仏教のことば、神道の言葉

ひろさちや氏に、"知らずに使っている仏教からきた日常語"といったような内容の本があったような記憶があるので、書棚を探したら、同氏の監修による『仏教のことば 早わかり事典』(主婦と生活社)があった。

食堂、大袈裟、普請、勘定、会釈、行儀、行水、ろれつ、……、そのほか、仏教にゆかりする日常語が多数解説されている。たとえば会釈とは、「利会通釈」の略で、矛盾するかに見える理論を照らし合わせて相通じる意味を求めること、転じてお互いが理解しあい心配りをすること、という説明がある。

日本人の宗教のもう一つの重要な柱に神道があるが、神道からきたこのような言葉を探すのは意外にたいへんかもしれない。
最近よく耳にする言葉では、官僚のアマクダリとか、当選した汚職議員のミソギは済んだとか、良い言葉ではない。古くからの言葉ではオハライ箱というのがあり、伊勢神宮の御札を納めた箱のことで、御札は1年でとりかえられて御用済みになるからそういうとの説もあるが、別の説もある。仏教からの言葉でもオシャカになるという。

仏教の言葉は、外来した当時のまま語形が変化しないで残っている。行燈などは読み方まで中世のままである。それに対して大和言葉でものの名前を言ったとき、あまりに日常語すぎて語形が変ったり、言葉そのものが入れ替わったりしてしまう例も多い。行燈そのものは特に仏教というわけではないのだが、仏教とともに外来したときのインパクトがそのまま残ったのだろうか。

それでも神道らしい言葉を探すと、まづ「から」がある。"一族"という意味の同胞(はらから)、輩、朋がら、そして、人柄、家柄、さらに神柄という言葉もあった。似たような意味の「スヂ」は、血筋のほか、沖縄のスデ水などとも通じる。胡座(あぐら)や櫓(やぐら)の「くら」も神座と関係する言葉である。

名詞ではなく動詞という観点からみると、日本の神名、特に女神の名に、動詞と言える言葉がそのまま使われている例が多いのに気づく。天照大御神、下照姫、玉依姫、木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)、宗像の多紀理姫(たぎりひめ)と湍津姫(たぎつひめ)など。

良い意味の言葉に出会っても、文学的情緒的に感動してしまって、分類してメモしておこうという気持ちにならないのも大和言葉なのかもしれない。
いづれにせよなかなか先が見えないでいる。
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