御伽かるた

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「御伽かるた」というものがあり、むかし駄菓子屋などで売っていたものではないかと思う。復刻版などもあるようだ。
読み札もあり、テキストにしてみた。ただし歴史的仮名遣に変えた。というのは、囲炉裏(ゐろり)、絵(ゑ)、踊(をどり)など、歴史的仮名遣は正確だったからである。絵札上の「お」と「を」は逆だが、「踊(をどり)」「乙姫(おとひめ)」という言葉は間違いないので、画家による書き間違いだろうか。

一寸法師はお椀の舟 〔一寸法師〕
牢に入った欲張り爺さん 〔花咲爺〕
はやく芽を出せ柿の種 〔猿蟹合戦〕
握り飯と替へた柿の種 〔猿蟹合戦〕
掘れ掘れわんわん大判小判 〔花咲爺〕
下手な踊りでこぶつけられた 〔こぶとり爺〕
とった渋柿投げ付けた 〔猿蟹合戦〕
ちくりと刺した蜂の針 〔猿蟹合戦〕
龍宮城は海の底  〔浦島太郎〕
ぬっと大鬼現はれた 〔一寸法師〕
瑠璃や真珠で輝く御殿 〔浦島太郎〕
をどり上手なお爺さん 〔こぶとり爺〕
わった臼たく隣の爺さん 〔花咲爺〕
かちかち山でやけどした 〔かちかち山〕
欲張り婆さんお化けのつづら 〔舌きり雀〕
たぬきのお舟は土の舟 〔かちかち山〕
れつを作ってお伴する 〔桃太郎〕
そっとのぞいた隣の爺さん 〔花咲爺〕
つづらから出た宝物 〔舌きり雀〕
ねもとのほらで雨宿り 〔こぶとり爺〕
波をくぐって亀の舟 〔浦島太郎〕
来年の春にまたきませう 〔舌きり雀〕
むりに鳴かして掘ってみる 〔花咲爺〕
うさぎのお舟は木のお舟 〔かちかち山〕
ゐろりから栗がとびだした 〔猿蟹合戦〕
のりこえ攻めいる鉄の門 〔桃太郎〕
乙姫様のおもてなし 〔浦島太郎〕
熊もころりと負けました 〔金太郎〕
やねから臼が落ちてきた 〔猿蟹合戦〕
まさかりかついだ金太郎 〔金太郎〕
けだもの集めておすもうごっこ 〔金太郎〕
ぶんぶく茶釜は芸上手 〔ぶんぶく茶釜〕
腰につけたはきびだんご 〔桃太郎〕
えものはうれしい打出の小槌 〔一寸法師〕
寺の茶釜に尾がはへた 〔ぶんぶく茶釜〕
足柄山でお馬のけいこ 〔金太郎〕
さるももらったきびだんご 〔桃太郎〕
きじがつなひくえんやらや 〔桃太郎〕
ゆめとすごして月日をわすれ 〔浦島太郎〕
芽が出たのびた実がなった 〔猿蟹合戦〕
みやげにもらった玉手箱 〔浦島太郎〕
舌きり雀のお宿はどこだ 〔舌きり雀〕
絵をかくように花が咲く 〔花咲爺〕
姫のおともの一寸法師 〔一寸法師〕
桃の中から桃太郎 〔桃太郎〕
せいを打ち出す打出の小槌 〔一寸法師〕
雀とをどるお爺さん 〔舌きり雀〕
京へのぼってご奉公 〔一寸法師〕

ざっと数えてみたところ、次の10の話からとられていた。ただし()内の数は正確でない可能性がある。
 花咲爺    6
 かちかち山  3
 ぶんぶく茶釜 2
 猿蟹合戦   7
 金太郎    5
 舌きり雀   5
 桃太郎    6
 一寸法師   6
 浦島太郎   6
 こぶとり爺  3

 楠山正雄の再話で『日本十大昔話』というのがあり、7つは同じだが、
 一寸法師・浦島太郎・こぶとり爺の3つではなく、次の3つが入っている。
 くらげのお使い・ねずみの嫁入り・猫の草紙
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「五説経」とは

中世の説経節の物語で有名なものを「五説経」といふことを思い出して、頭の中で1つ2つと数へてみたら、5つでは足りないような気がした。そこで国語辞典4つと百科事典2つを調べてみた。
山椒太夫と苅萱の他は、入れ替ることがあるとのことで、8つくらいはあるらしい。
表にまとめてみた。◎印が各辞典の説明の最初に出てくる5つ、○印は入替の例。

    広辞苑 国語大 大辞林 大辞泉 平凡百 ブリ百
山椒太夫 ◎   ◎   ◎   ◎   ◎   ◎
苅萱   ◎   ◎   ◎   ◎   ◎   ◎
信田妻  ◎   ◎   ○   ○   ◎   ○
梅若   ◎   ◎   ○   ○   ◎   ○
梵天国  ◎   ○   ◎   ◎       ◎
愛護の若 ○   ◎   ○   ○   ◎   ○
俊徳丸      ○   ◎   ◎   ○   ◎
小栗判官     ○   ◎   ◎   ○   ◎


広辞苑には、「説経浄瑠璃の代表的な五つの曲目。
山椒太夫」「かるかや」「信太妻」「梅若」「梵天国」(または「愛護の若」)。」とある。

大辞林では「古くは「苅萱」「俊徳丸」「小栗判官」「三荘太夫」「梵天国」(表の◎印)をさしたが、のちには、「苅萱」「三荘太夫」「信田妻」「梅若」「愛護若」(広辞苑説に近い)をいう」のだそうで、ブリタニカもこれに習ったような書きぶりだった。大辞林、大辞泉、ブリタニカの3つが一致するのは、典拠が同じためかもしれない。
平凡社の世界大百科では、「五説経」の語は、江戸の寛文のころに見えるが「何をさしたか不明」といふ。江戸時代以後の言葉であるなら、「古くは云々、のちに云々」といっても、たいした時代差ではないようなので、選別にこだはる必要もないと思ふ。

歌語り風土記には、俊徳丸、梵天国を除いた6つを載せた。(本記事内にある、題名からのリンクを参照)

子ども向けの再話の本や、現代語訳の本では、「21世紀版・少年少女古典文学館」の第16巻、ねじめ正一の「山椒太夫」「俊徳丸」が、良いと思ふ。七五調を折り交ぜた文章で、少年向けだからと原作の残酷な表現を全削除といふこともなかった。残酷表現とは、曼陀羅や地獄図に似た宗教性とともに理解されるべきなのだらう。
「梵天国」は、『御伽草子集』に入ることがある。
「梅若」は謡曲「隅田川」の構成のままでは面白みが少ないと思ふ。
「愛護の若」は、現代語の本が少ないかもしれない。
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酒造地蔵

幕末から明治初期ごろの印刷物で「酒造地蔵」の由緒が書かれているものが出てきた。

酒造地蔵
当山 酒造地蔵菩薩は 海中出現にして
霊験少からず。往古三浦八兵衛一子病疹
悪腫にして落命免れがたきを、当寺に
祈願せしところ全快を得たり。然に病中
一人の童子 月毎に来り 病人を慰む。
折から酒三五献飲勧喜して去。依てその
跡を尋るに当山に入。その後も時々遊
行す。よって諸願を祈るに神酒をそなへ
誠心を籠れば成就せざる事なし。これに
よって諸人 字して酒造地蔵尊と号す。
又は化身地蔵ともいふ。
(画像クリックで拡大)

三浦八兵衛という者があり、その子の重病に際し、ある寺の地蔵尊に祈願した。その後、家に毎月童子が現れるようになり、病の子を看てくれるので、酒をふるまってもてなした。やがて子は全快し、童子のあとを追ってみたら地蔵尊のある寺に入ったので、童子は地蔵尊の化身だとわかったという。

良い話だが、酒造地蔵の所在が不明である。関東近辺ではないかと思う。「海中出現」とあるので、海辺に近い場所かもしれない。
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神功皇后の男装の由来

神功皇后(尾竹国観)新潟市出身の日本画家・尾竹国観(おたけこっかん、1880-1945)の歴史画の挿絵がたくさん掲載された本を古書店で見つけた(昭和4年の講談社の「修養全集」の1冊で金100円也)

画像は、神功皇后が筑紫に建てた行宮の橿日宮(かしひのみや)から新羅征伐に向う前の誓約(うけひ)の場面の絵である。うけひとは占いのようなことである。

日本書紀によると、筑紫の橿日の浦で、神功皇后は、長い黒髪を解いて海水にすすぎ、
「もし良きしるしがあるなら、この髪よ、二つに分かれよ」
と言うと、髪の先が二つに分かれた。皇后はそのまま髪を左右で「みづら」に結い、つまり男性の髪型をつくり、このときから男装したという。

尾竹国観の絵はつやのある場面の絵も少なくない。
神功皇后には、ほかにも、肥前玉島で鮎釣りをした「魚釣の石」の話などが日本書紀に見られる。
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日本七大昔話

むかし、日本七大昔話と呼ばれたものがあって、
「桃太郎」「かちかち山」「猿蟹合戦」「舌切雀」
「花咲爺」「浦島太郎」「一寸法師」
の7つだったと国語学者の金田一春彦氏がエッセイに書いていた。
「桃太郎」以下の4つは戦後になって侵略的ないし復讐物語などの理由で教科書にも載らなくなったとのことで、それならと金田一氏が選んだ7つは、
上の「花咲爺」以下の3つと、次の4つだった。
「鶴の恩返し」(戯曲「夕鶴」にもなった)、「笠地蔵」、
「藁しべ長者」、「炭焼き長者」(芦刈に似た話)
自分を犠牲にしながらも他者をいたわる話、長者の話など、戦中戦後の庶民の生活の味わいがある。

さて平成の現代に、自分でも選んでみると、女性が主役の話も入れるべきと思うので、「かぐや姫」(竹取物語)、「羽衣」。
楠山正雄の「十大昔話」に入っているものから、頓智の笑い話で「ねずみの嫁入り」、動物社会が見える「文福茶釜」。
旧来のものから、「浦島太郎」「花咲爺」「一寸法師」。
以上で7つだが、「ものぐさ太郎」を入れても良かったかもしれない。
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綱引きの起源、その他

丸谷才一氏のエッセイで、今は国際的なスポーツ競技にもなっている綱引の起源にふれたものがある。柳田国男や他の学者の説を引用しながら、九州南部や南西諸島に今も伝わる藁で大きな龍神をかたどったものを大勢でかかえ上げて引きまわし、水神の恵みや豊作豊漁を祈願する祭に起源があるのだろうという。そんななかで、オスの龍とメスの龍を結合させて引きまわす地方もあることから、性的なものが豊饒のシンボルであることは多いので、それが最も古いかたちではないかと書かれる。しかし柳田国男はそこまでは言わない。柳田翁は性的な表現を避けるきらいがあると丸谷氏は述べる。

氏の別のエッセイで、おんぶや肩車の起源についての話でも、遠い昔の神事で神が現れたときの形式を伝えるものだろうという柳田翁の言葉を紹介しながら、やはり柳田翁は性的な表現までは立ち入らないのだと書かれる。その点、折口信夫はそういう表現に躊躇しないのだという。

以前、地名によくあるクラという言葉の意味を、『柳田国男集』の索引を手がかりに調べたことがあるが、説明になんとなく物足りなさを感じた。そのとき私が思ったことは、丸谷氏と同様のことだったのである。クラという言葉の場合は、磐座であるとか、神聖なものにも使われるので、ことさら表現には慎重にならざるを得なかったのだろうと思った。

けれど、ごく一般的な地名については、柳田翁も性的なことがらを述べている。
それは『地名の研究』の中の、フト(富土、布土、富戸)という地名についての部分である。
「すなはち海岸に沿うて漕ぎ廻る船から見れば、二つの丘陵の尾崎が平行して海に突出してゐるところ、あたかも二股大根などのごとく、その二丘陵の間からは必ず小川が流れ込み……」「疑ひもなくホドすなはち陰部と同じ語である」(『地名の研究』)
「そこが上代人の悠長なところ」、つまり大らかだったのだといい、「本来ホドは秀処の義」なのだという。

柳田翁の弟子にあたる学者だったと思うが、フトは二股大根の形状そのものをいい、人体のフトモモのフトも同じ語であって「太もも」と書くのは後世の当て字だという。ホドについては忌み言葉のように考えられて、古くは別の言葉だったものが、フトモモの意味のフト(ホト)で代用された言葉だろうという。となると、古代の「大らかさ」も少し差し引いて考えなければならない。やはりこちらのほうが素直な見方だと思う。「大らか」とか「秀処の義」というのは、性的な関心で読まれては困るとの考えから、やや強調され過ぎてしまったように見える。
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日本の海底に沈んだ島と伝説

1年前に「消えた湖の伝説」というタイトルで、この盆地は太古には大きな湖だったという伝説が日本には多いことを書いた。
島が海底に沈んだというは伝説はあまり多くはないかもしれない。

三重県の志摩半島と愛知県の渥美半島の間の海に、太古には大きな島があったという伝説がある。志摩国といい、「御食(みけ)つ国、志摩」というくらい良い漁場だったらしいが、水没してしまったことを惜しんで、伊勢国の東の先を分割して新たに志摩国を設置し直したのだという伝説資料のことが『大日本地名辞書』にある。
シマという国名から後世に付会されたのかもしれないが真偽は不明。中国の神仙思想では東方の海上には不老長寿の仙人が住む蓬莱島があるというが、日本でも古くから同じような伝説があって大和国から東方の島の伝説があったのかもしれない。

西方では、長崎県の五島列島の更に西に「みみらくの島」という島があったともいう。『蜻蛉日記』の作者が、老母の死に際しての話で語っていることから、死後の世界、西方浄土という考えからきたのかもしれない。
しかし地元に高麗島という島が沈んだという伝説があり、柳田国男も調査している。(長崎県五島の暮し

大分県の別府湾には、瓜生島という小さな島があったが、大昔に沈没してしまったために、さまざまな伝説が語られた。しかし最近の調査では慶長元年(1596年)の地震で、瓜生島ほかいくつかの島が実際に沈没したらしい。天武7年の筑紫国の大地震では筑紫地方でも大きな島の沈没があったともいう。(「幻の古地図」と古代の天変地異の話

島根県益田市の沖にあった鴨島も万寿3年(1026)の大地震で水没したらしく、梅原猛氏の『水底の歌』によるとこの鴨島が柿本人麻呂の終焉地だという。
(その他にもあればコメント歓迎です)

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いざ鎌倉

 北条氏五代目の執権、北条時頼は、僧形で諸国を巡り、地方の実情を視察したという。あるとき上野国の佐野で大雪にあい、とある民家に宿を借りると、家の主は貧しい暮しにもかかわらず、丁寧に僧を迎え入れ、盆栽の梅、桜、松を薪にしてまで暖をとってもてなした。主の名は佐野源左衛門常世。領地を一族の者に奪われて、貧乏はしているが、もしも鎌倉に一大事でもあれば、一番に馳せ参じて命を捧げる覚悟だと語った。それからしばらくして鎌倉で兵を集めるという話を聞いた源左衛門は、「いざ鎌倉」とばかり痩せ馬に乗って駆けつけた。多数の兵の中から源左衛門を見出した時頼は、その忠誠をたたえ、領地や恩賞を与えたという。

 この話は謡曲「鉢木」などで庶民にも親しまれ、源左衛門の痩せ馬を詠んだ江戸時代の川柳もある。

  佐野の馬、戸塚の坂で、二度ころび

 この話は実話ではなく、次の藤原定家の歌から構想されたのではないかといわれる。

  駒とめて、袖打ち払ふかげもなし。佐野の渡りの雪の夕暮れ (藤原定家)

定家の詠んだ「佐野」は紀州熊野付近らしいが、佐野源左衛門の住まいは今の群馬県高崎市上佐野または下佐野あたりだろう。
今の世の中でも、佐野源左衛門のような人はいるのだろうか。そして「いざ鎌倉」のような時は来るのだろうか。
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古代の自殺

昨秋、山田の案山子とクエビコの記事のとき参照した、『谷蟆考 −古代人の自然−』(中西進著)という本は、その副題「古代人の自然」の通りの興味深い内容である。
その中で「古代人の自殺」という一節について。

古代の男性たちの自殺は政治的なものが多いが、女性たちの場合は、ひそやかで一途で、つまりは人間的といえるものだと述べられている。
万葉集で知られる、二人の男の求愛に悩んで大和の耳無池に身を投げた鬘児、生田川の菟原少女、葛飾の真間の手児奈。大和物語の奈良・猿沢池の采女など。
それより古い時代の古事記の話では、たとえば垂仁天皇の時代に、夫である天皇よりも兄を選んだ佐保姫や、姉妹の中で醜女であったために郷里へ帰されたことを恥じて自殺したマトノヒメの時代は、より激しい情念のようなものも感じられる。

ところで、伝説物語に登場する女性たちはみな神に関わった女性たちであるという折口信夫の言葉に従えば、「人間的」であるとともに「宗教的」でもあるのだろう。

同書でも紹介される雄略天皇の皇女、栲幡皇女は、男との不義の疑いをかけられ、身の潔白を証明するために自殺した。皇女は斎宮でもあった。
壬申の乱で敗れて自殺した大友皇子の妃、十市皇女は、勝利した側の英雄、高市皇子に乱後に求愛されていたといわれる。皇女の突然の死は、それが原因の自殺ではないかと思われる。大友皇子が天皇に即位していたとすれば皇女は皇后であり、前皇后への求愛はありうべかざるものなのだろうが、相手方は即位についての認識が異なるのかもしれない。

一般の男性が求愛してはならない女性たちが、伝説物語の主人公になっていったのだろうと思われる。
あえてそれを犯す男は、在原業平のように流浪しなければならないし、光源氏も似たところがあるのだろう。
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美少年の伝説

日本の女性の伝説では、きっと皆神事にあづかった女性たちだろうということでしたが、伝説物語の中の少年については、神仏に深く関った少年たちであったことが、よりはっきりしています。

近江国の愛護の若は、死後に日吉(ひえ)山王権現として祭られますが、継子いじめの話あり、多彩な職能民も登場する波乱万丈のドラマです。

江の島絵葉書山王権現の申し子といわれたのが江戸向島の梅若塚の伝説の梅若です。
同じ梅若という名の少年が登場するのが秋夜長物語(あきのよのながものがたり)で、近江の三井寺や比叡山が舞台のドラマチックな筋立です。
江戸の梅若とよく似た話が常陸国桜川の桜子です。

紀州の高野山の石堂丸の伝説も、哀れではありますが美しい物語です。
以上の少年たちは寺の稚児だったのですが、相模国、江の島の稚児が淵の白菊の伝説もよく知られます。(画像は江の島の古い絵葉書)

いづれも中世ごろの話で、神仏習合時代になって、古代の女性の伝説に並びうるように盛んになっていったようなところもあります。源義経の伝説も美少年の物語でした。
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