鳥と耳寄りな話

8/22の「鳥の名をもつ王」でふれた日本最大の古墳、仁徳天皇陵は、百舌鳥耳原中陵(もずみみはら-の-なかのみささぎ)とも呼ばれる。「モズ耳原」の言われについては、日本書紀に説明がある。
その概略は、御陵の造成のとき、突然どこからか耳の裂けた鹿が現れ、急に気を失って倒れた、というより鹿は急死したのであるが、その鹿の耳の中から耳を食い破ってモズが現れ出て、飛び去って行った。だからそこを百舌鳥耳原という。耳の中からモズが飛び出すとは奇妙な話である。
平林章仁氏(『鹿と鳥の文化史』)によると、土地の地主神の霊をモズに託して立ち去ってもらったことからくる名前だろうということは前記の記事で紹介した。

耳の裂けた動物には、諏訪の七不思議に数えられる鹿など、いくつかあるようだが、柳田国男によると、それは神に捧げられるために選ばれたしるし、聖別された動物である証拠に耳が裂かれたのだろうという。魚の場合は片目の魚が聖別された魚である。鹿や猪は古代から食用にもされた。百舌鳥耳原の鹿は、土地の神の霊を体現した鹿ではあるが、同時に土地の神に捧げられたものでもあったのだろう。

なぜ耳からなのだろうと思う。「言うことを聞かない子」という言い方があるように、「聞く」とは物理的な音声を感覚するだけでなく、その言葉の意味を理解して正しく判断することでもある。10人の発言を同時に聞いて理解したという聖徳太子は、したがって人の力を越えた能力をもち、神仏そのものに近い存在と理解されたのだろう。
それは、発した言葉がそのまま現実となるという言霊(ことだま)の考へ方の、別の面を言っているようにも思う。いつの時代も言いたいことを一方的に言うだけの人間はダメな人間である。聞く耳を持たねばならない。
延喜式祝詞に「高天原に耳振り立てて聞く」とあるのは神々の言葉を人々が聞くということだが、耳が神々との交信のための器官なのだろう。月読尊(または須佐之男命)は口から出されたものを汚らわしいと言ったが、耳から出たものは最も聖なるものなのかもしれない。

狩りの人々の習俗では、捕獲した猪や鹿の耳を切り取って串にさして立て、神々の恵みに感謝を捧げたという。獲物の一部分を神に献上するという意味でもあるが、その耳とは、耳から立ち去ったモズそのものであり、神々の霊そのものなのだろう。神の霊が山に帰ったことを確認してから皮や肉を処理するのだろうと思われる。

山の木を切るときも、トブサ(鳥総)を立てて山の神や樹霊に感謝を捧げたという。万葉歌に歌われる。

  とぶさ立て船木きるといふ能登の島、山今日見れば木立繁しも  大伴家持
  鳥総立て足柄山に舟木伐り、木に伐り行きつ。あたら舟木を   沙弥満誓

「あたら」とは「貴重な惜しいもの」の意味。
トブサとは切り倒した木の枝の一部をその根元に挿し木のように挿し立てることらしいが、それは木にとっての耳のようなものなのだろう。そしてそれはやはり「鳥総」と、鳥の名で呼ばれるのである。
関連→鳥柴の木
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