イザナギプレート

地球上の大陸や島々は、プレートと呼ばれるものの上に載って僅かづつ移動しているそうだが、日本列島は、ユーラシアプレート、北アメリカプレート、太平洋プレート、フィリピン海プレート、以上4つのプレートが入り組んでいるらしい。
その昔には、イザナギプレートと呼ばれるプレートも存在したらしい。


「西田のホームページ」の「中央構造線」のページが詳しい。
http://www.nishida-s.com/main/categ3/mtl-nagano/index.htm
上記を参考に、まとめてみた。

1億8000万年前、ユーラシアプレートの東端に、細長い山脈状のものができた。これは後の日本列島の中央構造線以北の部分である。そのすぐ東には別のプレートが接し、これがイザナギプレートである。場所は今の日本海のあたり。
1億3000万年前、位置でいうと今の九州から南西諸島以南の位置に、日本列島の南側に相当する山脈状のものができた。これはイザナギプレートの西端の上であり、プレートの移動により北上してゆく。
7000万年前、プレートの移動により2つの山脈状のものがつながり、日本列島の原型ができた。このときの接合部分が、中央構造線である。日本海はできていなかった。
2500万年前、イザナギプレートはユーラシアプレートの下にもぐりこんで消滅し、太平洋プレートとフィリピン海プレートが押し寄せてきて、日本海溝と琉球海溝ができた。さらに大陸が割れて日本海ができ始める。
1450万年前、日本海が広がり、北からは北アメリカプレートが押し寄せてオホーツク海も広がり、北海道東部がくっついて、ほぼ日本列島が完成した。ただし東日本はほとんど海中だった。日本海が広がるときに、直線状の列島が弓なりになったため、列島中央にフォッサマグナが陥没した。フォッサマグナは西関東と甲信・上越地方あたりで、西端が糸魚川-静岡構造線になる。
800万年前、東日本が隆起し始める。北アメリカプレート上の千島列島が北海道に衝突して日高山脈が隆起する。
500万年前、南からフィリピン海プレート上の伊豆半島が本州に衝突して半島となる。
1万8000年前、氷河期で海面が下がり、日本列島は大陸と地続きとなる。その後、海面が上昇し、現在の日本列島となる。

以上であるが、要約に間違いがあるかもしれない。また、どの時代にどの部分が海だったか不明の部分もある。イザナギテンプレートが消滅したころ、北アメリカプレートが東日本の下へもぐりこんだようだ。

一つ、気になるのは、「イザナギプレート」という命名である。地底の国といえば、日本の神話では、根の国、黄泉の国であり、黄泉大神(よもつおほかみ)とはイザナミの命のことである。「イザナミプレート」でも良かったのかもしれない。
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藤原宮の運河

昨日の新聞で「藤原宮に大規模な運河跡」という記事があった。ネットからも見られる。

「日本最初の都市計画に基づく都、藤原京(奈良県橿原市、694〜710)を造営するために資材を運んだとみられる運河跡が、中心部の藤原宮跡を南北に走り、総延長500メートルに及ぶ大規模なものであることがわかった。奈良文化財研究所が24日発表した。北東に延びる支線と推測できる溝も見つかった。同研究所は「運河は網の目のように張り巡らされていたのではないか」と推測している。 」
http://www.asahi.com/national/update/0924/OSK200809240116.html

記事の後半にある、近江国田上山から材木を運んだ民の歌とは、次の歌のことだろう。

安治ししわご大君、高光る日の皇子、荒栲の藤原が上に、食す国を見し給はむと、大宮は高知らさむと、神ながら思ほすなべに、天地も寄りてあれこそ、石走る淡海の国の衣手の田上山の、真木さく桧の爪手を、もののふの八十宇治川に、玉藻なす浮べ流せれ、そを取ると騒く御民も、家忘れ身もたな知らに、鴨じもの水に浮きゐて、わが作る日の御門に、知らぬ国、寄りこし路よりわが国は常世にならむ、書フミ負へるあやしき亀も新世と、泉の川に持ち越せる真木の爪手を、百足らず筏に作り、上ぼすらむ、勤はく見れば、神ながらならし(万葉集巻一 50)

宇治川から藤原宮まで運河でつながっていたということになるのだろうが、
運河については、他に思い当たる万葉歌がある。

 大君は神にしませば、赤駒のはらばふ田居を、都となしぬ(大伴御行 巻十九 4260)

詞書に壬申の乱の後の歌とあり、大君とは天武天皇のことで、都は藤原宮である。従来の解説では、赤駒は農耕馬で、田を都とするほど大君の威力は絶大なのだという意味だといわれていた。

しかし、運河の風景を詠んだ歌なのではないかと思った次第。
藤原宮に井桁のように張り巡らせた運河は、田のように見えたであろうし、運搬のために運河に馬が入ることもあったようで、水深は馬の腹まであったということになる。馬が腹這うように見えるほどの深さの田というのは、現実的ではないのではなかろうか。

ともかく、藤原宮は運河と水の都であったらしい。

 大君は神にしませば、水鳥のすだく水沼を、都となしぬ(同 4261)

★2018.8.4 補足
http://center.miggy.jp/history/question/486
大学入試センター試験のページによると、大伴御行の「赤駒」の歌は、「都の造営を詠んだ万葉歌」として大学入試験問題に出題されていることがわかった。資材運搬のための馬と見るかどうかは不明ではあるが。
以下は上記URLより引用。
都の造営
古代の都の造営を詠んだ次の万葉歌?T〜?Vについて,古い歌から年代順に正しく配列したものを,下から一つ選べ。
?T 大君は神にしませば赤駒の腹ばう田居(たい)を都と成しつ
(神格化された天皇による造営事業をたたえた,大伴御行の歌)
?U 昔こそ難波いなかと言われけめ今は都引き都びにけり
(天武朝に造られた都を,約半世紀ぶりに改修した,藤原宇合の歌)
?V 今造る恭仁の都は山川のさやけき見ればうべ知らすらし
(橘諸兄政権の下,この地に遷都されたことを喜ぶ,大伴家持の歌)
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合併後の新市名

楠原佑介著『こんな市名はもういらない!』(東京堂)は、2003年4月の発行で、今回の合併ラッシュをひかえての危惧から書かれたと思われる。その内容は妥当なことばかりで、「歴史的・伝統的地名保存マニュアル」の謡い文句も誇大宣伝には思えない。実際の合併での新市名決定に際しこういった本が参考にされたこともあったとは思うが、それでも新しい地図で奇妙な地名を見ることも少なくない。

悪い新市名の代表例に「さいたま市」や「南アルプス市」があげられ、3つの点で問題ありという。

1つは、むやみな、ひらがなやカタカナの使用。(外国語は論外)

2つは、狭い地域による広い地域の地名の使用。県名としての埼玉を小地域が使用したものであり、南アルプス国立公園も3県にまたがっている。(逆に広い地域の地名に、中心部の狭い地域の地名を使用するのは普通のことなので問題ない。)

3つは、離れた全く別の地域の地名(埼玉郡、行田市埼玉)を別の市が名のること。また今の南アルプス市の中心部は富士川釜無川流域にあり、国立公園地域はまったくはずれのごく一部だけであるような例。

まったくその通りなのだろう。本の発行後にできた関東地方の新地名を見てみた。(採点を「◎、○、△」で示す)

茨城県の新市名
◎ 桜川市(岩瀬町などが合併、市内を流れる桜川は謡曲でも知られる)
○ 行方市、稲敷市(郡名、範囲に問題がなければ○)
△ 坂東市、常総市、かすみがうら市(広域を意味するはずの地名)
△ 小美玉市(三町村名から一字づつ)、つくばみらい市(不明)
栃木県
△ 下野市(旧国名)、那珂川町(茨城県へ流れる川の名)
△ さくら市(不明)
群馬県
○ 東吾妻町(東村と吾妻町が合併)
△ みどり市(不明)
埼玉県
? ふじみ野市
千葉県
◎ 香取市(佐原市ほかで合併、郡名であり香取神宮の名でもある)
○ 横芝光町(横芝町+光町、連称)、匝瑳市、山武市、いすみ市(以上郡名)
△ 南房総市(南の安房+北の上総下総で房総、その南部だから南房総?)
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古い地図

昨年末に書店で普及価格の地図帳を購入。市町村合併後の地図だった。
現代の日本地図をあらためて眺めてみると、30〜40年前のころとくらべて地形の変った部分がある。
秋田の八郎潟はほとんど干拓され、千葉県の印幡沼も同様で小さくなっている。東京湾も埋め立てが進んで御台場という島もなくなり、大阪湾も同様である。

古い時代の史料をもとに作られた奈良時代以前の地図を見れば、さらに違いが大きい。

大阪平野は、内陸が深い入江となっていて、北方向に半島が伸びて入口は狭い。半島の先端が、大阪城や仁徳天皇の高津宮があったあたりである。入江は古事記では草香江とも呼び、生駒山のふもと近くまであって、そこへ神武天皇が最初に上陸しようとして失敗している。菅原道真は九州下向のときこの海を船で南に進んで道明寺天満宮(藤井寺市)に立ち寄ったという伝承がある、大和川もこの入江に注いでいた。

関東平野では北浦、霞ヶ浦から、印幡沼も含めて、群馬県東部に至るまで、ヤツデの葉を横に引き延ばしたようなかたちの長大な入江のようなものが続いていたらしい。平将門が新都を築こうとした場所はその「水郷地帯」のほぼ中央にあたる。東京湾も埼玉県の浦和あたりまで「浦」だったらしい。在原業平が隅田川で都鳥の歌を詠んだ場所は埼玉県春日部付近だともいう。

大阪湾には、奥州松島のように島がたくさんあったらしく、そこで天皇の八十島祭が行なわれた。しかし平安時代末期には島が陸続きとなってしまったために祭は中止になったという。平安時代中期に最も海面が下がったということだろうか。関東では平将門のあと、熊谷市北部の利根川べりの妻沼の歓喜院という寺の開基は源平時代の斎藤実盛だといい、その時代は川の水量もかなり減って利根川岸にも人が住めるようになったのかもしれない。

名古屋の西の熱田のさらに西にも内湾があったらしく、東海道で桑名までは江戸時代になっても陸路はなく、船で渡った。七里の渡しといったらしい。近世以後も海岸線は後退しつづけているということだろう。
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群馬県の近戸神社

鈴木繁『群馬よもやま俗話』(あかぎ出版 2004年)という本のなかに、「赤城信仰の背景」と題した一章があり、有名な赤城山の赤城神社のほか、近戸神社という神社がいくつか紹介されています。

前橋市大胡町 大胡神社 大胡城の鎮守で「近戸大明神」と言っていた。

勢多郡粕川村深津 近戸神社
聖武天皇の時代に小野綱手が城の鎮守として祭った。坂田城址や、鳥山御殿という館址がある。
……やはり城の鎮守となっている

前橋市上増田町 近戸神社
推古天皇の御代に赤城神の告げていうのに、「われ大明神は天に在って相生神で男星である。この国の人はわが名を磐筒男命と呼んでいる。この赤城山は内宮であり、水海に近きところは外宮である。汝、科野(信濃)大神の告げによって田を開かせる。よって先ず外宮である近外山(近戸)の神を祭るべしと」
……外と内、という対比になっている。
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市町村合併と消えた地名

福島県の東南端の棚倉町を訪れたときのこと、地図に「八槻(やつき)」とある地名の場所に車で差しかかると、商店の看板などに「近津」という文字があちこちに見えるようになりました。近津は地名のようにも見えますが地図にはありません。しかしよく地図を見ると、JRの駅名に「ちかつ」とありました。

あとで調べてみると、この地域は、戦後に棚倉町に編入される以前は、「近津村」と言っていたようです。それで近津小学校もあれば近津郵便局もあったのでした。
この近津村も、明治時代の町村合併で初めて出来た村です。八槻のほか「寺山、手沢などと相合せて近津村と改む。近津宮のあればなり」と地名辞書にあります。近津宮とは、明治に都都古別神社と名を改めた古社のことです。都都古別神社は延喜式のころからの由緒ある名前なのですが、近世の繁栄をもたらした近津の名も惜しいものがありますから、村の名で残ることになったのでしょうか。近津の名は、明治の新しい村名ですがそれ以前の古い由緒を伝える地名でもあったのです。

近津村のように、今は地図から消えてしまった地名は少なくありません。坂口安吾の飛騨高山についての随想を読んでいたら、いくつもの出てくる地名が気になり、地図で調べたところ、ほとんど載っていなかったことがあります。執筆されたのが昭和20年代ですから、書かれた地名はその当時の村名であって、30年代以後に合併のために村がなくなったのだろうと思います。

最近また「平成の大合併」などと旗が振られ、またも多くの地名が消えつつあります。

ところで、今の大字の地名の大部分は、明治以前には村の名前であり、ほとんど室町時代から変らないというところが多いそうです。エッセイなどで「○○市の稲荷神社」と書いても将来はわからなくなるでしょうから、「○○市大字△△の稲荷神社」と書くのが良いと思います。大字の名前がもし「△△町何丁目」に変わったとしても、それでわからないことはありません。しかしそれには大字の名を町名に残しておいてもらう必要がありますけれども。
対等合併で新しい市の名前で困ったときは、「近津村」の例も参考になると思います。

玄松子さんという人は、地名変更によってホームページ内の地名表記を一つ一つ訂正しているそうですが、「神話浪漫館諸国編・歌語り風土記」は未定です。
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オノゴロ島

「島」とは、どんなものをいうのでしょうか。
広辞苑によると「周囲が水によって囲まれた小陸地。成因上から火山島・珊瑚島・陸島などに分類」とあります。
私などのように関東の二大河の利根川と荒川の接近した地域に住んでいると、大字の名前などで「〜島」という地名が実に多く、遥か古代にはこれらの川は想像を絶するような広い川幅の中に沢山の島々があったのだろうと、以前は思っていました。

けれど「周囲が水によって囲まれた」というような外から客観的な形状を眺めるような態度で古代の人が見ていたかというと、そんなことはないのでしょう。広辞苑の説明はあくまで地学などの自然科学による見方です。
月の形でいえば、十六夜(いざよひ)とか二十三夜待ちとか、日本人は、その満ち欠けの形よりも月の出の時刻に注意を払っていたことがわかります。つまり、十六夜とは日没から月の出までの半時余りの闇夜を神秘なものと見たものですし、二十三夜待ちとは下弦の月が出る夜中の12時ごろを待つ宵待ちのことです。

島についても、形ではなく時間の流れ、地形ですからかなり長い年月の流れになりますが、そういうふうに見ると、島とは、
古い時代に水の底だった土地が、歴史の経過とともに陸地となっていった土地
と定義するのが良いように思います。これが島の定義といっていいと思います。

長い年月の間に、川の流れが変化したり堆積によって「洲」ができます。「洲」をシマと読むのは、日本の国のことを「大八洲(おおやしま)」といっていたことでもわかります。では日本の国は、水の流れの堆積によってできたのでしょうか? じつは、そうともとれるような話が古事記にあります。 

古事記によれば、イザナキ・イザナミの命が結婚して、最初に出来たオノゴロ島は、もとは海水だけがあった所に、二神が天上から「あめのぬぼこ」という鉾(ほこ)を差し下ろして水を掻き回したら、鉾の先から塩がしたたり落ちてできた島だといいます。オノゴロ島も、元は水底だった場所が陸になった場所という意味では、前述の「島の定義」と食い違いはないのです。

かつて海の底だった土地が長い歴史とともに海水が引いて陸地となったような土地もあるでしょう。地名の中には、長い年月を経て受け継がれた記憶から名づけられるものも多いでしょうし、代々受け継がれた人々の記憶は、自然を主人公にした一つの物語に形作られて、地名に結実していったこともあったかもしれません。ここでいう自然とは神々のことでもあります。さらにはその土地でおきた歴史上の人間の物語も地名に篭めらることもあります。
和歌の修辞法である枕詞についての解説によると、「空みつ 大和」など枕詞は地名に付くのが古い形であり、古い物語を伝えるためのものであると言われるのですが、上に述べたような理由もあるのかもしれません。
そうやって、歴史は一歩を踏み出して行ったのでしょう。

 あしゆびもおのころ島をはなれねば、わが思ふこと、おほよそ虚し  釈迢空
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