神話の森のブログ

日本の神話や民俗、また近世農村研究

「楡影譚」というブログ


楡影譚というブログを開始。

埼玉県などローカルな話題になる予定。

渋沢、藤原(地名の話)(7月8日)
武蔵国幡羅郡の範囲と人口(7月5日)
幡羅(原)という地名(7月4日)
荒川扇状地と湧水(7月2日)
日本煉瓦製造工場と小山橋(7月1日)

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明治とは何だったかというと


10年来の近世研究もそこそこ進んだので、所謂「近世暗黒史観」の生みの親である明治時代の再評価が必要との観点から、明治維新批判の通俗的な本をときどき読むようになったのは、2〜3年前から。この分野は専門家の本はないようなので、通俗的な本となるわけだが、やはり居酒屋談義的な内容ばかりで、もの足りない。

今年は明治維新150周年だが、先日amazon の Kindleストア で「明治維新」で検索したら、会員は無料で読める本がいくつもあった。原田某氏の本など既に購入済みの本もあったので、もったいないことをしたと思った。

その昔、所謂古代史のトンデモ本を、気軽に買うこともよくあったが、明治維新の本は、時代が近いこともあって気楽には読めない。現政権への不満を過去へ投影しているだけではないかといったことの検証課題だけが山積みになってゆく。

そこで最初のテーマに立ち戻って、所謂 江戸時代暗黒史観はいかにして形成され、広まったのかという問題である。
すぐには結論は出ないので、とりあえず、各論的な分野を考えていくときなどで、この問題につながることがらが現れることを期待するというのが現状である。
たとえば、天保の饑饉について、大凶作の意味で書き記した最初の者は誰かとか、時代ごとの価値観を比較研究したものに触れてみたい。吉原への価値観の変遷については良い研究があったと思う。

そしてこの分野で最も深い洞察を感じたものは、丸谷才一文芸表論集『梨のつぶて』(晶文社)のなかの「津田左右吉に逆らって」などの評論だった。これは津田の日本文学史への批判なのだが、大かたは津田は文学がわからない人間だと取りあげられなかったことに、まともに取り組んだわけだが、意外と難儀な問題に思えた。
19世紀西洋の事象から、都合の良い表面的な部分だけ取り入れて、とにかく形だけは整った学問ができて、以後はそのときの形を頑なに変えないようなものが、通ってしまっているのはなぜか。
津田は、皇国史観とは異なる合理的な歴史解釈だったとそれだけで単純に評価された戦後の一時期もあったが、皇国史観といっても、皇室の歴史のなかの都合の良い部分だけ引き抜いて新たに作り上げたものでしかないという意味では、どっちもどっち。こうして虚無感に浸ることになってしまうわけだが、政治史から離れて取り組むのが、一番良い方法だというのが、とりあえずの結論。
『梨のつぶて』は1966年10月15日発行。翌年の「明治百年」を意識したものだと思う。
(明治百年は、100周年ではなく、改元がなければ1967年が明治百年となるので、そう呼ばれた。)

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「倚松帖」からインポート


2016〜2017年の「倚松帖」の記事をインポートした。
埼玉県稲荷山古墳の鉄剣の年代 (11/18)
旅館で見た版画絵と釈迢空の歌を探す (10/31)
海幸彦山幸彦の物語 (08/10)
邪馬台国 (07/30)
A5判数10ページの中綴製本の冊子の作り方 (06/17)
『日本お伽集』などの挿絵 (04/19)
洪水伝説 (02/21)
本の持ち方 (10/12)
蔵書の処分 (09/29)
「古代」と「渡来人」 (09/19)
東日本大震災から5年半 (09/11)
8月8日の陛下のお言葉 (09/09)
外江戸古文書会 (09/07)
大野晋『日本語の起源』 (09/03)
歴史的仮名遣ひ(本ブログの表記) (09/01)
献花の持ち方、左高? 右高? (08/30)
黄泉つ伊邪那美 いろはうた (08/28)
子(ね)の日の小松 (08/26)
「倚松帖」とは (08/24)
教科書の悪文について (08/22)
昭和天皇の仮名遣ひ (08/21)

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「神話の森のブログ」の再開について


この「神話の森のブログ」のことについて、再開するのが良かろうという考えになりつつある。
昨年夏から始めた新ブログ「倚松帖」は、やはり、漢字変換をするのが困難な題名は、よろしくないということ。

こちらの古い記事をいくつか読んで見て、けっこう面白いと思った。
縄文土器の魂
古い土器を廃棄するとき、古いかけらを粉末にして新しい土器に交ぜて作る話。土偶などもそうではないか、と書き、陰部云々と少し書き加えてあるが、二つの陰部の粉末を交ぜるとすれば、実に自然な発想だ。
歴史的仮名遣
ここでは皇位継承の男系主義について、ひとこと批判を書いている(2007.7)。

さて再開にあたって、記事の移動を考えている。
こちらの2008年以後に書いた近世社会についての記事は、「古文書倶楽部」へ移動。
倚松帖」から、「神話の森のブログ」にふさわしいものをここに移動。
など。

遥音亭主人」は、読書記録を主体とした短文ブログだが、雑記も扱う予定。短文のつもりが、長めになるときもある。当初は、更に短文にしてツイッタなどでという案もあったのだが、無理に短く省くために頭をひねるのも時間のムダなので、ブログにした。

なお、カテゴリやアーカイブ表示でレイアウトが乱れていたのを修正した。

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新しいブログ「遥音亭主人」


11月より、新しいブログ「遥音亭主人

https://youontei.blogspot.jp/

面白い本について、頻繁に更新するブログです。
短文主体。

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本の持ち方


書店に並んでゐる雑誌の表紙を見ると、表紙の中央よりやや小口寄りに、爪跡のようなものがあり、裏表紙も同様の状態のときがある。立ち読みした者がつけたのだらう。
どうも、本の持ち方が間違ってゐるのではないかと思った。

そこでネットの画像検索で「読書 イラスト」を検索してみると、本を立て、本の両端を掴んでゐる子供の絵が実に多い。

立ち読みの者は、そのような持ち方(掴み方)で、大判の雑誌を開いて左右を掴み、親指は押さへたまま、四本指を中に寄せて中ほどまでを閉ぢ、片手の親指をゆるめて1枚だけ離し、反対の親指でその1枚を掴み、両手を左右に広げて新しいページを読む、というやりかたをしてゐるようだ。(文章の説明だけではわかりにくいだろうが)
ページめくりのとき、本の左右を掴んだまま中に寄せるのだが、そのとき紙は直角に近い状態に曲る。脇で見てゐると、それらの一連の動作を高速に行なって飛ばし読みをしてゐる乱暴な者もある。そのために本を傷めるのだらう。
単行本では、カバーを上にずらしたまま棚に戻してあるのがあるが、本を立てて掴み持ちしてゐるので中身が下がるからだらう。
女性の場合は、そんな乱暴なことはせず、扱ひも丁寧な人が多い。

では、正しい本の持ち方、本の持ち方の手本とは、どのようなものであるべきか。じつは恰好の手本がある。

誰でも知ってゐる二宮金次郎の像である。手本は二宮金次郎 といふわけだ。

二宮金次郎の像は、背中に薪を背負ひ、左手の手のひらを胸の下で上に向けて水平にし、その高さで、手のひらの上に開いた本を載せてゐる。本は、やや手前が低くなるが、ほぼ水平である。和本は軽いので、片手に載せるだけでじゅうぶんである。
ページをめくるときは右手の親指で、左ページの下から右へめくる。
小さい本などで、すぐに閉ぢてしまいやすい場合は、左手の親指の先で、本の表側から軽く押さへる。

最近の本は、紙が硬く、製本も接着剤で固めるだけなので、ページを開きにくいといふ問題もあるのだらう。
欧米人では、小型の本や手帳を持つときは、片手で、手のひらを顔に向けて胸の高さに立て、本の下から、親指と小指を本の表に出し、残りの指は裏側で本の背のあたりを支へるといふ人が多いようだ。この場合は、軽く挟むだけなので、本は立てたほうが安定する。
【倚松帖より】

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東日本大震災から5年半


東日本大震災から5年半。
また、同時に起きた東電福島原発の大事故は、戦後日本の最大の挫折といふべきなのだらう。

岩手県のどこだったか、海岸より少し高いところに明治時代の津波のときの石碑があり、この場所より低い所に家を建ててはいけないと文字が刻まれてあるらしい、といふことを最初に知ったのは、2003年ごろのNHKテレビ番組だった。文字は和歌の形式の文句であり、番組録画をしてし、自サイトの「歌語り風土記」に追加しようと思ったのだが、HDレコーダーは買ったばかりで操作を誤って消してしまった。

震災後まもなくのころ、漫画家の水木しげる氏が週刊誌でこの石碑のことにふれ、昔の人の言葉は貴いのだから守らなければいけないと語るのを読んだ。実際は明治の戒めは守られずに、津波の被害は繰り返されたのである。
そのころ、宮本常一の本で、昭和初期の東北の津波の記録を読むと、塩釜付近の海岸地域の略地図が掲載され、津波被害を受けた範囲が図示してあった。この地もその後に海に沿って集落ができた。
なかなか表現が難しいのだが、昔の漁師たちは海で死ねたら本望といふ気持ちがあったのかもしれない。現代人とは多少異なる死生観があったのだらう。死後の世界がより身近なところに存在したような、江戸時代の子返しなども、現代の価値観で批判するのは問題がある。
石碑の戒めは、新時代のインテリによるヒューマニズムなのだと理解できる。
【倚松帖より】

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8月8日の陛下のお言葉


8月8日の天皇陛下のお言葉から1か月になる。
国民の反応は、非常に多くの人々が、天皇陛下にはこれまでじゅうぶんお世話になってきたので、今後は御公務の御負担を減らして差上げたい、皇太子殿下もじゅうぶん立派な後継者でいらっしゃるではないか、国民から陛下に感謝の気持ちをお伝へする方法はないものか、などなど、陛下への親しみと敬意に満ちたものであったことは、喜ばしいことだった。

陛下は、天皇としての実に多くの御仕事をされてきた。たとへば

御田植。御自身で田に入り、御田植をする行事である。国民にとって、農業や米の大切さを諭されていらっしゃるように見える。これらは豊作を祝ふ秋の新嘗祭など一連の神事と一つながりのもの。

沖縄や南方諸島を訪問され、戦没者の慰霊、そして平和の大切さ。

全国植樹祭では、両陛下による「お手植え・お手まき」行事があり、国民は緑の大切さをあらためて実感する。

被災地を御訪問され、不幸な境遇の人々には全国民が手を差し延べなければならないと国民は思ふ。

福祉施設への御訪問、そのほか・・・・。

今年の全国植樹祭では、長野市での中央式典のあと、C.W.ニコルさんの「アファンの森」を訪問された。これまで世間からはやや変人扱ひされてゐたニコルさんにも、陛下は理解を示された。そのむかしの昭和天皇と南方熊楠のことを思ひ起こした人も多からう。
昭和四年の天皇行幸のときに御言葉を賜ったときの歌。

  一枝も心して吹け、沖つ風。天皇(すめらみこと)のめでまし森ぞ 南方熊楠

昭和三十七年、再び南紀を行幸された昭和天皇の御製。

  雨にけぶる神島を見て、紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ

キリスト教や仏教には、キリストや釈迦の時代に成立した古い時代の「教典」といったものがあるそうだが、日本の神道には、同類のものはないといふ。しかし国民それぞれの時代に、天皇陛下や皇族のお姿のことを、国民が思ふとき、教典に比すべきものは発生してゐるのである。ちょうど伊勢の神宮の建物が、どの時代でも瑞々しい存在であり続けるように。

また、陛下のお言葉の端々には、特別な暖かみのある、まさに天皇としてのお言葉使ひといふものがあるよう思ふ。古典語の世界では天皇だけに係る特別な敬語法などが研究されてきたと思ふが、現代語ではどうだったらうか。それは昭和天皇時代から今の陛下へと作り上げてこられたものとは思ふのだが。

(古典文法の世界では「自尊敬語」などと名付けられたものなどがあるようだが、自尊敬語といふ名付けのしかたは何とかならないものか)

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「元首」といふ言葉があるようだが、ラテン語の語源を調べて見ても、もとは軍事指揮官の意味である。ヨーロッパの王室は、日本で言へば、源氏や平氏、足利や徳川、すなはち征夷大将軍と比較されるべき時代背景のあるものともいへ、20世紀以後は、軍事や政治権力から遠ざかり、日本の皇室へ引き寄せられてゐるかのようにも見えるわけである。
【倚松帖より】

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新ブログ「倚松帖」


本年(2016)8月22日より
倚松帖 といふブログを始めました。 http://wishyou.nire.main.jp/


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献花の持ち方、左高? 右高?


戦没者追悼式などで、行なはれれる献花について。
これは、日本独自の新しい慣習のようである。おそらく、神道の玉串奉奠などを参考にはしたが特定の宗教色にならないように考案されたもののように思はれる。

 

欧米でも献花はあるようだが、日本の献花のように1輪ではなく、花束を捧げることが多い。花束の持ち方は当然、左高(左が花で高く持ち、右は根元を低く持つ)である。勲章やアクセサリーを左胸に着けるように、花束も花が左胸になるように左高である。日本でも玉串は左高に持ち、歌手などが花束を持って歌ふときなど左手で左高である。

 

ところが、日本の献花の作法では、統一はされてゐないが、右高が多くなってゐるようなのである。
Googleの画像検索を試みてみたら、解説イラストの上位10件のうち、8件が右高。左高は2件のみだった(昨年)。

 

「冠婚葬祭」のマナーやら作法やらについてネット検索してみると、著名と思はれるサイトは、
「冠婚葬祭マナー百科」 http://5go.biz/kankon/ † 「献花の作法
である。他は葬儀ホールなど企業サイトのページばかり目立つのだが、このサイトは自動広告は入るものの、ネット上では長期にわたって支持のありそうな「老舗」の印象がある。この「冠婚葬祭マナー百科」では、献花の花の持ち方は、左高だと言ってゐる。「玉串の捧げ方に準じます」とも書かれてゐる。多くの企業サイトは右高だといふが、「冠婚葬祭マナー百科」では左高である。

 

そこで思ふのは、日本の献花も、最初はやはり、左高が普通だったのではないかといふことである。

 

日本の玉串も欧米の花束も、左高に持つ。利き手の右手でしっかり茎を持ち、左手は花に近い位置を下から支へるといふのが自然な形だらう。

いつから右高が広まり始めたのか、写真資料が多ければ調べることも可能かもしれないが、見つからない。
日本で右高だといふのは、どのような理由付けが想定できるだらうか。

あるいは、政治家でも左高の人の写真も見つかるが、最近の総理大臣は右高が実に多い。政治家の発想としては「右肩上がり」が好ましいといふ縁起担ぎで始まったといふ説(?)もあるかもしれないが、いかがなものだらう。 

 

最初のころ、葬儀などで、係員は左高に持ったが、手渡しの作法を教へてもらってないので、そのままスーッと参列者に差し出した。参列者は、受け取ったときは右高になり、献花などは慣れてないので、そのまま献花台へ歩いて行った。

これが可能性としては高いような気がする。(手渡すときは左右を持ち替へてから渡すと良いのだが……)

 

なほ、天皇皇后両陛下の場合は、花束は左高にお持ちになるが、前へお進みのときなどで、ときどきまっすぐに立ててお持ちの写真がある。国民の意見が統一されてゐないのでそうなさるかのようでもあったが、そうではなく、神道儀礼での陛下の御玉串は、大きさも"特大"で、垂直に立てたまま御奉奠になるので、それを連想した次第である。


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