逆さ言葉の「入間様(いるまよう)」

『入間川』という狂言がある。
ある殿様が武蔵国の入間川まで来て、川を渡ろうと思い、土地の者に浅瀬はどこかと聞くと、ここは深いと言う。殿様は、場所が入間なので入間様(いるまよう)の逆さ言葉なのだろうと考え、本当は浅いのだろうと川へ入ると、深みにはまってしまう。
びしょぬれで岸に上がった殿様は、怒って男を成敗しようと言い出すが、男が言うには、「成敗」とは入間様なら「助ける」という意味だと喜んでみせる。殿様はそれを面白がって、褒美を与えるが、褒美を与えたことも入間様だと言って取り戻すという話。

こういう逆さ言葉、アベコベの言葉は、子どものころの遊びで、よく言い合って遊んだことがある。

16世紀に書かれた『廻国雑記』という紀行文に入間川の逆流のことが書いてあったのだが、紀行文の作者は、川が逆流すると言われて信じたのだろうか、と思ったが、そうではないともいう。
入間様は「入間詞(いるまことば」ともいい、「大辞林」には「入間川が逆流することがあったので名づけられたとする説もある」と書かれる。入間川の逆流のほうが元だというわけである。

「廻国雑記」は、入間川が逆流する話を載せ、それも一理あるといい、入間詞について「申しかよはす言葉なども、かへさまなることどもなり。異形なる風情にて侍り」と書く。
つまりは入間詞があるくらいなのだから、川も逆流するのだろうというわけなのだが、川の逆流の話は伝聞のようである。となると、やはり逆流より入間詞のほうが元であって、あるいは特殊な方言が通じなかった経験から話が拡大していったようにも思えるが、よくわからない。
「廻国雑記」の作者の道興の歌は、良い歌である。

 立ちよりて影をうつさば、入間川、わが年波もさかさまにゆけ  道興

歌だけをみると、川が逆流しているのを見て詠んだようにも見えるが、紀行文の本文を見れば、そうではない。歌というのはそのように作られるものでもある。
しかし逆流する川があっても良いかもしれない。各地にある「逆川(さかさがわ」という地名については、どうなのだろうか。
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