障害者と神話的作法、女人救済

身体障害者をテーマにした小説などを書きたいと思ったとき、実在の人物をモデルにすることが憚れることもあろう。モデルの人物を詮索されないためにはどうすればよいか。それは、物語の背景となる時代を、現代ではなく、遠い過去の時代の歴史物語に変えてしまうのも一つの方法だろう。歌舞伎の忠臣蔵が南北朝時代の話として書かれたように、である。歴史上の人物・古い物語の中の人物と、書きたい人物とか重ね合わされたような人物として書くやりかたもある。ともかく、障害をもったまま亡くなる人への供養が大事だ。

記紀の神話の時代から、障害者らしき人の物語は少なくない。
「おかくじら」というブログは、よくまとめて書かれていると思った。
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2020/11/post-c1ae72.html
こういう人たちは、昔は現代のような差別とは遠く、特異な霊能力者のように描かれることも多かった。
他に、説経節などにも、同類の話は多かったと思う。


説経節については、12月の記事
http://nire.main.jp/sb/log/eid303.html
で、「『愛護の若』は、現代語の本が少ないかもしれない」と書いた。
その後、京都で発行されている同人雑誌に、現代語訳の投稿が掲載されていることを調べたので、取り寄せて読んでみた。
一般の解説によると、「愛護の若」は説経節のなかでは時代のもっとも新しい作らしく、伝わる本も浄瑠璃の形式の本だけであるという。作品に新しい時代の内容がかなり含まれるようになったと説明されるが、その「新しさ」とは何のことかの説明は、わかりにくいものだった。
その雑誌で読んだ現代語訳の「愛護の若」は、いかにも女の情念の表出といった感があり、山本健吉のいう女人救済のための浄瑠璃という印象は薄いものだった。「愛護の若」とは、継母が継子を恋慕したが叶えられず、死後に大蛇となって、のちに入水した継子(愛護の若)の身体にからみついて思いをとげるという話なのだが……、1月になってから、この話は一種の心中物ではないかと思った。愛護の若とは、心中物の萌芽ではないかと。愛護の若の「新しさ」とは、心中物への過渡のことであるとすれば、じつにわかりやすい説明になる。浄瑠璃の年表では、このあとに近松門左衛門の心中物が続くからである。現代語訳は、現代人が心中物に寄せる悲哀のイメージに沿って書かれるのが良い、という結論になる。今どきの成熟した女の少年愛ではマニア小説になってしまう。

障害者の話にもどるが、先ごろ自分の中学生時代の自作の物語や漫画類を整理してみたところ、昔話の「手なし娘」のような人物が、複数の作品に登場していた。それらは社会の障害者問題を扱ったものではなく、一種の神話的な作りかたであり、作劇法としては幼いためであろう。手塚漫画の『どろろ』の影響もあるだろう。『どろろ』とは、百鬼丸という少年が、父の欲望のために身体の百の部位を生贄として差出されたまま誕生し、父の犯した罪の贖罪として、旅を続けながら百の魔物を退治して百の部位と自らの生を取り戻すという、神話的な話である。百鬼丸の話が象徴的でわかりやすいのは、近代の作であるからだろう。古い物語ではそんな簡単にはいかないが、神話的な作法がふくまれていることは考慮しておかねばならない
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