神話の森のブログ

日本の神話や民俗、また近世農村研究

大国主命の父母と乳母


まもなく立冬、冬の更衣えのことは重陽の節句のところでも書きましたが、この季節に「玄松子の記憶」というサイトを見ていたら石川県輪島市の重蔵神社の記事に、
  天之冬衣命(あめのふゆきぬのみこと)
という名の神が祭られているとありました。
重蔵神社は今は「じゅうぞう」と読みますが、もとは「へくら」だったともいい、能登半島の真北50kmほどのところにある舳蔵島(へくらじま)の神との関係が言われているようです。重蔵神社の主祭神は、天之冬衣命と大国主命になっています。

古事記によれば、天之冬衣命は須佐之男命の五世の孫にあたり、大国主命の父になります。本居宣長以来、出雲の日御崎神社にまつられる天之葺根命(あめのふきねのみこと)と同一神とされ、草薙の剣を天照大神に届けた神といわれます。大国主命の母は、刺国大神の娘の刺国若姫(さしくにわかひめ)。刺国の意味は不明。ちなみに北海道の江差(えさし)の言われはアイヌ語の岬の意味のようです。

大国主命の別名が大穴牟遅神(おほなもちのかみ)です。
若き大穴牟遅神が八十神たちに迫害されたとき、八十神たちは大木の幹を裂いてその中に大穴牟遅神のからだを挟み、大穴牟遅神は圧死してしまったのですが、そこへ御祖命(みおやのみこと)が駆けつけ、大穴牟遅神を救いだして生き返らせ、紀伊国の大屋毘古神(おほやびこのかみ)の所へ逃れさせたという話があります。参照木の下の神話 この御祖の命が、母神の刺国若姫のことだろうといわれます。

それより前にも大穴牟遅神は、八十神たちに真っ赤に焼かれた猪の形の大石を突き落とされ、焼け死んでしまったのですが、御祖命と高天原の神御産巣日之命(かみむすひのみこと)のはからいで、蚶貝姫(きさがひひめ)と蛤貝姫(うむがひひめ)が遣わされ、生き返ることができたのでした。そのとき蛤貝姫は、母の乳汁を大穴牟遅神のからだに塗って蘇生させたということです。
ウムガヒヒメのウムとはウバと通じ、二人の姫は大穴牟遅神の乳母だったようです。岡山県阿哲郡大佐町永富の湯児神社(ゆこじんじゃ)の境内社・乳母神社(ちぼじんじゃ)に、支佐加比比売命(きさかひひめ)宇武岐姫命(うむきひめ)の名で祭られています。

鳥取県日野郡日野町根雨の根雨神社(ねうじんじゃ)の境内社・十二所権現には、以上の四柱の神がそろって祭られています。ある史料では次のような順に書かれています(カッコ内は筆者)。
 蚶貝比売神  (3 叔母?)
 天之冬衣神  (1 父)
 刺国若比売命 (2 母)
 蛤貝比売神  (4 叔母?)
おそらく実際の神座の向かって右から順番に縦書きで記録したものと思います。中心に近い向かって右の位置が一番の上座で父神、次に母神の順です。神話や古代の物語では、乳母は実母の妹であることが多いので、蚶貝比売神と蛤貝比売神は、刺国若姫の妹たちだったのだろうと想像できます。
蚶貝姫と蛤貝姫画像は青木繁(1882-1911)の「大穴牟知命」。蚶貝姫と蛤貝姫も描かれる。


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鳥と耳寄りな話


8/22の「鳥の名をもつ王」でふれた日本最大の古墳、仁徳天皇陵は、百舌鳥耳原中陵(もずみみはら-の-なかのみささぎ)とも呼ばれる。「モズ耳原」の言われについては、日本書紀に説明がある。
その概略は、御陵の造成のとき、突然どこからか耳の裂けた鹿が現れ、急に気を失って倒れた、というより鹿は急死したのであるが、その鹿の耳の中から耳を食い破ってモズが現れ出て、飛び去って行った。だからそこを百舌鳥耳原という。耳の中からモズが飛び出すとは奇妙な話である。
平林章仁氏(『鹿と鳥の文化史』)によると、土地の地主神の霊をモズに託して立ち去ってもらったことからくる名前だろうということは前記の記事で紹介した。

耳の裂けた動物には、諏訪の七不思議に数えられる鹿など、いくつかあるようだが、柳田国男によると、それは神に捧げられるために選ばれたしるし、聖別された動物である証拠に耳が裂かれたのだろうという。魚の場合は片目の魚が聖別された魚である。鹿や猪は古代から食用にもされた。百舌鳥耳原の鹿は、土地の神の霊を体現した鹿ではあるが、同時に土地の神に捧げられたものでもあったのだろう。

なぜ耳からなのだろうと思う。「言うことを聞かない子」という言い方があるように、「聞く」とは物理的な音声を感覚するだけでなく、その言葉の意味を理解して正しく判断することでもある。10人の発言を同時に聞いて理解したという聖徳太子は、したがって人の力を越えた能力をもち、神仏そのものに近い存在と理解されたのだろう。
それは、発した言葉がそのまま現実となるという言霊(ことだま)の考へ方の、別の面を言っているようにも思う。いつの時代も言いたいことを一方的に言うだけの人間はダメな人間である。聞く耳を持たねばならない。
延喜式祝詞に「高天原に耳振り立てて聞く」とあるのは神々の言葉を人々が聞くということだが、耳が神々との交信のための器官なのだろう。月読尊(または須佐之男命)は口から出されたものを汚らわしいと言ったが、耳から出たものは最も聖なるものなのかもしれない。

狩りの人々の習俗では、捕獲した猪や鹿の耳を切り取って串にさして立て、神々の恵みに感謝を捧げたという。獲物の一部分を神に献上するという意味でもあるが、その耳とは、耳から立ち去ったモズそのものであり、神々の霊そのものなのだろう。神の霊が山に帰ったことを確認してから皮や肉を処理するのだろうと思われる。

山の木を切るときも、トブサ(鳥総)を立てて山の神や樹霊に感謝を捧げたという。万葉歌に歌われる。

  とぶさ立て船木きるといふ能登の島、山今日見れば木立繁しも  大伴家持
  鳥総立て足柄山に舟木伐り、木に伐り行きつ。あたら舟木を   沙弥満誓

「あたら」とは「貴重な惜しいもの」の意味。
トブサとは切り倒した木の枝の一部をその根元に挿し木のように挿し立てることらしいが、それは木にとっての耳のようなものなのだろう。そしてそれはやはり「鳥総」と、鳥の名で呼ばれるのである。
関連→鳥柴の木

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