神話の森のブログ

日本の神話や民俗、また近世農村研究

新元号「令和」


5月1日の譲位にともなう新元号は「令和」となることが発表された。
万葉集巻五、梅花の歌三十二首併せて序、「初春の令月にして気淑く風和らぎ、云々」からとのこと。
令月とは、「)事をなすのによい月。めでたい月。陰暦二月の異称」と広辞苑にある。
(この令は、せしむる、命令するという意味ではないことになる。)
もとは、後漢の張衡という人の『歸田賦』の「於是仲春令月、時和気清」という言葉を踏んでいるらしい。張衡の詩は自然を称え、自然回帰のようにもとれるもの。
張衡は令月を仲春としているが、日本では初春になっているのは、満ち足りた春に満足するのか、春の予兆を重視するかの違いだろうか。日本の「春」とは、一年を均等に四分割したうちの一つではないようだ。

令和
令の書き方は、筆記ではいくつかの書き方があり、下の部分を「マ」のようにも書く。
どの字も活字のように四角いマスをいっぱいに使おうとすると、「令」の字は小さく見えてしまうので、「令」の左右は「和」より大きく書き、「令」の先はあまり尖らせないほうが良いかもしれない。

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民家の間取り



漫画のサザエさんの家の間取りの図を、とあるサイトで見た。漫画で絵の背景を多数見ながら、パズルを組立てるようにして、全体を描いたものなのだろう。
http://www.sazaesanitiba.com/madori.html
サザエさんの家は、昭和20〜30年代の首都圏のサラリーマン家庭の家だと思うが、間取りは、関東の農家の家に似ている。部屋を田の字型に区切り、東西に3部屋、南北に2部屋の計6部屋である。東の2部屋と、西の田の字の4部屋を、南北に廊下が区切る。
 北側は西から、台所、茶の間、子供部屋。
 南側は同じく、床の間、客間、若夫婦の部屋。

 東側に若者の部屋を置くのは、農家と同じ。その西の廊下の部分は、農家では土間が広めにとってあった。西の4部屋の南側に、廊下または縁側が付く。廊下の西の突き当たりが便所。茶の間は中央北側のじめじめした部屋で、日当たりの良い南の部屋は、客間として確保される。
 農家と違う点は、北西の台所、北東の玄関である。農家の玄関は、南北に続く廊下の南であり、廊下の北端に台所が続く。北西は主人夫婦の部屋。昔は子供部屋というのはなかったので、子供は親と同じ部屋に寝て、学校の宿題などは縁側でした。大きくなったら若者の部屋となる。南西の床の間は、本来の客間なので、普通は使用しないが、家族の人数に応じて使われることもある。
 昭和30年代ごろから、どの家も、洋間風の客間を設けることが広まった。和室のまま絨毯を敷いて応接家具を置く家も多かった。床の間が使われなくなり、物置状態になった家が多い。子供部屋についても、なんとかしないといけないと、親は思うようになった。

 昭和の頃の平均以上の農家では、土間の西は4部屋でなく6部屋あった、東北の1部屋が茶の間、または囲炉裏を置いた居間で、その西は壁の多い納戸である。納戸は、寝室であり貴重品をしまう部屋だったが、昭和の戦後は、タンス部屋ないし収納専用の部屋になった家が多いようだ。壁の多いこの部屋を、子供の勉強部屋にした家を見たことがある。
 明治時代以前の各部屋の意味については、あらためて書くことにしよう。

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「老い」について


「老い」についての短い随筆を集めた本があったので、拾い読みしてみた。
(作品社『日本の名随筆 34 老』)

作家そのほか沢山の人のエッセイなどが収録されているが、どれから読むべきか。やはり今までに充実した読書経験のある著者のものということになる。

吉行淳之介「年齢について」
七十幾歳の男女の恋愛の実例の話が出てくる。著者の知人の七十幾歳の女性から聞いた話で、逢引きの様子などを、微笑ましく綴っている。このように人は老いても変らない情熱を持ち続けることができるのだから、老いを悲観することはないということだろうか。そんな噂話に熱中する年配女性についても微笑ましく描いている。

山本健吉「ちかごろの感想」
シリアスな話だった。
「老年の居場所とは、もっと安らかなものだと思っていた。だがこれはどうやら私の見込違いであったようである。老年とは、その人の生涯における心の錯乱の極北なのである。このことは、自分で老年に達してみて、初めて納得することが出来た。」という書き出しで、重い話が続く。
確かにそういう面はあると思う。そういう「心の錯乱」は、常に抑えられ鎮められているのだろう。そして心はどのように対応したら良いのかという、ハウツー物のような結論を期待してしまったのだが、途中から万葉歌人の山上憶良の話になる。憶良についての解説を依頼されて執筆された小文なのだろう。

團伊玖磨「義歯」
 総入れ歯を飲み込んでしまった老人の話。すぐに医者に駆け込むと、医者は平然として、日数はかかるが一週間か十日で出てくるでしょう、心配はいらないという。その通りになった。ちなみに小さな差し歯なら、一日か二日で出てくると思う。

次に読もうと思ったのは石川淳だが、永井荷風の死にあたっての追悼の文章のようで、荷風についての文学論が主題と思われ、いったん本を閉ぢた。

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「楡影談」というブログ


楡影譚(談)というブログを開始。

埼玉県などローカルな話題になる予定。

渋沢、藤原(地名の話)(7月8日)
武蔵国幡羅郡の範囲と人口(7月5日)
幡羅(原)という地名(7月4日)
荒川扇状地と湧水(7月3日)
日本煉瓦製造工場と小山橋(7月2日)

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明治とは何だったかというと


10年来の近世研究もそこそこ進んだので、所謂「近世暗黒史観」の生みの親である明治時代の再評価が必要との観点から、明治維新批判の通俗的な本をときどき読むようになったのは、2〜3年前から。この分野は専門家の本はないようなので、通俗的な本となるわけだが、やはり居酒屋談義的な内容ばかりで、もの足りない。

今年は明治維新150周年だが、先日amazon の Kindleストア で「明治維新」で検索したら、会員は無料で読める本がいくつもあった。原田某氏の本など既に購入済みの本もあったので、もったいないことをしたと思った。

その昔、所謂古代史のトンデモ本を、気軽に買うこともよくあったが、明治維新の本は、時代が近いこともあって気楽には読めない。現政権への不満を過去へ投影しているだけではないかといったことの検証課題だけが山積みになってゆく。

そこで最初のテーマに立ち戻って、所謂 江戸時代暗黒史観はいかにして形成され、広まったのかという問題である。
すぐには結論は出ないので、とりあえず、各論的な分野を考えていくときなどで、この問題につながることがらが現れることを期待するというのが現状である。
たとえば、天保の饑饉について、大凶作の意味で書き記した最初の者は誰かとか、時代ごとの価値観を比較研究したものに触れてみたい。吉原への価値観の変遷については良い研究があったと思う。

そしてこの分野で最も深い洞察を感じたものは、丸谷才一文芸表論集『梨のつぶて』(晶文社)のなかの「津田左右吉に逆らって」などの評論だった。これは津田の日本文学史への批判なのだが、大かたは津田は文学がわからない人間だと取りあげられなかったことに、まともに取り組んだわけだが、意外と難儀な問題に思えた。
19世紀西洋の事象から、都合の良い表面的な部分だけ取り入れて、とにかく形だけは整った学問ができて、以後はそのときの形を頑なに変えないようなものが、通ってしまっているのはなぜか。
津田は、皇国史観とは異なる合理的な歴史解釈だったとそれだけで単純に評価された戦後の一時期もあったが、皇国史観といっても、皇室の歴史のなかの都合の良い部分だけ引き抜いて新たに作り上げたものでしかないという意味では、どっちもどっち。こうして虚無感に浸ることになってしまうわけだが、政治史から離れて取り組むのが、一番良い方法だというのが、とりあえずの結論。
『梨のつぶて』は1966年10月15日発行。翌年の「明治百年」を意識したものだと思う。
(明治百年は、100周年ではなく、改元がなければ1967年が明治百年となるので、そう呼ばれた。)

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「倚松帖」からインポート


2016〜2017年の「倚松帖」の記事をインポートした。
埼玉県稲荷山古墳の鉄剣の年代 (11/18)
旅館で見た版画絵と釈迢空の歌を探す (10/31)
海幸彦山幸彦の物語 (08/10)
邪馬台国 (07/30)
A5判数10ページの中綴製本の冊子の作り方 (06/17)
『日本お伽集』などの挿絵 (04/19)
洪水伝説 (02/21)
本の持ち方 (10/12)
蔵書の処分 (09/29)
「古代」と「渡来人」 (09/19)
東日本大震災から5年半 (09/11)
8月8日の陛下のお言葉 (09/09)
外江戸古文書会 (09/07)
大野晋『日本語の起源』 (09/03)
歴史的仮名遣ひ(本ブログの表記) (09/01)
献花の持ち方、左高? 右高? (08/30)
黄泉つ伊邪那美 いろはうた (08/28)
子(ね)の日の小松 (08/26)
「倚松帖」とは (08/24)
教科書の悪文について (08/22)
昭和天皇の仮名遣ひ (08/21)

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「神話の森のブログ」の再開について


この「神話の森のブログ」のことについて、再開するのが良かろうという考えになりつつある。
昨年夏から始めた新ブログ「倚松帖」は、やはり、漢字変換をするのが困難な題名は、よろしくないということ。

こちらの古い記事をいくつか読んで見て、けっこう面白いと思った。
縄文土器の魂
古い土器を廃棄するとき、古いかけらを粉末にして新しい土器に交ぜて作る話。土偶などもそうではないか、と書き、陰部云々と少し書き加えてあるが、二つの陰部の粉末を交ぜるとすれば、実に自然な発想だ。
歴史的仮名遣
ここでは皇位継承の男系主義について、ひとこと批判を書いている(2007.7)。

さて再開にあたって、記事の移動を考えている。
こちらの2008年以後に書いた近世社会についての記事は、「古文書倶楽部」へ移動。
倚松帖」から、「神話の森のブログ」にふさわしいものをここに移動。
など。

遥音亭主人」は、読書記録を主体とした短文ブログだが、雑記も扱う予定。短文のつもりが、長めになるときもある。当初は、更に短文にしてツイッタなどでという案もあったのだが、無理に短く省くために頭をひねるのも時間のムダなので、ブログにした。

なお、カテゴリやアーカイブ表示でレイアウトが乱れていたのを修正した。

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新しいブログ「遥音亭主人」


11月より、新しいブログ「遥音亭主人

https://youontei.blogspot.jp/

面白い本について、頻繁に更新するブログです。
短文主体。

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本の持ち方


書店に並んでゐる雑誌の表紙を見ると、表紙の中央よりやや小口寄りに、爪跡のようなものがあり、裏表紙も同様の状態のときがある。立ち読みした者がつけたのだらう。
どうも、本の持ち方が間違ってゐるのではないかと思った。

そこでネットの画像検索で「読書 イラスト」を検索してみると、本を立て、本の両端を掴んでゐる子供の絵が実に多い。

立ち読みの者は、そのような持ち方(掴み方)で、大判の雑誌を開いて左右を掴み、親指は押さへたまま、四本指を中に寄せて中ほどまでを閉ぢ、片手の親指をゆるめて1枚だけ離し、反対の親指でその1枚を掴み、両手を左右に広げて新しいページを読む、というやりかたをしてゐるようだ。(文章の説明だけではわかりにくいだろうが)
ページめくりのとき、本の左右を掴んだまま中に寄せるのだが、そのとき紙は直角に近い状態に曲る。脇で見てゐると、それらの一連の動作を高速に行なって飛ばし読みをしてゐる乱暴な者もある。そのために本を傷めるのだらう。
単行本では、カバーを上にずらしたまま棚に戻してあるのがあるが、本を立てて掴み持ちしてゐるので中身が下がるからだらう。
女性の場合は、そんな乱暴なことはせず、扱ひも丁寧な人が多い。

では、正しい本の持ち方、本の持ち方の手本とは、どのようなものであるべきか。じつは恰好の手本がある。

誰でも知ってゐる二宮金次郎の像である。手本は二宮金次郎 といふわけだ。

二宮金次郎の像は、背中に薪を背負ひ、左手の手のひらを胸の下で上に向けて水平にし、その高さで、手のひらの上に開いた本を載せてゐる。本は、やや手前が低くなるが、ほぼ水平である。和本は軽いので、片手に載せるだけでじゅうぶんである。
ページをめくるときは右手の親指で、左ページの下から右へめくる。
小さい本などで、すぐに閉ぢてしまいやすい場合は、左手の親指の先で、本の表側から軽く押さへる。

最近の本は、紙が硬く、製本も接着剤で固めるだけなので、ページを開きにくいといふ問題もあるのだらう。
欧米人では、小型の本や手帳を持つときは、片手で、手のひらを顔に向けて胸の高さに立て、本の下から、親指と小指を本の表に出し、残りの指は裏側で本の背のあたりを支へるといふ人が多いようだ。この場合は、軽く挟むだけなので、本は立てたほうが安定する。
【倚松帖より】

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東日本大震災から5年半


東日本大震災から5年半。
また、同時に起きた東電福島原発の大事故は、戦後日本の最大の挫折といふべきなのだらう。

岩手県のどこだったか、海岸より少し高いところに明治時代の津波のときの石碑があり、この場所より低い所に家を建ててはいけないと文字が刻まれてあるらしい、といふことを最初に知ったのは、2003年ごろのNHKテレビ番組だった。文字は和歌の形式の文句であり、番組録画をしてし、自サイトの「歌語り風土記」に追加しようと思ったのだが、HDレコーダーは買ったばかりで操作を誤って消してしまった。

震災後まもなくのころ、漫画家の水木しげる氏が週刊誌でこの石碑のことにふれ、昔の人の言葉は貴いのだから守らなければいけないと語るのを読んだ。実際は明治の戒めは守られずに、津波の被害は繰り返されたのである。
そのころ、宮本常一の本で、昭和初期の東北の津波の記録を読むと、塩釜付近の海岸地域の略地図が掲載され、津波被害を受けた範囲が図示してあった。この地もその後に海に沿って集落ができた。
なかなか表現が難しいのだが、昔の漁師たちは海で死ねたら本望といふ気持ちがあったのかもしれない。現代人とは多少異なる死生観があったのだらう。死後の世界がより身近なところに存在したような、江戸時代の子返しなども、現代の価値観で批判するのは問題がある。
石碑の戒めは、新時代のインテリによるヒューマニズムなのだと理解できる。
【倚松帖より】

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