のたそかれ時の月影のおぼろげにやはわれ人を待つ  凡河内躬恒(玉葉集)

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「群馬の習俗」


28日の午前中に受信圏内にある群馬テレビで、予定されていたスポーツ番組が雨で中止になったので『群馬の習俗』という2時間の記録映画を放送していた。
昭和30年代後半ごろの映像と思われるが、活字でしか知らなかったちょっと前までの日本のどこにでもあった年中行事などが実写の映像でたっぷり紹介されていた。最初の20分くらいを除いて録画し、あとでゆっくり見ることができた。

録画できなかった部分のうち、録画スイッチを押す直前の数分のあいだに見ることができた映像に、3月3日の子供たちの行事があった。村の数人の子供たちが集まって、春の陽射しの中で自分たちで煮炊きをして、ちゃぶ台をかこんで食事をする風景である。秋田のかまくらに似ているが、子供たちの周囲には、60センチほどの高さに平たい石を積み上げて、石垣の囲いを作っていた。
春先の3月ごろに村の子供たちが集まって、春の野菜などを煮炊きする行事は各地にあったというが、戦後はお菓子をいただいて食べるだけになったところもあったらしい。新年の鳥追いや、春の若菜摘みなどと共通するものなのだろう。
祝日の「子供の日」は3月3日にしたほうが良かったような事例はたくさんあったらしく、5月5日はいわば「成人の日」のような行事が多かったらしい。

旧暦10月の「とおかんや」は、埼玉県秩父地方のとおかんやと、唱え言葉も含めてほぼ同じようなやりかたである。藁鉄砲といって、わらを棒状に作り、それを振り回すように地面をたたくことについて、地中のモグラを追い出して来春の麦の豊作を祈るのだというナレーションがあったが、内容が具体的すぎるので近世の解釈なのではないかと思うが、調べてもよくわからない。収穫を終えて田の神の神送りの行事に関連するものだろうとは言われている。

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