寺請制度の直前

わが家にある最も古い位牌は、元禄年間の夫婦2柱で、柱の部分の観音開きを開いてみると、金箔の上の戒名が読めないことはない。お寺は数キロ離れた日蓮宗の寺によるものである。
その寺の僧が文化年間に前書を書いた過去帳には、月命日ごとに多数の戒名と没年が書かれるが、元禄以前の別の寺が関った戒名の脇には寺の名が記入される。室町時代の男子には、20キロほど離れた別の日蓮宗の寺が続き、同じ時代の女子の記録はない。江戸時代初期は、女子は全て近くの臨済宗の寺で、男子の一人も同じ寺だが、他の男子は日蓮宗の戒名と思われるが、室町時代からの寺のものと類似した命名である。室町時代初期の男子1名は臨済宗の寺である。

複雑に書いてしまったが、元禄以前はおおむね、男子と女子の寺が異なっていたような時代が長かった。大正時代の当主の書き残したものによると、室町時代に20キロ遠方から来た婿がそのように改宗したのではないかという。しかし室町時代に寺請制度があるわけではなく、男子と女子の寺が異なるのは、当時の時代には普通のことだったのではないかと、以前にある郷土史の小雑誌の投稿原稿の中にちらと書いたことがあったのだが、その内容が老母に不評だったのは、大正時代からの言い伝えなのでやむをえないのかもしれない。

宮田登氏が圭室文雄氏の研究を紹介しながら書いてあるものを読んでいたら、江戸時代初期の宗門人別帳は、お寺は個人ごとに別だった、家単位で一つの寺になったのは江戸中期以後だと書かれていた。江戸中期以後とは元禄以後のことだろう。「戸別帳」でなく人別帳というくらいなのだから、個人別という意味だったのだろうか。個人別といっても、その時代にはわが家では寺は2つだけでもあり、全くの個人ばらばらということでもなかったろうと思える。圭室・宮田両氏の共著『庶民信仰の幻想』は読んだことはあるが、この問題よりもキリシタンや日蓮宗不受不施派などのことが詳しく書いてあった(※)。

なぜ宗門人別帳が個人毎だったのかは、江戸初期といえども室町時代の続きなのだからだろうが、それ以上は不勉強である。寺請制度(檀家制度)の確立までは、政治の意向もあり一筋縄では行かなかったことは確かなのだろう。

(※蛇足 日蓮宗不受不施派の本拠地は岡山県にあったという。「神奈備にようこそ」の管理人さんが岡山県の江戸時代の資料で「神捨て場」のことが書かれていたといい、ある神社由緒資料で「淫祠」という語を検索したときも山陽地方が多かったのと、関係があるかもしれない。)
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千羽鶴

折紙5年ほど前に千羽鶴について調べたことがあるが、良い本がなかった。
平凡社世界百科によると、戦後、病気平癒の祈願を込めて普及したという現状のほかは、戦前の兵隊の無事帰還を祈った千人針との関連を指摘していた。虎は千里行って千里帰るとか、死線を越えるといった縁起が書かれてあった。戦前以前の千羽鶴については不明なのだが、吉川弘文館の日本民俗大辞典によると、折紙自体は平安時代からあったということだった。

最近ネットを調べたら、1797年(寛政9年)に伊勢国桑名の長円寺の僧による『秘伝千羽鶴折形』という本があることがわかった。千羽鶴という言葉は江戸時代からあったことになる。
この本では、1枚の紙から複数の鶴を折る「連鶴」の作り方が書かれ、多数の和歌も添えられている。和歌は艶っぽい恋歌も多いが、少女から老女までの、当時の女性の生活を意識したものになっている。
桑名市の公式HPの桑名の千羽鶴というページでは、折紙は平安時代ごろの熨斗(のし)の包み方などから発達したように書かれ、古く神事用の御幣との関連を想定している。

現代の千羽鶴については、類似の形状から、あるいは柳川や東伊豆そのほか各地の「つるし雛」との関連については興味深い。つるし雛は、繭玉飾りに似たもののように思える。
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縄文土器の魂

縄文時代の土器は、発掘された破片を組み合わせて復元を試みようとしても、必ずどこか欠落部分が生じるものだという。欠落部分は石膏などで補われて博物館などでよく見かける。

欠損部分のない縄文土器はほとんど見かけないことから、その土器が廃棄されたときに人の手で一部分がもぎ取られるように抜き取られたのではないかと、『古代甲斐国の謎』(新人物往来社、小野正文氏執筆部分)に述べられていた。
道具にも魂が存在し、魂を抜き取ってからでなければ廃棄はできない。その抜き取られた魂は、粉末にされて再び次の代の土器を作る粘土に混ぜられ、土器の魂も伝えられていったのではないかという。

青森県などで出土される縄文時代の土偶も、必ずどこか欠けた部分があるそうなので、これもまた魂を抜き取ることが行われたのではないかと思える。猟師が捕獲した動物の耳を切り取って山の神に捧げるというのも、山の神の霊を動物のからだから抜き取るためであるといわれる。
人が使う道具にも魂が宿っているという考えかたは、戦後の経済成長の中でほとんど失われてしまったかのように見えるが、それでも母屋普請のときには、古い柱の一部を、新築の屋根の梁や屋根裏などに使うということは今でも行われていると思う。家の建物の魂も、そうして代々伝えて行くことができるわけである。

同書によれば、古い石臼もよく砕かれて発見されるそうで、箒を燃やしてはいけないとか、民具の扱いの中にも、道具の魂を意識してきた生活がうかがえる。
ものを大事にするということは、「環境にやさしい」ということだけでなく、昔の心を大切にし受け継いで行こうということなのだとわかる。
国民慶祝のこのたびの新宮様御誕生の折りにも、皇室では幼児用玩具そのほか多くのものが代々修理して使われる習わしであることが報道されている。

さて今身のまわりのものを眺めてみると、パソコンがある。今年から使用しているA社のベアボーンなのだが、フロッピーディスクの部分はもう7、8年も使用している。DVDドライブも5、6年前からのもので、こういう使い方もまた良いのではないかと思った次第。
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トンボの国、秋津洲・日本

ふと、トンボを見かけるようになり、秋を感じる季節になった。

高知県では、初秋(旧暦)のお盆のころに現れるトンボは、先祖の霊であると信じられ、この季節に現れて子孫を守り、秋の稔りを約束して、山に帰って行くのだという。

というようなことが書かれた本があったのだが、トンボを先祖の霊と考えたのは、日本の各地でも同様だったらしい。
東北地方では、トンボを方言でダンブリといい、だんぶり長者の昔話が東北各地に伝わる。この話も、祖霊の恵みによって長者となったということなのだろう。

日本書紀によると、神武天皇が大和国の腋上(わきがみ)の地を訪れて国見(くにみ)をなさったとき、国を愛でて、「この国は、蜻蛉(あきつ)がつがったような形をしている」といわれたことから、日本を「秋津洲(あきつしま)」というようになったという。アキツとはトンボの古語とされる。季節ごとには祖霊が訪れ、恵み豊かな国という意味なのだろう。
古事記では本州の島のことを「大倭豊秋津島」と名づけている。

女性、とくに舞を舞う女性の、透き通ったような美しい衣装は、万葉時代には、トンボの羽にたとえられて「あきつは」と形容された。

 あきつ羽の袖振る妹を、玉くしげ奥に思ふを見たまへ、わが君  万葉集

一般に虫についての信仰や伝説には、吉凶両面のあるものが多いのだが、トンボについても同様で、万葉集には詠まれたのだが、平安時代以後(近世まで)は、歌の世界に現れることはなかったらしい。このへんのいきさつは、時間があったら調べてみたいところである。

西洋では、トンボは不吉な面ばかりが伝わる。あちらでは虫の声も雑音としか聴こえないという話もあり、迷惑な存在と見てしまうのだろうか。西洋の俗信では、子どもがうそをつくとトンボの尾の針で唇を縫われてしまうというのがあり、トンボに唇から美酒をそそいでもらった「だんぶり長者」の話とは好対照なのかもしれない。ドイツ語ではトンボの異名を「Wasserjungfer」といい「水辺の乙女」の意味であるというので、何か古い伝説はあるのだろう。
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叶福助

叶福助福を呼ぶという縁起物の福助人形の起源は、はっきりしないようだが、いくつかの資料を総合すれば、享和年間(1800-04)から文化元年(1804)までには、江戸で最初に売られ始めたらしい。
小柄で頭の大きな風貌のモデルは、摂津国の百姓の子であるとも、京都の呉服屋・大文字屋の主人であるともいうが、宮田登氏のよると(「庶民信仰の幻想」)、江戸吉原の娼家の大文字屋の主人だったともいう。

土の焼き物、または張り子で作られた福助人形は、小さな座布団の上に置かれ、大黒様のように棚や祠に祀られ、福を呼ぶ神として流行したという。

  今年よりよい事ばかりかさなりて、心のままに叶福助

という落首もある。「叶(かのう)」が福助の苗字なのだろう。

一部では女のお多福人形と並べて祀られたこともあったらしいが、福助そのものは子どものようでもあり、フクは火を吹くにも通じるのかもしれない。大きな頭は知恵の象徴のような気もしないではないが、当時はそういうイメージはなかったようだ。
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左と右

食卓の上には、左に御飯があり、右に汁物を置く。主食が左であることは、日本では左を優位なものと考えてきた歴史があるらしいからである(例外もあるが)。
一匹の魚は、頭を左にして置かれる。幼児に魚の絵を描かせると決まって頭を左、腹部を下に描くそうだ。人の肖像画も魚と同じ向きであることが多く、左頬を正面に向けて斜めに描かれることが多い。二人並んだ人物の絵では、二人がやや内側を向いて、魚と同じ向き----向って右に描かれた人のほうが、身分などの差がある場合は上であることが多い。日本史の教科書でよくみる源頼朝像は反対の向きだが、あの絵は二枚セットのもので源頼朝ではないという説が最近聞かれる。

「向って右」には、ひなまつりの雛壇では、左近の桜や左大臣が位置する。右近の橘や右大臣は「向って左」である。御内裏様から見て左なので左近の桜といい、左を優位なものと見るのためだが、昔の京都御所での配置も同様でそれにならったわけである。京都で左京区とは御所から見て左側方面のこと。神社の配置も同様で、一対の狛犬の口を開いているほうが社殿から見て左、閉じているのが右である。芸能の舞台でも、舞台から見て左を上手というが、しかしこれは「向って右」のことである。
ややこしくならないためには、地図や建物の配置図を思い描けばよいだろう。真ん中に縦の線を思い描き、右側を上位とみるわけである。神社の参道を歩くときは控えめにして下位の左側を歩く。結婚式では向って右が新郎側である。これは古代の婿入り婚で男性はお客様待遇だったことから来ているのかもしれない。

その新郎の左の傍らには新婦なのだが、雛壇の上の内裏様はどうだろうか。全体の配置から向って右を上位として内裏様、向って左にお姫様という考えも古くから根強い。一説によると昭和天皇の即位礼のときに天皇様の向って右に皇后様がお立ちになられたのが写真映像で庶民の目にするところとなり、それ以来それに習って関東などでは御内裏様を向って左に置くようになったというのがある。実は天皇陛下は向って左ではなく中央に立たれ、そこから見て左側に皇后様が立たれたのである。一番優位なのは左よりも中央である。しかし内裏様については、江戸時代の絵で内裏様を向って左に描いたのを見たことがあるのでなんともいえない。
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「群馬の習俗」

28日の午前中に受信圏内にある群馬テレビで、予定されていたスポーツ番組が雨で中止になったので『群馬の習俗』という2時間の記録映画を放送していた。
昭和30年代後半ごろの映像と思われるが、活字でしか知らなかったちょっと前までの日本のどこにでもあった年中行事などが実写の映像でたっぷり紹介されていた。最初の20分くらいを除いて録画し、あとでゆっくり見ることができた。

録画できなかった部分のうち、録画スイッチを押す直前の数分のあいだに見ることができた映像に、3月3日の子供たちの行事があった。村の数人の子供たちが集まって、春の陽射しの中で自分たちで煮炊きをして、ちゃぶ台をかこんで食事をする風景である。秋田のかまくらに似ているが、子供たちの周囲には、60センチほどの高さに平たい石を積み上げて、石垣の囲いを作っていた。
春先の3月ごろに村の子供たちが集まって、春の野菜などを煮炊きする行事は各地にあったというが、戦後はお菓子をいただいて食べるだけになったところもあったらしい。新年の鳥追いや、春の若菜摘みなどと共通するものなのだろう。
祝日の「子供の日」は3月3日にしたほうが良かったような事例はたくさんあったらしく、5月5日はいわば「成人の日」のような行事が多かったらしい。

旧暦10月の「とおかんや」は、埼玉県秩父地方のとおかんやと、唱え言葉も含めてほぼ同じようなやりかたである。藁鉄砲といって、わらを棒状に作り、それを振り回すように地面をたたくことについて、地中のモグラを追い出して来春の麦の豊作を祈るのだというナレーションがあったが、内容が具体的すぎるので近世の解釈なのではないかと思うが、調べてもよくわからない。収穫を終えて田の神の神送りの行事に関連するものだろうとは言われている。
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風が吹いたら桶屋が儲かる

風が吹いたら桶屋が儲かる」という小咄がある。
なぜそうなるかというと。
風が吹くとほこりが立つ。ほこりが人の目に入って失明する人が増える。すると三味線弾きが増え、猫の皮を使うので猫が少なくなる。そして鼠が増え、鼠が桶をかじるので桶屋に桶の注文が絶えないというわけである。

眉唾ものの論理解釈のたとえに、使われることもあるようである。
『国家の品格』(藤原正彦著)という本では、埃が立つ確率が何パーセント、目に入る確率が何パーセント、失明する確率が……というふうに、低い確率がさらに低くなって桶屋が儲かる確率は極めて低いという説明がされている。
しかし残念ながら「風が吹くと」以下すべての現象を、同一原理で価値を数値化して白黒を付けるというのはどうだろうか。いかにも今風の論理になる。

そこにはアスファルトのない土の世界や、医療の発達していない社会、目の見えない人が三味線弾きとなって生計を立てていた時代が見える。もちろん確率は低いのだが、「棚からぼたもち」のような意味合いでは今でも庶民には好まれる話である。

また自分がどうして儲かったかを自慢げに語る人の話というのは、そうは信用できるものではなく、他人からみれば風が吹いたらの話のように聞える。単に運が良かっただけのことを、さも自分の行ないの結果であるかのように説明しているにすぎないのだろうと。
金儲けに本気で熱中している人には、こういう話が楽しめなくなっているかもしれない。
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志ん朝の落語を聞く

古今亭志ん朝の40代のころの落語CDの解説(榎本滋民氏)を読むと、明治の中ごろまでは40代くらいの人を「名人」と呼んだ例はいくつもあったので、われらが志ん朝を名人と呼ぶことにためらいはないのだ、といった意味のことが書かれていた。明治の末以降からどうも老人天国的な風潮になってしまったようだという。そのようなことは何も落語家の世界だけに限ったことではないのだろう。

けれど明治の後半から昭和の前半にかけては名人にふさわしい人が多かったのだろうとも思う。古典落語の人情話の話の緻密さなどは、近代文学の時代だからこそ整えられていったような気がする。
『文七元結』という噺で、半年で50両を返済する約束をするというのは、江戸中期ではなく、明治の初めに1両を1円に切り替えたころの物価水準でなければ考えられない。明治の名人によって噺の形が整ったことの名残りなのだろうなどと思った。そうして明治の名人たちは老人となっても尊敬を集めたが、昭和の後半以後の時代では、どの分野でもともすれば老人天国的な弊害も生じやすくなったということなのだろう。

『御慶(ぎょけい)』という噺は、年末の湯島天神の富籤に当たった男が、羽織を買って着て元旦の年始回りに行くという目出度い話。道を歩いていたら向こうから恵方参りの帰りの知人に会うというのだが、その年の歳徳神の方位にあたる宮に参拝する恵方参りは、現在の知識では明治の初期に流行したものということになるので、そのころは富籤はすでに廃止されていたと思う。こういうのも明治の香りなのかもしれない。あまり野暮な歴史考証をしすぎても噺は面白くない。
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沖縄のシラとスデ水

3年前にブームになった菊池寛の『真珠夫人』という小説は、大正時代に書かれたものですが、葬儀の場面を次のように書いています。

「その美しい眼を心持泣き脹して、雪のやうな喪服を纏うて、俯きがちに、しほたれて歩む姉妹の姿は、悲しくも又美しかつた。それに、続いてどの馬車からも、一門の夫人達であらう、白無垢を着た貴婦人が、一人二人宛降り立つた。」

「雪のやうな喪服」「白無垢」、葬儀での喪服は白だったことがわかります。黒になったのは服装が時代とともに洋風化されていったためでしょう。
「白」は再生・生れ変わりの色と意識され、死もまた魂の生れ変わりの一つと考えられたようです。
奥三河の花祭で知られる愛知県北設楽郡の山間の「白山(しらやま)」という行事では、白い木綿で白く覆われた小屋に、還暦を迎えた老人たちが入り、そこから出たときに小屋が壊される、ということが行なわれ、それは仮に死んで新しい生命として生き返る意味なのだろうといわれます。還暦に赤いちゃんちゃんこを着て、生れ変わって赤ん坊になるというのと同じです。
「白山」とは山に籠るといった意味なのでしょう。北陸の加賀白山(はくさん)の山岳信仰でも「擬死再生の呪法」が知られますが、それとの関係ははっきりしないそうです。

沖縄では、稲の貯蔵所や産屋のことをシラ、あるいはシダと言うそうで、生命を生み成長させるという意味がシラという言葉にあるというようなことを柳田国男翁も述べています。ラとダが入れ替わるのは日本語ではよくあります。稲の種籾や籾殻のこともシラというらしいです。
また沖縄では正月の若水のことをスデ水といい、若返った気分になることをスデルともいうそうで、このスデもシダから来たのだろうということは容易に想像できます。スデルには脱皮の意味もあります。

このスデという言葉が、本土ではどのように変化したかというと、ソダツ(育つ)という言葉です。さらにスヂ(筋)という言葉も柳田翁によれば同源だろうということです。
長野県など中部地方では、種籾を入れた俵のことをスヂ俵といい、正月には俵の上に松を飾り、春に半分は苗代に蒔き、半分は田植のときに炊いて食べるということが行なわれたといいます。

命を再生させる力、稔りをもたらす力をもつのは神なのですが、昔話ではこの神と村の長者の娘との婚姻譚は日本中で語られていました。その子孫たちに神のスデル力が伝えられていったわけですが、それがつまりスヂ、家筋のことではないかと、宮田登氏は言います。
以上は宮田登『ケガレの民俗誌』(人文書院)を参考にしました。
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