回文歌

回文番付昭和初年講談社発行の教養全集という本に、いくつか回文歌が載っていた。作者は不明。

上から読んでも下から読んでも同じ文句・回文番付
蒙御免
行事
 長き夜の 遠の眠りの 皆目ざめ 浪乗船の 音のよきかな(宝船の歌)
 惜しめどもつひに何時もと行く春は悔ゆともつひに何時も止めじを
横綱
 くさぐさの名は知らぬらし花守も名は知らぬらし花の咲く咲く
 桜木の問ひし香りは 花の園 縄張り犯し人の気楽さ
大関
 とく立たじ里の竹むら雪白し消ゆらむかたの戸さじ叩くと
 眺むらむ門を問ひなば草に木に咲く花人をとがむらむかな
関脇
 みなの川伝へつながれもつしきし積もれかなつへ立つわかの波
 むら草に草の名はもしそなはらばなぞしも花の咲くに咲くらむ
小結
 むら草の名は知らぬすらこの庭に残らず濡らし花の咲くらむ
 紫もついやれつつぞをなの身の名をぞ綴れやいつも着ざらむ
前頭
 むらしはて見つつ摘み草名は知らじ花咲く見つつ摘みて走らむ
 村鳥は離れ立ちもす枝に葉に絶えずもちたれ縄はりとらむ
(以下略)
勧進元 紫会

江戸時代後期の奥州仙台に、回文の名手として知られた、仙代庵という風流な人がいた。回文の名手 仙代庵
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逢坂の関

蝉丸宮関大明神(伊勢参宮名所図会)京都にいちばん近い関所は、近江国へ抜ける逢坂(オウサカ)の関である。平安時代の初めここには盲目の琵琶法師、蝉丸が住んでいたという。百人一首に歌がある。

  これやこの、行くもかへるも別れては、知るも知らぬも逢坂の関  蝉丸

 (行く人も帰る人もここで別れ、知る人も知らぬ人もここで逢い、逢っては別れ、別れては逢うという逢坂の関は、これである)

江戸時代の伊勢参宮名所図会によると、関の東西に蝉丸宮二座がまつられ、関守神というが、蝉丸宮の名は近世に言われるようになったという。

 もみぢ葉を関守神に手向け置きて逢坂山を過ぐる木枯らし 実守(千載集)
 鳥居立つ逢坂山の境なる手向けの神よ、我ないさめそ   仲正(扶木抄)

関の手前で旅人は関守神に手向けをして旅の安全を祈った。手向けの品には幣(ぬさ、木綿の束など)が奉られることが多かったらしいが、歌を手向けることも重要なことであった。こういう場所の山は一般に手向山と呼ばれ、逢坂山もそう呼ばれたことがあったらしい。

伊勢参宮名所図会の話にもどると、「昔関所ごとに神祠を置けり。市に市姫の神、橋に橋姫の神を祭るがごとし」というが、関守神の具体的な固有の名は出てこない。しかし市姫や橋姫も固有名詞ではないのだろう。ただ少なくとも関守神は、市姫橋姫たちと同様に、境をまもる神、異界との橋渡しをしてくれる神であることは理解できる。関守神は、関戸明神、関の明神ともいう。

蝉丸宮と呼ばれた社は、今の滋賀県大津市逢坂1丁目の関蝉丸神社のことだろう。「当神社ハ嵯峨天皇御宇弘仁13年3月近江守小野朝臣岑守逢坂山ノ山上山下ノ二所ニ分祀シテ坂神ト稱奉ル是レ当社御鎮座ノ起源ナリ」という。祭神は「(主神)豊玉姫命 道反大神 (合祀)蝉丸 (主神)猿田彦命 (合祀)蝉丸」 とあり、上社と下社の祭神を続けて記したものと思われる。
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安宅の関と住吉の神

NHKドラマの『義経』で、安宅の関の場面をやっていた。歌舞伎の『勧進帳』でも有名な場面である。番組の最後に史跡案内が短く紹介され、安宅の関の址、その近くには安宅住吉神社があるという。
安宅の関も神社も海べりにあり、住吉の神といえば昔から海上交通の神である。

しかし「関」と呼ばれるような場所に住吉の神がまつられる例は、他にもあった。奥州街道の白河の関、そして関所はなかったが、中山道の美濃・信濃の境の神坂峠(8/27 峠の神の伝説と歌の神 参照)である。
船の交通の要所の神であったものが、だんだん陸にものぼって山や峠の難所にもまつられるようになったということだろう。そして難所の神は歌の神でもあったのである。

安宅住吉神社はいわゆる延喜式内社ではないようだが、安宅の関は延喜式にも載り、源平盛衰記には「安宅関住吉浜」とも書かれているらしい。しかし所在がわからなかった時代も長く、古い和歌には読まれていないようだ。
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つくもの物語

どこからメモしておいたのか忘れたが……たぶん『国文学』という雑誌かもしれない……、「つくもの物語」という話。

よく熟した柿が一つある。動物たちが集まって、誰が食べるべきか話し合うが、年齢の高い者が食べるのがよいということになった。
鷺は、「みそさぎ」といって、三十。
鴫は、「よそしぎ」といって、四十四。
鳩は、「やへはと」といって、八十。
蜘蛛が、「百年に一年足らぬつくも(九十九)」といって、一番となって柿を食べたという話。

意味はよくわからないのだが、イソシギやイヘバトなら今の辞書に載っている。

 百年に一年足らぬつくも髪。我を恋ふらし。面影に見ゆ  伊勢物語

この歌は白髪の老女に恋われた在原業平が詠んだものである。
「つくも」とは「つくも草」のことで、老女の白髪のように見えるらしく、そこから老女の白髪を「つくも髪」というのだそうだ。
「つくも」は「つぐもも(次百)」の縮まったもの、次が百とは、九十九のことだから、九十九と書く。百に一つ足りないというわけで、百という漢字から一を除くと「白」となり、白髪のこと。さて草の名が元なのか、漢字の白が元なのかよく解らない説明だ。
九十九才のお祝いは白寿である。「お前百まで、わしゃ九十九まで、ともに白髪のはえるまで」とは女性の歌う民謡である。「共白髪」とは結納品で麻緒をたばねたものをいう。

美男で知られる在原業平に、老女が恋するとは奇妙な話かもしれない。しかし老女の恋は、古事記に、雄略天皇に恋した引田部の赤猪子(アカイコ)の話がある。赤猪子は志都歌(しづうた)を歌う巫女で、雄略帝を若返らせる歌を詠んだ。在原業平の色好みというか若々しさも、つくも髪の老女によって祝福されたものなのだろう。
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辞世の歌(太田道潅、ほか)

秋を思いながら、『日本故事物語』(池田弥三郎著)の「もの言えば唇寒し」の項を読んでいると、辞世の歌に話が飛んでいた。

  かかる時、さこそ命の惜しからめ。かねてなき身と思ひ知らずは  太田道潅

太田道潅が討ち死にのとき、槍でからだを突かれた状態で詠んだという。池田氏は「誰かが書き留めてやったのだろう」という。武士の情けでそういうこともあったかもしれない。しかし氏の言葉はどうも懐疑的なニュアンスである。懐疑的というのは後から他人が作って伝わったものだろうという意味。
ほかに石川五右衛門、浅野内匠頭の辞世のあと、吉田松陰の歌の話になる。

  身は、たとへ武蔵の野辺に朽ちぬとも、とどめおかまし。大和魂  吉田松陰

「気の毒に文法の誤りがある」という。「まし」は反実仮想の助動詞なので意味が逆になってしまうと言われてみれば、その通り。「まし」を使った歌に、万葉集の石川郎女が大津皇子に答えた歌がある。

  わを待つと、君が濡れけむ足引きの山の雫にならましものを  石川郎女

私を待って君は濡れてしまったという。せめてその山のしづくに私はなりたかった(なれなかったけれど)という意味である。吉田松陰の歌は「大和魂を留め置きたかった(現実は留め置けなかったけれど)」となって、おかしなことになる。「気の毒に文法の誤りがある」というのは誰が気の毒かというと、吉田松陰その人であろう。やはり本人の歌ではなかったようだ。

実はこのような後世の人が作ったであろう伝説の歌は数限りなくある。「歌語り風土記」に載せた歌の中にも多い。しかし語りつがれる伝説の中でこそ歴史物語は生き、時代という客観性すら与えられるものなのかもしれない。


2011-9-27 「辞世の歌(太田道潅、吉田松陰)」を「辞世の歌(太田道潅、ほか)」に改題。
本人の作でない伝説歌にこそ価値があるというテーマです。
テーマとは関係なく本人の作でなければ無価値であるという先入観に基づくコメントが目立ちました。1つ1つはイエローカードでも連続させればレッドカード(迷惑行為)であると判断し(少なくともキーワード「太田道潅」での検索順位が下がります)、削除したコメントがあります。
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春と秋とどっちが良いか?

春と秋とどちらが良いかとは、今の日常会話でも話題になる。
万葉集巻一に額田王の有名な歌がある。

  冬ごもり春さり来れば、
  鳴かざりし鳥も来鳴きぬ。咲かざりし花も咲けれど、
  山を繁み入りても取らず。草深み取りても見ず。
  秋山の木の葉を見ては、
  黄葉をば取りてそ偲ふ。青きをば置きてそ歎く。
  そこし珍らし。秋山われは

春がくればそれまで鳴かなかった鳥も鳴き、咲かなかった花も咲くが、山は繁り草は深いために、入って取ることも見ることもできないという。
秋になると、山は紅葉し、紅葉を取っては思い、青い葉はそのまま置いては歎き、そういう秋の山は愛でるべきものであるという。
「山を繁み草深み」とは立夏を過ぎた時期にあたるようであり、そこまでを「春」に含めるのだろう。

手に取ることもできない高嶺の花では価値が解らないという率直な判断である。春と秋を対比させること自体に外来思想の影響が見られるとの評釈もあるが、判断内容は、人間世界から切り離されたところで抽象的な論理を組み立てるのではない日本の古代の発想なのだろう。

引用の歌は折口信夫『口訳万葉集』によるが、他の本では最後の1行が「そこし恨めし秋山われは」となっていることが多いと思う。
9月20日に引用した歌
「物皆はあらたまりたり。よしゑ、ただ、人は、古りにし宜しかるべし」は
「物皆は新しき良し ただしくも人は古りにし宜しかるべし」となっていることが多い。

万葉集は個人的に20年以上前に全ての歌をタイプして保存しておいたものからコピーしています。折口信夫は没後50年が過ぎて著作権が消滅したようなので、私のファイルを希望者に配布する用意もあります(ただし詞書を略してタイプしたものです)
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手鞠唄、数え唄

こんな手鞠唄があるそうです。

一番始めは一の宮、
二は日光の東照宮、
三つ三河のお稲荷さん、
四はまた信濃の善光寺、
五つ出雲の大社、
六つ村々鎮守様、
七つ成田の不動様、
八つやはたの八幡宮、
九つ高野の弘法様、
十で東京招魂社

ある人の話では手まり唄以外の遊戯唄として同じ歌詞で歌われることもあるそうです。
「東京招魂社」とは、明治2年に東京九段に創建された神社のことで、その10年後には「靖国神社」と名を改めた神社のことです。歌のできた年代もそのころなのでしょう。
そこで一つ作ってみました。

一は 稲荷の狐さま
二は 鶏 お伊勢さま
三は 山王 お猿さん
四は 鹿の住む 春日さま
五は 牛頭天王 八坂さま
六つ ムカデは 聖神社
七は 
八は 八幡 鳩が飛ぶ
九は 熊野の やたがらす

動物と神さまの関係を読んではみたのですが、七ができていません。
神使として有名な動物で残っているのは、蛇や竜がありますが……
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峠の神の伝説と歌の神

奥州街道の白河の関所の付近を道路地図で見たら、福島県と栃木県の県境に、「境の明神」という神社が記載されていた。地図をよく見ると福島県側なので「平成祭データ」で調べると、「福島県白河市字明神前 境神社」とある。けれどそれ以上の記述はなく、この資料で記載が少ないのは小規模の社であることが多く、そのような社なのだろうと思った。

その後、和歌山市にもある玉津島神社の分布を調べたとき、栃木県那須郡那須町寄居に、「玉津島神社 通称 境明神」という神社があることがわかった。地名辞書で調べると、奥州街道の下野と奥州の境の南北に2つの「境の明神」という小祠があるらしい。今の境神社と玉津島神社のことだろう。

和歌山市の玉津島神社は、平安時代から「和歌の神」としてよく知られる。歌枕にもなり、都の雅びな人に好まれ、多くの歌が詠まれた。そんな神社が、なぜ辺鄙といわれた奥州の入口に祀られるのだろうか。だが、その理由は難しいことではない。
もともと関所のおかれたような峠や湊では、土地の神に通行を許してもらうための歌が詠まれたのである。役人のいる関所に限らず、峠や交通の要所などでは、土地の神をたたえる歌を詠まなければ通してもらえなかった。「歌語り風土記」には、そのような歌がおそらく数百単位で載せてある。なかでも紀貫之が玉津島神社参詣の帰りに、和泉国の蟻通明神で馬が動かなくなったときに詠んだ歌は、こんな歌である。

  かき曇りあやめも知らぬ大空に有りとほしをば思ふべしやは  紀貫之

暗く曇った空にも有ると、星のことを思うべきだ、という意味の歌だが、「有りと星」とは「ありとほし(蟻通し)」を掛けている。単に「ありとほし」の名を巧みに詠み込んだだけの歌と見てしまいがちだが、このような歌を神に奉納しなければ通れない場所だった。
もう一つ、峠の神にものを手向けた有名な歌。菅原道真が上皇の吉野行幸に従ったときの歌である。

  このたびは幣も取りあへず、手向山、紅葉の錦、神のまにまに  菅原道真
  (この度の旅には手向の幣はあへて供へません。といふのは、この山の見事なもみぢ葉に優るものはないからで、どうぞこの紅葉の葉を御心のままにお受取り下さい)

峠(たうげ)という言葉は、「手向(たむけ)」という言葉が音便化した言葉であり、神に手向けをしなければならない場所という意味である。手向けるものの中で特に重要なものの一つに、歌がある。

白河の話にもどって、荻上紘一氏がこんなことを書かれている。
「白河の関は2箇所にあったので「二所の関」といわれている。片方だけ訪ねたのでは片手落ちになるので、そのもう一方といわれる栃木県との県境にある「境の明神」にも行ってみた。玉津島神社と住吉神社が並んでいるが、福島県側には「福島県側が玉津島神社、栃木県側が住吉神社」と書かれており栃木県側には「栃木県側が玉津島神社、福島県側が住吉神社」と書かれている。一体どうなっているのだろうか。」http://svrrd2.niad.ac.jp/faculty/ogiue/tabinikki/nasu.html

白河市には「住吉神社」という名の神社は前述の資料にはなく、この「住吉神社」とは冒頭に述べた「境の明神」のことだろうと思う。住吉の神は海上交通の神ともされるが、玉津島の神と並ぶ「和歌の神」でもある。柿本人麻呂をまつる柿本神社を加えて「和歌三神」ということもある。それはともかく、境の神として住吉神社が祀られるのも、歌の神だからなのだろうと思う。

中山道の信濃から美濃へ越える神坂峠(みさか)は、日本書紀によるとヤマトタケルの尊が難儀した場所である。、尊は白狛に導かれてこの峠を越えることができたという。この白狛は神坂社の使だという(似た話は埼玉県の三峰神社にも伝わる)。神坂社は長野県下伊那郡阿智村大字智里字杉ノ木平にあり、通称「住吉社」とも呼ばれ、表筒男命以下の住吉三神を祭神としている。ある本では、宗像系の安曇族が通過した跡だからこの神が祭られたのだろうと書かれるが、しかし峠を通過した部族は数知れず、ここは素直に「歌の神」だからとしたほうが良いだろう。
(この文の主要部分は半月前の発想だが、神坂峠の例を知って確信が持てたので、書上げてみた。峠に祭られる歌の神の例は、探せばもっと出てくるだろう)
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女帝とその御製

33代 推古天皇(592〜628年)
在位が長く聖徳太子には譲位されませんでした。大臣の蘇我氏を褒めた御歌です。

  真蘇我(まそか)よ 蘇我の子らは、馬ならば日向の駒、太刀ならば呉の真刀、
  宜(うべ)しかも 蘇我の子らを、大君のつかはすらしき

35代 皇極天皇(642〜645年)37代 斉明天皇(655〜661年)重祚
天智天皇に譲位するまでの間といわれましたが、在位は長かったようです。

  淡海路(あふみぢ)の鳥篭(とこ)の山なるいさや川、日(け)のこの頃は恋ひつつもあらむ

41代 持統天皇(690〜697年)
天武天皇から皇孫の文武天皇へ。律令制が確立した時代といいます。

  春過ぎて夏来たるらし。白栲(しろたへ)の衣乾したり。天の香具山

43代 元明天皇(707〜715年)
飛鳥を去り奈良へ遷都したときの御歌。

  飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば、君が辺りは見えずかもあらむ

44代 元正天皇(715〜724年)
橘諸兄に賜った御歌ともいわれます。

  橘は、実さへ、花さへ、その葉さへ、枝に霜降れど、いや常葉の木

46代 孝謙天皇(749〜758年)48代 称徳天皇(764〜770年)重祚
遣唐使を送る歌。

  四つの舟早帰り来と、しらがづくわが裳の裾に、斎ひて待たむ

109代 明正天皇(1629〜1643年)
歌が見つかりません。幼くして即位、若くして退位されましたが、退位後の御歌があってもよさそうですが……

117代 後桜町天皇(1762〜1770年)
良い歌が多いです。すでに近代文学といってもよいかも。

  直(す)ぐなるを心の友と植ゑそへてあけくれあかぬ園の呉竹
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辞世の歌(戯作者などの)

月おくれのお盆ですが、辞世の歌や句、なかでも戯作者のものや、頓知のきいた歌などを拾いだしてみました。

南無さらば妙法蓮華経かぎり  中村歌右衛門(初代)
  江戸の歌舞伎役者。経と今日をかけて今日かぎりというわけです。

死にたうて死ぬにはあらねどおとしには御不足なしと人やいふらん 朋誠堂喜三二
狂歌よむうちは手柄の岡持ちよ、よまぬだんでは日柄のぼた餅   朋誠堂喜三二
  江戸時代の戯作者で、手柄岡持(てがらのおかもち)の名で狂歌を詠んだ人。
  岡持は料理を入れる浅い桶のことで柄を手で持って運ぶもの。
  日柄は命日の意味。

この世をばどりゃおいとまにせん香とともにつひには灰左様なら  十返舎一九
  線香、灰をかけていますが、掛詞でかけるだけでなく、
  灰は実際にかける物、というところが上手いものです。

人ごみをのがれて見ればはなし塚   三笑亭可楽
今日の旅 花か紅葉か知らないけれど風に吹かれて行くわいな  都々一坊扇歌
  江戸時代の落語家と都々逸の元祖の人。自然体の歌です。

打出しの太鼓聞えぬ真打は、まだ二、三席やりたけれども    正岡容
  作家、演芸研究家。昭和前期に活躍の人。

  江戸時代と室町後期の僧の歌二首。
良寛に辞世あるかと人問はば 南無阿弥陀仏といふと答へよ   良寛
宗鑑はどこへと人の問ふならば ちと用ありてあの世へと言へ  宗鑑
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